強情とも受け取れるくらいの
鬱屈ぶりに、リリアンは内心
侮蔑を
抱き始めていた。
直前まで
他人が着ていた衣服であったとはいえ、上等なドレスを施され外見を
褒められたのなら、多少なりとも
悦ぶなり気恥ずかしさを覚えるなりする反応は女子として当然だろうと
僅かながら期待していた。
だがロキシーは初めから自分には飾る価値などないと言わんばかりに自虐を続けるのみで、
美麗という確かな価値を
蔑ろにする態度が、先程までの裸同然だった姿よりも遥かに
正視に
堪えなかった。
——この
娘は自分の顔を、体つきを鏡で見たことがないのか? その容姿で使用人に甘んじているだなんて、
勿体ないにも程がある。
他方でリリアンは、それ以上の
詮索は
野暮だと
自ら歯止めをかけた。鏡を見たときに
自分が映っていない
のは、自分もまた同じであったからである。
——もしかしたらこの
娘も、何か訳ありの人生を送っていたのかもしれない。死んだ後ならもう、どうでもいいことなのかもしれないけど…訳あり者同士、
徒に踏み込む
真似は控えるべきね。
リリアンは
爪弾きにするようにロキシーに背を向けると、再び黒地の街道を歩き始めた。だが
直ぐに後方から、恐る恐る呼び止める声が掛けられた。
「…あの、ネリネ嬢様。一体どちらへ向かわれるのですか…?」
あくまでも
追随しようとする自称使用人に返事を考えるのは
億劫だったが、リリアンは
素っ
気ない回答を作って寄越した。
「別に、
何処にも行くところなんてないわよ。」
「…そうなのですか?」
「だってそうでしょう。死んだはずが
何故か現実かも
解らない世界で叩き起こされて、
況してや見知らぬ人を殺せだなんて
唆されて…何の得があってそんなことをしなきゃいけないのかちっとも理解
出来ないわ。
寧ろその人を殺したら、この生きているような感覚も終わってしまうかもしれないじゃない。そんなことに労力を使うなら、せめて生前の世界に立ち返る可能性でも模索した方がいいって思っただけよ。」
少し前に目覚めた広場で聞こえていた不気味な
囁きは比較的落ち着いていたものの、
尚も背中に張り付いているかのような不快感を
齎していた。
それを
誤魔化すかのように、リリアンは万に一つもあるとは思えない
幼稚な目的を掲げていた。あのとき
窮屈な馬車で青年に語ったように、
虚しい理想を並べ立てて相手が
呆れ帰ることを期待していた。
「それは…素晴らしいことですね。ネリネ嬢様には、生前残していた未練がきっと山ほどあるのでしょうね。」
だがその期待はロキシーの物腰柔らかな応対によって
容易く
圧し折られてしまい、リリアンは
堪らずその話の流れに虚実を重ねた。
「まぁ、そうね…私は領主の娘として、交易都市メンシスを再興する義務があったもの。」
「そうですよね。メンシスが機能を停止して、大陸中大混乱だったようですし…ネリネ嬢様は命を失われても
尚故郷を案じておられるのですね。」
「…ちょっと。
貴女可笑しいって思わないの? 私は厄災を引き起こしてそのメンシスを叩き潰した張本人なのよ?」
一向に疑念が差し挟まれず会話を合わせられることが
忽ち
愚かしく思えて、リリアンは
不貞腐れたようにロキシーを非難した。
メンシスが壊滅した後の時系列を知っているのならば当然無視できないはずの事実を、
等閑にしてまで同調しようとする態度が生意気に感ぜられていた。
「はい。確かに
貴女様がメンシスのご令嬢だと
仰ったときから、そのように
愚考はしておりました。ですが…理由もなく厄災は起こり得ないものと存じます。
畏れ
乍ら、メンシスでは密輸品等が流通していたとも小耳に挟んでおりました。きっと厄災は領主様の
御息女として良からぬ
諍いに巻き込まれた結果なのではないかと、勝手ながら推し
量っている次第でございます。」
だがロキシーは純粋にリリアンの
体裁を整えようと
慎ましく私見を述べたので、リリアンはそれ以上に追及することを控えた。
厄災を引き起こした理由は決して
綺麗事でも正義感に
溢れた動機でもなかったが、都合良く捉えられているのであればそれで不満はなかった。
他方でそうして取り
繕うと、かえって自分のことを更に掘り下げられる展開に
忌避感を
抱いたので、リリアンは少し前の話題に立ち返ることにした。
「…まぁ別にどう捉えてもらっても構わないけれど。それより
貴女はどうなのよ?
