浮遊したリリアンは再び竜巻を構成しながら、
草臥れた人形のような
刺客の
胸座を握り締めたまま、冷たく見下し
罵った。
「本当に愚かな身の程知らずね。厄災に歯向かうことがどういう意味か
解る頃には、あんたの命なんて
疾うに消え失せているのに。あたしの気に触れないまま静かに生かしてくれれば、恐ろしい厄災なんて二度も生まれないのに。」
刺客は何ら反応を返すことはなく、無機質な仮面の裏では失神している可能性もあった。
だが確かに聞こえているはずだとリリアンは確信し、蓄積していた
鬱憤をここぞとばかりに吐き出すように、語気を強めて主張を振り
翳した。
「あたしはねぇ、ただ平穏な人生を送りたいだけなんだよ! 腐った世界から隔絶されて当たり前に恵まれた毎日を享受していた…ネリネのように。
欲する物が与えられて、
欲する
儘に生きられることが人間としてのこの上ない幸せだろう? 誰だってその幸せを望んで
掴もうとする権利くらいあるだろう!?」
「でもあたしには生まれてこの方そんなものはなかった! 海賊団の首領の下に生まれたその時点で
堅気とは程遠い存在で、その親も早々に
逝って、腐った世界に縛り付けられたあたしにとって、人並みの幸せがどれだけ
眩しい夢物語だったか、あんたに想像できるの!?」
「だからあたしは、全部
何も無かったことにした
!
忌々しい海賊も、愚かなあたしの存在も、
穢れたあの港町も。…そしてあたしは、
ネリネに
成った
。腐った世界とは無縁の、平穏で
真っ
新なネリネの人生を、あの
娘の代わりに続けていくために!! 」
「そのための力が、あたしに宿ったんだよ!! だからそれを邪魔する
輩は、誰だろうと
赦さない!!」
羨望を重ねた他人に成り済ましてその人生を乗っ取り、その障害となる一切の存在を拒絶し吹き飛ばす。それが伝承されるラ・クリマスの悪魔が一体、『虚栄の悪魔』であった。
元よりリリアンはネリネに対し、何の殺意も抱いていなかった。
だがメンシスの竜巻被害から一夜が明け、海岸で意識を取り戻したリリアンは
何故かネリネが着ていたはずの衣装を
纏っていた。
その後周囲の者も
挙って自分をネリネと呼び接する様を
目の当たりにするにつれ、
自らに宿った悪魔の力の本質を本能的に理解するに至った。
なおかつその力を
以て、利用できるあらゆる手段を用いて、使命を背負うかのように
己の生きるべき新たな道を見定めていた。
「…もう二度とネリネの生涯に泥は塗らせない。
血飛沫の一滴すらその身に
被るわけにはいかない。だからあたしの正体を知るあんたは…水平線の先までぶっ飛ばしてやる!!」
リリアンは遠く
煌めく海の果てを
睨み付け、周囲の風を一段と強く巻き上げた。その快楽にも似た
轟音は、メンシスを無差別に
蹂躙して回った記憶を
朧げながら呼び起していた。
罪悪感など
欠片もない、
欠片も生じないような正当性を
捏造して、また1人の
他人の存在を
何も無かったことにする
のだと強く言い聞かせた。
今にも
胸座を
掴む左手を放せば、この
刺客は布切れのように
昏い空へと吹き飛んでいくだろうと不敵な笑みを浮かべた。
だが、
既のところでリリアンは不穏な違和感を
抱いて、その左手をより一層固く握り直した。
虚実に正当性を宿すことは
生温い
業ではないはずなのに、それがいとも
容易く許されているような気がした。
——本当に
刺客は、こいつ1人だけ?
——よく考えれば、いかに大陸議会や軍が用意周到だとしても、メンシスの竜巻被害があった翌日にあたしを
貶めるような罠を丹念に仕込めるとは思えない。けれど、こいつが何も知らず単独で厄災に挑んで来るとも思えない。
——絶対に別の
刺客は
潜んでいる。あたしの力もそのうち限界が来る。こいつを消したとしても、別の奴にその隙を突かれるかもしれない。…そのときは風を起こせないどころか、ネリネの外見を保つことも
儘ならないかもしれないんじゃ…?
