第58話

文字数 1,734文字

 先程したお説教のせいで少し元気がなかった悠花ちゃんが、私を見つけるとニコニコしながら走り寄ってきました。

『ねえねえ、なつさん。
さっき622に入院してきた女の人、日向(ひな)さんが今お話してるんだけど、私たちのこと見えるんだよ』

『えっ?
ーーそうなんだーー』

 622といえば葉山さんのはずです。
 彼女は何度も入院してきていますが、ソウルさんとコミュニケーションしているところは見たことがありません。
 芽留(める)先生のようなタイプの人もおられますが、死期が近づいてきて私たちの姿が見えるようになったのだとしたらーー。

『悠花ちゃん、菜那ちゃん、いい?
葉山さんはお体の調子が本当に良くないーー』

『わかってる!
悠花、あの女の人にいたずらしたりなんかしないよーー。
ただ、あの人が悠花と菜那の方見てにっこりしてくれたから嬉しかっただけ』

『ねーー、菜那?』

『うん!』

 二人はそれだけ言うとまたキャッキャッと笑いながら廊下を走っていきました。



「まあちゃん、ちょっといいかな?」

 いつもなら軽口の一つや二つを叩いてナースステーションを明るい雰囲気にしてくれる城山院長の顔から笑顔が消えています。

「はい。
院長、葉山さんのことですか?」

「ああ。
とんちゃんとーー、あと、担当の看護師さんも呼んでーー」
 
 深刻そうな城山院長の表情を見るだけで、葉山さんの厳しい病状がわかるような気がして私まで気分が沈みます。
 面談室に集められた中尾師長、東主任、日向さんに向かって、城山院長が静かに葉山さんの現在の病状を話し出しました。




「失礼しますーー。
あら、寛人(ひろと)くん! 久しぶりーー。
わーーまた背が伸びたんじゃない?」

 先ほどの面談室での重い空気とは裏腹の明るさで、中尾師長が622号室に入ってきました。

「師長さん、またお世話になりますーー」

 数ヶ月ぶりに見る真弓さんは、より線が細く頼りなげな印象ですが、表情は以前と変わらず目力もしっかりとしているようです。
 ただ、前回と違うのは、真弓さんが車椅子に乗っているということです。
 ベッド脇の椅子に座って携帯を触っていた寛人くんが立ち上がってぺこりと頭を下げました。
 
 先程の城山院長の話では、真弓さんは、もういつ何時体調が急変して亡くなってもおかしくない程、病状が悪化しているということでした。
 訪問診療や看護を継続して、最期まで自宅で過ごしたいというのが真弓さん本人の強い希望だったそうですが、そばで介護をしてくれていた妹さんが体調を崩されたことと、何より息子である寛人くんの強い希望で入院になったということです。
 寛人くんが小さい頃に離婚してから、母子二人で生きてきた真弓さんと寛人くんにとって、お互いがなくてはならない存在なのは言うまでもありません。少しづつ弱っていく母親を受け入れられない気持ちは充分にわかります。ましてや母を亡くすことなど考えられないのでしょう。
 少しでも長く生きてほしい、そのために入院して出来る限りの治療をしてほしいというのが寛人くんの希望なのだそうです。
 今回の入院は、真弓さんが寛人くんの気持ちを第一に考えた上での決定なのだということが、先ほど面談室で城山院長から語られました。

「寛人、ちょっと肩貸してーー。
あっ、師長さん大丈夫ーー。
こんなことでもないと年頃の息子に触れることないんだからーー」

 手助けしようとした中尾師長より早く、手慣れた動作で介助し、真弓さんを車椅子からベッドに移動させた寛人くんに、中尾師長は感心するように言いました。

「上手いものねーー」

 頭をかきかきぶっきらぼうに、売店行ってくる、と病室を出て行く寛人くんを、真弓さんと中尾師長は微笑みながら見送りました。

「師長さん、今回の入院、無理を言ってすいませんでした」

「そんなーー。
無理だなんてーー。
先程院長から話は聞きました。
真弓さん自身はそれでいいんですか?」

「はい。
寛人が後悔しないようにーー。
私の最期はあの子が納得できる形にしてください。
院長先生はじめスタッフの皆さんには、ご迷惑おかけすることになると思うんですけどーー」

「そんなーー。
迷惑だなんて、そんなことは全く考えないでください!
これは私たちの仕事ですからーー」

 中尾師長は入ってきた時と同じ笑顔で言いました。
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