貴女は生き返りたいとか思わないわけ?」
ロキシーは話を振られると思わなかったのか、一瞬動揺したのち再び委縮したように細々と答えた。
「私は…私にはそう思えません。多くの罪なき住民を傷付け、命を奪ってしまいましたし、今更償えるとは思えません。それに生き返ったとしても…恐らくもう私に居場所なんてないでしょう。」
「そういうことじゃなくて…もっと未練とか、やりたいことはなかったのかって聞いてるの。」
「やりたいこと……
強いて言うならば、誰かを愛したかった…ですね。」
愚図ついた返事に
些か
苛立っていたリリアンは、ロキシーが
捻り出した答えが
面映ゆく顔を
顰めた。一方のロキシーは視線を伏せたまま、
尚も語り続けていた。
「
極々普通の、普遍的な愛情を感じたかった。でも、私にはその方法が
最期まで
解らなかった。愛そうとした人を苦しめてしまった。」
「…謝りたい気持ちはあるけれど、もう一度会えたとして
赦されるとは思えないし、きっと何も変わらない。また別の人を愛せる時が来るのかもしれないけれど、また同じ
過ちを繰り返してしまうのかもしれない。…だからもう、いいんです。私なんかが居なくても、きっと誰も困らないんです。」
その
台詞の締め
括りは、確かにリリアンの
癪に
障った。自分が同じような言葉を吐いていたことを思い起こし明確な
嫌悪を
抱くと、反射的にロキシーを
罵っていた。
「あんたねぇ、自分を
僻むのも
大概にしなさいよ。あんたのその恵まれた容姿は、裕福な家庭で愛されていた
証なんじゃないの? それでいて一介の使用人に身を
窶すなんて自分の価値を下げる
真似をして、
挙句の果てに1つの失恋で人間不信に
苛まれるなんて…
滑稽にも程があるわ。同情の余地もない。もう少し上手に生きられる
術が、あんたには
幾らでも考えられたんじゃないの?」
リリアンは
捲し立てながら、先程
自重したはずだった過度な内心への干渉を容赦なく
敢行していたことに気付いていた。
だが自分よりも明らかに発育が良く不自由のない環境で過ごしていたであろう同年代の女性が、弱々しく
惨めに絶望に浸っている姿が
愈々受忍出来なかった。
当のロキシーが
俯いたまま両手でドレスの
生地を握り締める様子を見て、最悪この発言を機に彼女に嫌われたとしても、それはそれで構わないと覚悟していた。
——この
娘がどんな理由で、どんな厄災を引き起こしたのかは知らない。でも、死んでも自分の価値が
解らない奴を
憐れもうだなんて思えない。
暫くしてロキシーの口元からは、何か感情を
堪えるような震えた声音が
零れてきた。だがその語りはリリアンに対して怒るでも、
嘆くでもなかった。
「…そうですね。確かに私は生きるのが下手だったのかもしれません。ですが、これだけは言わせてください。私は望んでこの容姿に育ったわけでも、使用人になりたくてなったわけでもないのです。そして容姿が優れていれば、従順であれば真っ当な愛が得られるわけではないのです。…そうした
歪で抑圧的な世界があったという事実を、
細やかでもご承知いただければ幸いです。」
悄然としていたはずの彼女が講釈を垂れてきたので、リリアンの
苛立ちは更に
募った。
理不尽な境遇から
逃れるためにネリネに成り代わり、平穏な生活を享受しようとしていた自分への当て付けであるかのように聞こえていた。
当然そのような背景など知る
由もないロキシーからすれば、
我の強い貴族令嬢には理解し
難いと語る口振りに何ら無神経な点はなかった。
寧ろその態度を追及できないことが、より一層神経を
逆撫でさせられていた。
その一方でロキシーが暗に
喩えた生前の世界について、とある憶測が浮かび上がっていた。
即ち人身売買という、何か1つの理不尽に人生を
躓かされた女性を呑み込んで
手籠めにする
卑劣な商売文化が、交易都市の
陰で息をしていたことを思い出していた。
そして
自らの
過ちにより、
穢れた世界とは無縁だった1人の貴族令嬢をその深い闇に突き落とすところであったという
忌々しい過去が
脳裏に
蘇っていた。
その令嬢の
昏い
面影が目の前に立ち尽くすロキシーと重なり、リリアンは不意に襲い掛かってきた
眩暈を耐え
忍ぼうと強く歯を食い縛った。
——違う。この
娘はネリネじゃない。
ネリネが
辿るかもしれなかった末路でもない
。
——それよりもあたしの方が…よっぽど
辛辣な世界を生きてた。あたしだって望んで海賊に生まれたわけじゃなかった。体格も小柄で、髪も肌も
殆ど
潮気に
晒されて、
女々しい要素なんて何一つ持ち得なかったし必要とされなかった。経験が物を言う世界に仕方なく立たされて、
容易く見限られて売り飛ばされるところだった。
——そんな理不尽な世界を、あんたは死んでも想像できないでしょう。ずっと自分を
偽って、
誤魔化して生きてきたあたしのことなんて理解できないでしょう。だから……!
「…あんたなんかよりもあたしの方が、ずっと明日を生きるのに必死だんだから……!!」
「…ネリネ嬢様?」
ロキシーが不安そうに視界を
覗き込んできたことに気付くと同時に、リリアンは内心の
怨嗟が震えた
呟きとなって漏れていた口元を慌てて両手で抑え付けた。
「…何でもないわよ。」
自分がどれだけ
酷い顔をしていたのか
解らず
体裁が悪かったが、ロキシーは漏れていた言葉を
汲み取ったのか
透かさず進言してきた。
「あの…どうか私に
面倒事をお任せください。この世界でお
独りというのはやはり心配ですし…
頂いた衣服の
御礼もさせていただきたいです。」
その真っ
直ぐな
菫色の瞳が、
嘗て自分と対等になりたいと
儚い理想を打ち出したネリネの
面影をもう一度
彷彿とさせた。
堪らずリリアンは視線を伏せ、
呆れたような溜息をついた。
最早ロキシーを追い返そうという気力は残っていなかった。
——まぁ、この
娘も厄災を引き起こす力を持っているのなら、そのうち何かの役に立つでしょう。あくまであたしに従順でいるのなら、それを利用するまで。
——決してこの
娘のためじゃない、
あたしがあたしであるために
決めたの。
「
解ったわ。…それじゃ、行くわよ。」
ぶっきらぼうな呼びかけと共に踏み出す
裸足の後ろを、もう1人の
裸足が静かに付き添っていった。