その
懸念とともにリリアンが
刺客を改めて見下すと、力なく
垂れ下がっているような右腕の先で、
未だに槍のような武器が握られ続けていることに気付いた。
だがよく見ればそれは槍と呼ぶには短く、先端には鉱物のような何かが着装されていた。黒い鉱物のそれは刃物のような鋭利さはないにもかかわらず、これ以上近付けば吸い込まれてしまいそうな本能的な
忌避感をリリアンに
抱かせた。
そして
刺客はその武器の
柄を、丈夫な
紐のようなもので右手に固く縛り付けていた。
これだけはどんな暴風でも手放すことのないよう対策していたことは明白であり、その事実がリリアンの
逡巡を更に
縺れさせた。
——こいつの本当の狙いは、この妙な武器を使ってあたしを仕留めること?
——それならナイフで右手の
紐を切ってしまえば…でもいまの姿勢からのそれはあからさまなうえに難しい。いっそのことこいつに切らせて武器を捨てさせ、
身包みを
剥いで人質に取るか? …いや、
自らナイフを手に取るとは限らないし、同じ武器が複数存在するのなら脅迫の意味も……?
そのとき、やや外側に向いていた謎の武器の先端が弾けるような火花を放ち、
蒼白い炎を盛大に
撒き散らした。
炎は逆巻く風に
載って拡散し、竜巻は一瞬にして
蒼き火災旋風と化して、内側に漂う2人に
覆い
被さった。
「ちょっ!? ……なに…これっ!?」
凄まじい熱波がリリアンを
圧し
潰すように襲い掛かり、髪やドレスが
忽ち焼き尽くされそうになった。
堪らず維持していた風の束を発散させて、リリアンは
蒼炎の牢獄からその身を即座に解放させた。
だが悪魔の力を断ち切り上昇気流を失ったリリアンは、
真っ
逆さまに雑木林へと墜落した。
真下に風をぶつけて自由落下を軽減しなければならなかったが、予想だにしない
刺客の反撃に思考判断がまとまらず、そのまま林の海へと呑み込まれていった。
静まり返った雑木林の中で、荒々しく茂みを
掻き分ける音が響いていた。
リリアンは
擦り傷だらけの身体を強引に動かして、ドレスの
裾があちこち破れることも
厭わず、ひたすら一方向へ逃走を図っていた。
——ああもう…! 何だったんだよあの青い炎…! 最初からあの展開も織り込み済みだったっていうのか…!?
現在の時刻は不詳であったが、リリアンは
壊月彗星の見えた位置が
凡そ南西であると仮定し、これと反対方向に進めば少なくともメンシスには近付くはずだと推測していた。
当初の計略とは
相反してしまうが、今となってはエクレット家の従者らに
縋って
己が身を保障してもらうしかないと判断した。
最早ネリネの外見を維持できているかどうかも疑わしかったが、それを意識する余裕すらなかった。
——道中で馬車が事故に
遭ったとでも言えばいい……とにかくあたしは…諦めない……諦めたくない。ネリネとして…これからを生きることを……!
メンシスまでどれだけの距離があるか
解らないが、周囲に
未だ
刺客が潜伏している可能性がある以上、足を止めて休息する選択肢はなかった。
——お願いだから、もう誰もあたしを
咎めないで…! あたしはただ、何にも
苛まれない明日が欲しいだけなんだよ…!!
その切望だけを活力に、リリアンは力強く握り締めたナイフを無我夢中で振り回して道を切り
拓いていった。
このナイフは父の形見でもあった。海賊団に拘束された際に取り上げられてしまったはずだったが、翌朝海岸で目覚めたリリアンの
傍らに不思議とそのナイフも漂着していた。
もしこの世界に神が存在するのなら、そのナイフを携えてこの理不尽な世界を生き抜くように
天啓が示されたのではないかと信じ込んでいたことを、不意に思い出していた。
——本当に馬鹿な話。…神なんて普段から信じていない癖に、都合の良いときだけ
託けようとするのだから。
意識が徐々に
朦朧としていくなか、息も
絶え
絶えに茂みを
掻き分け続けていたが、リリアンは
軈て少し開けた広場のような空間に
辿り着いた。
中央にある池は澄んだ水を
湛えており、
水面には
壊月彗星が
綺麗に映し出されていた。
街道らしき道は
未だ見えてこないが、
一先ず水分を補給するべきだと判断し、リリアンは池の
淵にへたり込んでその表面を
掬おうと身を
屈めた。
だが
水面を
覗き込むリリアンの
傍らには、純白のドレスを
纏った少女が
佇んでいた。
何の気配もなく
突如映し出されたその姿に目を疑ったリリアンは、
喉の渇きを忘れて恐る恐るその人物に視線を移した。
壊月彗星に照らされたその少女は、確かに自分が
羨望を重ねた
身形をしていた。
——嘘…ネリネ…? 生きていたの…?
