第0話 怠惰の目覚め
文字数 5,698文字
——ラ・クリマス大陸暦999年7月2日 18時過ぎ グラティア州トレラント郊外・大陸軍臨時駐屯地
「おい…何がどうなってんだよ……これ……!?」
『貪食の悪魔』の襲撃を受け城郭都市トレラントから応急的に拠点を移していた大陸平和維持軍は、その端に元々建っていた木造2階建てを女性隊員向けの救護施設として借用していた。
だが斜陽に照らされるその外観は、石膏を溶かして塗りたくったように灰色に硬化していた。
その硬化は建物の土台から周囲の草花を侵食しては塗り固め、少しずつその範囲を広げていた。
正午以降何の応答も無い施設の様子を不審に思い訪ねて来た数人の軍人が、時折軋んだり弾けたりするような音を立てながら波紋の如く広がり行く怪奇現象を前に騒然としていた。
「不用意に近付くなよ…あの灰色に触れた途端、何でも石のように固まっちまうみたいなんだ。俺ら人間も、同じ目に遭うかもしれねぇ。」
「そうは言っても、あの建物の中にいる隊員の安否はどうなってるんだ!? 療養中の者も看護する者も、何人かいたはずだろう!?」
「そのはずなんだが、声を掛けても何も応答がない…建物自体が沈黙してんだ。ひょっとしたら全員、本当に石のようになっちまって……!?」
そのとき、狼狽する軍人らを差し置いて、1人の青年が建物へと真っ直ぐに歩いて行った。
片手には古びた杖のようなものを握っていたが、歩行を補助するほどの長さも装飾の類もなく、棒切れ同然であった。
青年は大陸軍の制服を纏っていたが、それ以外に何ら特別な装備も見られず、灰色が滲む地面に足を踏み入れていた。
「おい、何やってんだ!? 危険だから今直ぐ引き返せ!!」
堪らず軍人の1人が声を荒げたが、青年が踏み込んだ足元は薄い硝子を潰したかのように脆く拉げた。
そうして悠然と玄関口に辿り着き、空いているもう片方の手で扉を重たそうに引っ張ると、こびり付いていた灰色が疎らに崩れ落ちてけたたましい音を立てた。
「…だ、大丈夫なのか……!?」
一連の様子を見てまた別の軍人が追随しようと建物に近寄ったが、そこで青年は初めて振り向き警告を促した。
「未だ灰色の侵食は止まっていない…皆さんでは容易く呑まれてしまうでしょう。ここは俺がなんとかします。その代わり皆さんには、他の誰もこの周辺に近付けないよう警戒をお願いします。」
古びた杖を持った青年は灰色に染まった建物の2階へと上がり、迷うことなく廊下の突き当りにある部屋へと向かった。
歩く度に足元は浅く砕けるように罅割れ、何人か灰色に呑まれて固まっている人影を見かけたが、一切を気に掛けることなく淡々と歩みを進めていた。
間もなくして到着した個室には、灰色に塗り固められたカーテンを隔てて1台のベッドが置かれていた。
同様に鈍く染まるベッドには、半身を起こし項垂れた1人の少女が石像と化していた。
青年はベッドの脇からその石像の両肩にそっと手を添えて、頭部に額を近付けながらはっきりと言い聞かせた。
「…サキナ。サキナ。起きてくれ……。」
そして青年が身を退いた瞬間、石像の頭部から亀裂が入り、腰元にかけて崩れるように灰色の破片が剥がれ落ちた。
中から現れた栗毛の少女は、堰を切ったように肺に流れ込む空気に驚いて激しく咽込み、立ち込める粉塵も相まって暫し苦し気に悶えた。
だが青年は部屋の窓を開けようとはせず、サキナに背を向けて呼吸が落ち着くのを静かに待っていた。
一方のサキナは痙攣しそうな上半身とは対照的に、下半身が圧し固められたように動かないことに気付き、潤んだ鈍色の瞳で戸惑いながら周囲を見渡した。
「…一体、何が……!?」
「サキナ、落ち着いて聞いてほしい。これは恐らく、君の心の中に存在する悪魔が引き起こした現象だ。」
「私の…中の…悪魔……? ……どういう…こと……!?」
「順を追って説明したいところだけど、まずは君が魔力を操作してこの建物を解放するのが先だ。そのやり方が、君には本能的に解っているはずなんだ。」
「魔力を…操作……? ……建物を…解放……?」
だがカリムが穏やかに声を掛けたにも拘らず、言葉を復唱していたサキナは憮然として肩を落とした。力無く横たわった掌が、指先からまた少しずつ灰色に塗り固められ始めていた。
「そんなことしたって……意味ないでしょ。」
消極的な態度をとるサキナに対し、青年は落ち着いた声音のまま問いかけた。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって…ラ・クリマスの悪魔の『封印』は失敗したんでしょう? ここで目覚めたとき、『陰の部隊』に聞かされた…ドランジア議長は行方を晦ませて、『封印』したはずの悪魔は変わらず厄災を引き起こして…無期限の療養を告げられた私は、事実上部隊を解任されたようなもの。」
