あからさまに不安を
煽る
台詞にロキシーは戸惑いを浮かべたが、ネリネは身を堅くして何かを
牽制するような鋭い
眼差しを
湛えていたので、釣られるようにしてその視線を
辿った。
すると黒一面の海とは反対側、大きな建物が並ぶ広い道沿いに、イリアとステラの姿を捉えた。
距離にして
凡そ20メートルほど離れていたが、早くもネリネとイリアが
睨みを
利かせ合っており、その
一触即発の様相をロキシーは
戦慄きながら見守らざるを得なかった。
大人である2人が何のために自分たちの前に姿を現したのかは、
訊かずとも想像に
難くはなかった。
——やはり気を悪くしておられるんだわ。私達が何も正当な理由なく離散していったから。…でも、きっとネリネ嬢様は…。
「何の用かしら? 慣れ合うつもりはないと言ったはずだけど?」
案の
定ネリネは反発の姿勢を維持するように切り出していた。他方のイリアもまた、威厳を
伴う
凛とした声音で応戦し始めていた。
「
貴女方こそ宛もなくこの世界を
彷徨うよりは、共に何をすべきか考え動いた方が建設的だと思わないのか?」
「
愚問ね。あの妙な
訛りで
喋る眼鏡の人と『
獣人』の子は
易々見逃したくせに、私達のことは何の根拠もなく引っ捕らえようとするの? …ああ、見逃したというよりは見捨てられたって言い表すべきなのかもしれないけれどね。」
ネリネの悪意のある言い回しと
嘲笑を
傍らで見聞きするロキシーの内心は、更に
焦燥を
駆り立てられていた。
ただでさえ生前の経験から大陸軍人には苦手意識があったにも
拘らず、
如何にも厳格そうなあの女隊長の怒りをこれ以上に買い、叱責され、
咎められる
顛末を想像し密かに
怯えていた。
当のイリアは
未だ冷静さを保っているのか、落ち着いた様子で語り続けていた。
「リヴィア
女史はアーレアの職員であるとともに、グラティア学術院を卒業された研究員でもある。私自身も生前業務の一環で面識があり、
為人は知っている。そしてラ・クリマスの悪魔や厄災に関して、我々の中でも特に精通しておられる。恐らく何か手掛かりを
掴んで調査に出ておられるのだろう…単独である方が何か都合が良いのかもしれない。」
「
故に、いずれは戻り何らかの
有意義な情報を
齎していただけるものと考えている。もう1人、ラピス・ルプスの民であるピナス・ベルには先程協力を取り付け、例の広場にて待機をしていただいている。…つまり、あとは
貴女達の協力を得ることで、
漸く
皆の足並みを
揃えることが
出来るのだ。」
これを聞いたロキシーは、思っていた以上に自分達が
逸れ者であることを痛感させられていた。
当初は
皆殆ど生まれも境遇も別々であるように見えていたはずが、気付けばイリアを中心に連携が築かれつつあり、彼女に
連ならない自分達が間違っているのだと思い知らされるようであった。
だがネリネは一向に、従属しようという意思を示そうとはしなかった。
「それは
貴女の単なる自己満足じゃなくて? せめて目的がはっきりしてから協力を要請するべきでしょう。まぁドランジアを殺せだの何だのに関わりたいとは、
微塵も思わないけれどね。」
「確かに
未だ我々が何をすべきかは判然としていない。だがドランジア議長を殺せとあの場に居た7人が漏れなく不気味な
教唆を受けているにも
拘らず、知らぬ存ぜぬと
等閑にし続けることがより妥当な選択肢だとは思えないな。」
「我々が何らかの理由があってこの世界で目覚めたことは確かであり、不測の事態から
各々が身を
護るためにも最低限の意思統一が必要だと考えているが……それともネリネ嬢、
貴女の方こそ何か明確な目的をお持ちだと言うのか?」
理路整然と説得に努めるイリアが逆に名指しで問いかけると、ネリネはまたばつの悪そうな顔をして視線を
