イリアの記憶にあったネリネ・エクレットという貴族令嬢は、噂に聞いていた通りの
無垢で
呑気な少女であり、例えるなら
籠の中で
囀る小鳥のようであった。
関税法に
係る特措法の通達等のためエクレット邸を訪ねた際も、軍人と商人の分別がまるで備わっていないようで、
況してやメンシス港が密輸品の
温床となっていた実態など知る
由もないように見受けられた。
だが貴族令嬢らしく気品と礼節は
弁えていたようで、二言三言交わしただけでも何も悪い印象は
抱かなかった。
それ
故に、この世界で目覚めてからのネリネの
高飛車で反抗的な言動には
疑心暗鬼にならざるを得なかった。
何よりあの霊園を模した広場では鋭い洞察力を見せていたことも、違和感の1つに数えられていた。
生前にネリネと
相対したのは一度きりであったとはいえ、普段から人前では見せない表情を持っていたのか、
或いは厄災を引き起こしたことで人格が
様変わりしたのか、
大袈裟とも言える
変貌の原因がずっと気掛かりだった。
だが釈明もなく断固として自分達を
疎み、それでいて『転移』を実行しない矛盾点を解明するため、イリアは
敢えて踏み込んだ質問をしていた。
そこにはネリネの人格に対する認識の
齟齬の解消という個人的な理由に加えて、単純に彼女をこの場に踏み
留めさせる意図もあった。
そして同伴させていたステラにはネリネとロキシーの足元付近まで地中に
蔓を
忍ばさせており、ピナスのように悪魔の力で対抗する
素振りを見せ次第、
直ちに捕らえるよう示し合わせていた。
悪魔の力を行使しない限りは自分達も同じ条件で説得を試みる——それが今後2人に足並みを
揃えてもらう上での前提条件だと考えていた。
だがその算段には、もう1つ暗黙の前提があった。イリアがそれに気付いた時には
既に携えていたレイピアを
素早く引き抜き、ネリネが突き出すナイフを
喰い止めていた。
霊園の広場でも見せつけられていた彼女の風を起こす力を警戒してはいたが、まさか
自ら風に乗って弾丸のように距離を詰め、あからさまな
憎悪を
以て
刃を突き付けてくるとは思わなかった。
その空色の眼光は獲物を狩る
獰猛な
鷹を思わせ、物腰柔らかな令嬢の
面影は
最早垣間見ることすら
出来なかった。
そして
尚も追い風を
纏って軍人であるイリアとの
鍔迫り合いに挑むネリネの姿が、普通の貴族令嬢をして当然に成せる芸当だとは到底思えず、体幹からナイフを握る手付きに至るまで
諸々の
所作に
力みも無駄もないことに驚きを隠せなかった。
——いくら悪魔を顕現させているとはいえ、これではまるで
蛮族ではないか。
益々人格が変わったどころの話ではない。
イリアの背後ではステラが青白い
蔓を身体に巻き付け、地中に根差して叩き付ける風に吹き飛ばされないよう必死に
堪えていたが、イリアはその様子まで気を回す余裕がなく、金切り声のような暴風を背に襲い来る謎の少女と抗戦を続けていた。
「…もう一度だけ
訊く。
貴女は一体何者だ?」
歯を食い縛り
険しい表情を
湛えながらも、イリアはこの均衡を打開する
術を模索するように先の問いを繰り返した。一方の少女は金髪を揺らめかせながら、
虚ろな
面持ちで冷淡に答えた。
「
あたしは
ネリネ・エクレット…それ以外の何者でもない。あんたはあたしと会ったことがあるみたいだけど、その一度の応対であたしのことをどこまで知った気でいるの? 性格や雰囲気が違うから…そんな
上っ
面な理由だけであたしを否定するの?」
だがその声音はどこか震えており、イリアには彼女が何か
鬼気迫る感情を押し殺しているように聞こえていた。
故にその問いかけを終わらせることはせず、更にもう一歩を踏み込むことにした。
「
上面どころではない…
貴女のその残忍な
眼差しと
野蛮な威勢は、貴族令嬢どころか平凡な
町娘ですらない…!」
「それこそ偏見でしかないでしょう!? ネリネ・エクレットとはそういう裏表のある人物だった…
ただそれだけのこと
よ!!」
「ならば
貴女は
何故私に
刃を向けているのだ? 力任せに
盾突くことに何の意味があるというのだ?」
「意味ならあるわよ…あんたのその
鬱陶しい舌を切り落として、余計な口を叩けなくしてやるって意味がね!!」
その宣告と共に少女は空色の瞳を輝かせ更に暴風をがなり立て始めたので、イリアはこれ以上言葉で彼女を
鎮めることが困難だと判断した。
——やむを得ない。何度も悪魔の力に依存したくはないのだが…出し惜しみをしていては