「…もう、何も気力が湧かない。何も生き甲斐を見出せない。これまでの全てが徒労で、挙句の果てに悪魔を宿してしまったというのなら……今更何を抗おうと無駄なこと。いっそこのまま息を詰まらせて…眠るように死んでしまいたい。私が死ねば…この現象も収まるんでしょう…?」
「…君は本当に、それでいいと思ってるのか?」
「さっきから何なのよ…とぼけないで……あんたは私に顕現したっていう悪魔を『封印』するためにここへ来たんでしょ? そのディヴィルガムを使って、さっさと私を……!?」
サキナは鈍色の瞳を揺らめかせ、冷たく悪態を付きながら青年を睨み付けた。
だが青年が握る杖は先端にあるはずの隕石が失われおり、付け根部分に微小な破片が埋まっただけの棒切れに成り下がっていることに気付くと、続く台詞が引き攣った溜息に変わって零れ落ちた。
青年はその様子を尻目に、古びた杖を見つめながら言い聞かせた。
「話せば長くなるけど、色々あって隕石は砕け散ってしまったんだ。当然に俺は部隊を追放された。だからここに来たのも、君の命を奪うためじゃない。寧ろ……。」
「もういい。あんたが私を殺さないのなら…私は独りで勝手に死ぬ。」
石膏のような灰色が再びサキナの二の腕や胸元にかけて這い上がるように塗り固めていたが、当の本人は何ら抵抗することなく消沈して身を委ねていた。
そんなサキナに、青年はやや声音を低くして問いかけた。
「今ここで君が死ぬことに、何か意味はあるのか?」
その無機質な一言を受けてサキナは瞳を強張らせたが、直ぐに微睡むように視線を伏せた。
「私は…自分で始めた厄災の連鎖を止められなかった。あのとき私が村の大人達に告げ口をしていなければ…『獣人』の反感を買うことも、リオナを失うこともなかった。それが色んなことに繋がって…ピナスが悪魔を宿してトレラントを崩壊させることも…カリム、貴方がこの因果に巻き込まれることもなかった。」
「そして悪魔が依然としてこの世界で生き永らえ、この石化も因果の続きだと言うのなら…せめて私が死ぬことで…1つ終止符を打つことが出来る…。」
だがその霞みゆく視界の真ん中に、古びた杖の先端が突き出された。
サキナは反射的に瞬いて焦点を合わせたが、麦粒のような破片からは何の脅威も感じ取ることはなかった。ぼんやりとその意味を考えていると、カリムが再び語り掛けてきた。
「君には4つ、伝えなきゃならないことがある。まず1つ目は…君が抱えているであろう罪悪感と殆ど同じくらいの重さのそれを、ピナス自身も抱えていた。だからその因果は、君だけが責任を背負い込む必要はないんだ。」
予想だにしない名前を聞かされたことにサキナが動揺すると同時に、灰色の侵食が停滞して微かに罅割れを起こした。
「…何それ……まるでピナス本人から聞いたみたいに……?」
「2つ目…俺は確かに悪魔絡みで苦い経験をしたけど、今はもう何も後悔していない。この世界で起きる厄災の仕組みを…悪魔の正体を知ることが出来たから。」
間髪を入れず語り続けるカリムを見上げたサキナは、その印象の変わり具合に思わず目を瞠った。
目覚めてから真面に素顔を見ていなかったが、カリムの左目を隠していた鬱屈そうな前髪は粗雑に切り落とされ、瞳は黄金色の輝きを湛えていた。
それだけではなく、黒かったはずの右目も同じような黄金色に染まっており、ルーシー・ドランジアの面影とそっくり重なっていた。
「貴方…その目……!?」
「3つ目…今の君になら、これが見えるんじゃないか。」
カリムがそう言って徐に杖を掲げ、サキナがその先端を視線で追った。
すると日が暮れて暗くなりつつある室内で、金色の塵のようなものが天井を擦り抜け流れ込んでいるのが解った。
粉雪のように漂いながらサキナに降り注がれているにも拘らず、カリムに指摘されるまで全く気付くことがなく呆気に取られた。
「それが魔力の素…壊月彗星から降り注ぐ、魔素と呼ばれる物質。人の心に棲む悪魔が養分として取り込み、魔力の源にするんだ。魔力に目覚めていない人には、存在すら認識出来ない…まぁ魔力を発揮出来る人も酸素同然の物質を態々視認しないから、見えなくても可笑しいことはないけどね。」
「どういうこと…? …何で貴方がそれを…? …貴方にも悪魔が宿っているっていうことなの…!?」
鈍色の瞳を丸くして慄くように尋ねるサキナに対し、カリムは明確な答えを持ち合わせていなかった。
ディヴィルガムが損壊し、湖底で暗闇に呑まれたはずのカリムは、いつの間にか地上の茂みの中に埋もれていた。