逸らした。
「目的なら…あるわよ。少なくとも無限に時間があるわけじゃないことは
解ってる。でも
貴女達に関係がないことに変わりはないし、
自分の身も自分で
護れるわ
。」
その
意固地な姿勢に、ロキシーはただ案じて付き添う他なかった。大型船から舞い戻ってきた際は何か危機感を察知していたように見えたが、それについてイリアに明かす
素振りもなかった。
だが本気で自分達を連れ戻そうとするイリアに対し、現状では言い訳が苦しいことも認めざるを得なかった。
——ネリネ嬢様は、一体どうされるおつもりなのだろう。目的なんて、私も
未だに何も聞かされていないのに。
すると、遠くからイリアの小さな溜息が確かに聞こえた。そして
臍を曲げ続けるネリネに対し、一歩踏み込んだ質問を投げかけた。
「確かネリネ・エクレットは箱入りの貴族令嬢であると生前は聞き及んでいた…そんな
貴女がグラティアで土地勘があるとは思えないのだがな。まさか観光気分で散策しているわけではないだろう。一体何を宛にして歩き回っているというのだ?」
その指摘を受けるや
否や、ネリネの身体が
解り
易く
強張った。だが何も言い返さなかったので、イリアは何か試すように質問を続けた。
「私達を前にして
分が悪いのであれば、
何故地の利がある故郷メンシスに『転移』しないのだ? リヴィア
女史やピナス・ベルがそうしたように、また私がステラを
伴いここへ現れたように、
貴女にもそれが
出来るはずではないのか。」
ロキシーはイリアの指す『転移』が、あの奇妙な
靄に全身を包まれるような現象であることを察していた。恐らく自分自身も同じように、
馴染みのある場所へ転移することが
出来るような気はしていた。
それはネリネも例外ではないはずであり、
敢えて転移をしないことに何か理由や目的があるのだろうと推し量っていた。
他方でそのネリネは徐々に
俯き加減になりながら、
絞り出すような声音で反論していた。
「
随分な当て付けをしてくれるじゃない…私が記憶しているメンシスの街は、
疾うに壊滅して跡形もないのよ?」
「壊滅させたのは
貴女だろう。それでも生まれ育った故郷であれば、変わらなかった場所や近郊の地形は覚えているものではないのか。現に私は一度しか足を運んでいない場所にも転移することが
出来た。本当に
貴女は、メンシスへの帰還を試したのか?」
「本当にしつこいわね…私が素直に故郷に帰らないことがそんなに
可笑しいっていうの!?」
「…そうだな、確かに奇妙だと思っている。
貴女は私が
嘗て面識を持ったネリネ・エクレット嬢と、印象が
著しく
乖離しているのだからな。」
イリアがネリネの人格そのものに疑念を掛け始めたので、さすがのロキシーも非難の言葉を投げ返したくなった。
いくら
意固地を貫いているとはいえ、大陸軍の隊長を務めていたはずの大人が安易に人間性を
口撃することが信じられず、受け入れられなかった。
だが当のネリネは口答えするどころか地に手を着き、肩を震わせながら
蹲る格好になっており、何かを
堪えているのか明らかに容態が急変したように見えた。
そのためロキシーは慌ててネリネの前に
屈み込み様子を
窺おうとしたが、
傍目では彼女の
流麗な金髪が、
何故か少しずつ毛先からうねるように乱れ始めていた。
「ネリネ嬢様、大丈夫ですか!? どこか具合が悪いのですか……!?」
声を掛けようとしたそのとき、不意にネリネはロキシーに着させていたドレスの腰元に右手を忍び込ませた。
そして引き抜かれた手には鋭いナイフが握られていたので、ロキシーはあまりにも物騒な仕込みに思わず悲鳴を上げそうになった。
だが
透かさずその口元をネリネが左手で
塞ぐと、イリアから見て自分がロキシーの