容姿は間違いなくネリネであったが、その表情は何の感情も
湛えていないという点で、リリアンは本物のネリネかどうか見極めかねていた。
そして本物のネリネが生存していたとしたら
悦ばしいことなのか、それとも不都合なのか、
憔悴した思考回路では何の結論も導けず、ただ押し寄せる混乱の波に溺れていた。
ネリネの死をこの目で直接確認したわけではないが、
何故ここに
佇んでいるのか
解るはずもなかった。
最早何かを考えることすらもできなくなりつつあるような気がした。
『…ねぇ、
貴女はどうして私の
格好をしているの?』
不意に、ネリネの声が聞こえた。
無表情の口元が動いたようには見えなかったが、聞き慣れた透き通った声音がリリアンの脳内に確かに響いた。
否、透き通りすぎて
悍ましく感じるくらいの冷たい何かが、頭の中で不気味に
滲み、思わず震え上がった。
『何のために私の
格好をしているの?』
沈黙を許そうとしないように、立て続けに冷たい問いかけが脳内に反響する。
リリアンはネリネの
虚ろな表情に釘付けになりながら、乾いた口から
掠れた返事を絞り出した。
「あたしは…
貴女のために……終わったと思っていた
貴女の平穏な人生を続けるために……!」
『それなら、
貴女の
格好は誰がするの?』
リリアンの答えを最後まで待たずに、更なる無機質な問いかけが降りかかってきた。
その内容に
臆したリリアンは尻餅を付いたまま
後退り、ネリネに向かって思わずナイフを
翳した。
「…あたしはもう
要らないの…居なくてもいいの…居なくても誰も困りやしない…!
あたしが居なければ
、ネリネもずっと純真なままで…!!」
『それなら、
貴女はどうしてそのナイフを捨てないの?』
その右手を何か冷たい物できつく
掴まれたように、震えが止まらなくなった。
それでもリリアンはナイフを落とすことがなかったが、代わりにその右手以外の全身が徐々に崩れ落ちていくような錯覚に
陥っていた。
——どうしてって…これは単なる護身のためで……あれ…ネリネはそもそもナイフなんて持ってないんだっけ? ……でも、それじゃあ……。
『
貴女は、私のまぼろしにすら
成れない。』
そのとき、崩れ行くリリアンを押し支えるように背後を棒状の何かが小突いた。
その先端に着装された黒い鉱石はリリアンの全身に温かい波動を送り込み、柔らかく浮き上がらせるような感覚を
齎した。
リリアンは振り返ることなく、自分は結局
刺客にやられてしまったのだろうと
薄っすら自覚しながらも、
逆巻く衝動から解放されたことで
蕩けるような心地良さに包まれ、抵抗する意思は間もなく霧散していった。
そして背後に
宛がわれた鉱石に誘引されるように、憧れた純白の令嬢の姿が徐々に
霞んで遠くなっていった。
翳していた右手は
強張ることなく、
寧ろ本当に告げたかった離別の想いを送り届けようとしていた。
——ごめん、ネリネ。…あんたの人生を奪ってしまって…ごめんね……。
——ああ……もっと違う形で……あんたに会えていれば……よかったのに…。
鏡面のような
静寂を
湛えた池に、
鈍い音が響いて波紋が広がった。1本のナイフが、
昏い闇の底へと沈んでいった。
やや焦げ付いた
紫紺のローブを
羽織った何者かが、ぼろぼろになった薄桃色のドレスを拾い上げながらゆっくりと立ち上がり、何かを
訝しむように辺りを見渡した。
壊月彗星が照らすその小さな広場には、他に一切の人の気配はなかった。