自力で氷穴の階段を上った記憶も疲労感も無く、膨張する空気圧に圧し上げられたとしか思えなかった。
その証拠に、未明のラ・クリム湧水湖で不自然な爆発があったという報道が駆け巡っており、氷穴は跡形もなく砕かれて消滅していた。
カリムはセントラムの混乱に紛れて自力で帰路に就いていたが、その道中で魔素を視認し、右の瞳が変色していることに気付いた。
その原因が度重なる悪魔の『宿主』達との接触なのか、湖底で菫色の靄に何かを吹き込まれていたのか、伯母であるルーシーの魔力に曝され何らかの影響を受けたのか、特定することは不可能に思えた。
それでもカリムは胸の高鳴りを感じ、視界が嘗てないほどに鮮明に磨き上げられているのが解った。
余計な前髪を切り落とすと、世界が何倍にも広がって見えて、自分が探し求めていた生き方を大胆に受け入れて貰えるように思えた。
「俺はもう『陰の部隊』じゃないけど、これからも厄災の無い世界を実現するために生きていく。魔素を振り撒く壊月彗星と、それをセントラムの地底深くで吸収する巨大隕石…どちらかを無効化すればその野望は叶う。」
「これまでの因果も、犠牲にした命も須らく活かして、繋げていく。そのためには…サキナ、まずは君の力を借りたいんだ。それが、最後の4つ目。」
黄金色の瞳を煌めかせたカリムが、古びた杖を持ち替えて空いた右手をサキナに差し出した。
だがサキナの両手はベッドに横たわり固まったままで、ほんの一瞬惹かれた眼差しは直ぐに陰った。結局サキナは気後れするように返事を寄越していた。
「何それ…想像するだけで憂鬱になる。第一、私が手を貸したところで何になるっていうの。」
「勿論2人だけで成し遂げられるとは思ってないし、何十年何百年と掛かることになるかもしれない。それでも、1人だけでは何も始まらないことは確かなんだ。俺はこの因果を、半端に終わらせることだけはしたくない。」
「だから、それなら2人目は私じゃなくたっていいでしょ。同じ話を信じさせるなら、別に誰でもいいわけじゃない。」
「いや、でもそうしたら君は…また石化してしまうじゃないか。」
「だったら…それが解ってるんだったら…!」
「…ちゃんと連れ出してよ、私を……!」
サキナは俯き加減に喚いたと思えば、感情を押し殺すように声音を震わせた。
カリムは癖のある栗毛を垂らせて表情を隠される一方で、灰色に固まっているはずの彼女の右腕がほんの僅かベッドから浮き上がり、うっすらと皹が入っていることに気付いた。
今更ながらベッドに半身を起こすサキナは、虚弱で真面に運動が叶わず寝たきりだったリオと重なって見えた。
その瞬間、清算したはずの後悔の1つが不図心の奥底から湧き上がり、今度こそ間違ってはならないとカリムを突き動かした。
サキナの冷たい右手を握ると忽ち灰色がカリムの手にも侵食してきたが、臆することなく握り締めながらはっきりと伝えた。
「サキナ…君が必要なんだ。俺と一緒に、生きて欲しい。」
そしてサキナの右腕を引っ張り上げると、その腕から腰元にかけて、更にはベッド全体に亘って亀裂が奔り、灰色が騒々しい音を立てて砕け散った。
予想外の軽い手応えと大きな皹割れの音に驚いたカリムは、尻餅を付くように体勢を崩した。
一方で爪先まで自由を取り戻して前のめりに引かれていたサキナもまた、カリムの上に突っ伏すように倒れ込んだ。
再び舞い上がる粉塵に2人は暫し涙目で咳き込んでいたが、軈てサキナはカリムに跨ったまま乾いた笑い声を零した。
「あはは! 本当に…下っ手糞ね! ……でも、ありがとう…カリム。」
すっかり日が暮れて、今宵も壊月彗星が東の空から昇り始めていた。
昨日からほんの僅か遠くなった妖しき天体は、自然の摂理として永劫廻り続けることを星に住まう誰1人として疑う余地がない。
況してやその天体から降り注ぐ物質が、厄災という悍ましい力を生み出す素となっていることなど知る由もない。
それでも昨日までに叶えられなかった数々の願いを紡いでいった先の遠い未来では、その摂理を脅かそうと大陸の民が画策するときが訪れるかもしれない。
無論、大陸の民が手を伸ばすのは大地の地下深くに埋没していると思しき巨塊であるかもしれない。
いずれの可能性に近付くかも解らない、零から出発する男女2人の後ろ姿を、壊月彗星は静かに見つめていた。
「…ねぇ、どこか行く宛はあるの?」
「行く宛はない…けど、帰る場所ならある。独りだと余りある場所がね。まずはそこでゆっくり話をしよう…時間は未だ、沢山あるんだから。」
—完—
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