陰に隠れていることを確認しつつ、声音を押し殺して冷淡に指示を下した。
「…あの口
煩い隊長は
あたしが
ぶっ飛ばす。
あんた
は合図したら建物を回り込んで、もう1人の女の方をなんとかしてみせなさい。」
懸念していた衝突とその共謀要請にロキシーは目を見開いたが、ネリネの揺らめくような空色の瞳に呑み込まれ、
微かに
頷くしかなかった。
一方でその張り詰めた空気を
突き割るかのように、
尚もイリアが追及を続けていた。
「メンシスで厄災が起きたあの日、私は部隊を率いてエクレット邸を訪ね、その際ネリネ嬢とも
挨拶を交わしていた。だが
貴女は私のことなど一切知らないようだったし、
只管に
他人との関わりを
忌避しているように
窺える…まるで何か
襤褸が出ることを恐れているようだ。
貴女は一体、何者なんだ?」
「……今よ。」
囁くような合図と同時にロキシーとネリネの間の空気が急速に膨張して弾け、ロキシーを押し出しながら猛烈な追い風に乗ったネリネは、ナイフを
翳しながら20メートルほどのイリアとの距離を
瞬く間に詰めた。
他方のロキシーもまた弾けた風圧に放られるようにして道角の大きな建物の陰に追い
遣られ、態勢を崩して転んだ。だが痛みを感じることはなく
直ぐに身を起こすと、建物の奥の角を曲がって走り出した。
沿道に並ぶ建物を
迂回して指示通りステラの後方に回り込むため、ドレスの
裾をはためかせて重たい脚を無理矢理動かしていた。
——なんで私、こんなことをしているんだろう。本当はあの隊長さん達の言うことを聞いた方がいいはずなのに。争う理由なんて何もないはずなのに。
ロキシー自身にもこの世界で目覚めた際、何者かが背後に張り付き言い聞かせるかのように『ドランジアを殺せ』という言葉が脳内で
木霊していた。
確かにあのときリンゴを直接手渡してきたルーシー・ドランジアは、悪魔を宿す標的として自分を見定めていた事実を認めざるを得なかった。
だが彼女が語った言葉自体に悪意があったとは思えず、
寧ろ
歪んだ観念を正そうと
窘めてくれたことに感謝すべきであり、結果として
憎悪に
塗れたような
教唆に応じたいとは思えなかった。
その一方で、イリアやステラに従属することにも
気後れしている自分がいた。
この2人も自分と同じように何らかの厄災を引き起こした身だと認識しつつも、大勢の罪なき人々に危害を加えた自分が並び立ち関わることに、明らかに及び腰になっていた。
——きっと私は責任感とか倫理観とかから
疾うに
懸け離れてしまっていて、見るからに立派なあの大人達を直視
出来ないのかもしれない。
足手纏いになりそうで、居た
堪れないだけなのかもしれない。私に
出来ることは…ただ使用人として身の回りの奉仕をすることだけだもの。
鬱屈した言い訳を並べ立てていると、建物を挟んで反対側から
唸るような
轟音が聞こえて、同時に巻き上がる風に
煽られそうになった。
ロキシーが振り返った先には高く
聳える竜巻が発生しており、周辺の建造物を引き
剥がすように崩しながら発達しているのが
解った。
そしてその発達を抑制するかのように白い天井から雷撃が降り注いでおり、
宛ら天変地異を思わせた。
風を操るネリネがイリアと
愈々悪魔の力をぶつけ合っているのだと推察すると、ロキシーは耳を
劈く衝撃に
慄きながらも意を決して脚を動かし始めた。
押し付けがましい同行を許し、上等な衣服まで提供してくれたネリネに
報いる機会と解釈してもよかったが、ロキシーの胸の内にはそれ以上に明確な意思が生まれていた。
——あの
御方のことは
未だよく
解らない。でも、あの
御方を
独りにすべきでないことは確か。今はそのために尽くすことが、私にとってきっと正しいことなのだと思う…一介の、使用人として。