最早手に負えないだろう。
腹を決めたイリアは周囲で揺さぶられている空気を——金色の
塵のようなものを
微細に振動させ、電撃を
奔らせて少女を感電させようとした。
だがその一瞬生じた
閃光に反応して少女は
即座に身体を反転させ、風に乗ってあっという間に距離をとった。
軽やかに
宙を舞うその身の
熟しは純白の下着姿も
相まってか、
御伽噺に描かれるような
禍々しい精霊のように見えた。
「それがあんたの悪魔の力ってわけ…どうやら舌を切り落とすのは難しそうだ。それなら世界の果てまで吹き飛ばした方が早い…いっそこの世界の果てを見てきてもらった方が、何か
有意義な情報が得られるかもしれない
しね!!」
少女はイリアへ言い聞かせるように
独り言を放っており、
愈々口調も
纏まらなくなっていた。
そして周囲に巻き上げる風に乗って高く浮かび上がり、その風を
幾重にも重ねて竜巻を形成し始めた。
低く
唸るような
轟音を放ち荒れ狂う風は、それこそが彼女の生む真の厄災なのだと見せつけられているようであった。
だがイリアが驚いたのは、その竜巻に吸い上げられるかのように一帯の建物の屋根や壁が音もなく
剥がれ、大小の
夥しい黒い
瓦礫となって振り回されていたことであった。
この世界の造形物には触れたり動かしたりといった干渉は
出来ないものと
見做していたが、悪魔の力で
壊すことは
可能なのだと思い知らされていた。
他方でイリアはその間にも踏ん張りが効かず徐々に竜巻に引き寄せられていたが、
途端に両脚がそれぞれ強く締め付けられてその場に固定された。
ステラが
蔓を
這わせて助けてくれたのだと
直ぐに察したが、このまま耐え
忍んでもかえって飛来する
瓦礫に衝突してしまう
懸念もあった。
——私はともかく、戦闘や
荒事に不慣れなステラをこの場に長く
留めるわけにはいかない。現状あの少女を
蔓で捕らえることは不可能だ。なんとかして地上に引き
摺り下ろさなければならない。
——まったく不毛な争いだ…
何故私達は死して
尚、悪魔の力を衝突させなければならないのだ?
嘗て悪魔を宿した者が
皆揃ってこの世界で目覚めたことの意味を共有せねば何も始まらないというのに、
何故それすらも拒まれ続けるのだ!?
ピナスの一件も
相まって、イリアの内心で繰り返される疑問は皮肉にも『
憤怒』の助長に拍車を掛けていた。
そして飛び去ろうとしたピナスを喰い止めたときよりも更に激しい雷撃の束が、白い天井からのたうつように降り注いで竜巻に絡み付いていた。
あわよくば
幾重もの風の重なりを崩して中心に浮かぶ少女を討とうとイリアは
黄蘗色の瞳を
強張らせていたが、双方の力は
拮抗しており、
只管に
轟く雷鳴が厄災の規模をより
甚大な有様へと増長させているのみであった。
——駄目だ、このままでは
埒が明かない。最悪一旦退避することも考慮するべきか…?
だがそのとき、
唐突に
足枷となっていた
蔓が
解けてイリアは前のめりに転倒した。
俯せの
格好になり地に
這い
蹲らざるを得ず、雷撃を降らせる集中力は
容易く失われた。
——どうした!? ステラに何かあったのか……!?
イリアは
儘ならない態勢ながらも
即座にステラの方へ首を振り向けると、その光景に
愕然とした。
青白い
蔓で全身を固定していたステラは、背後に回り込んでいたドレス姿の少女——ロキシーに
羽交い
絞めされるように抱きかかえられており、
菫色の瞳を輝かせる彼女の両手がステラの口元を
覆っていた。
呼吸を止められているようには見えなかったが、ステラは全身を硬直させて大きく目を
瞠り、間もなくして声も上げずにその場で崩れ落ちた。
——私としたことが…ネリネ嬢を抑えることに
囚われてもう1人への対処を失念していた…!
——あのロキシーという少女は確かセントラムの領主貴族の使用人…ならば宿している悪魔は『
魔性病』を
齎す力か! …
否、そこまで推察してステラと共有しておくべきだった。最も接近を許すべきではない相手を、確実に警戒しておくべきだった……!
内心で失態を責め続けていたイリアだったが、
這い
蹲っていた胴体に突如衝撃が
奔り、軽々と蹴り上げられるように吹っ飛ばされた。
仰向けに返されたまま背中を建物に強く打ち付けたかと思えば、更にその壁を破壊して室内と
思しき床を転がっていた。
死んだ身
故か痛みは感じなかったものの、全身は生前と似た感覚で
痺れたように重く、
咽る
度に意識が
遠退きそうになっていた。
状況を把握しようと
辛うじて見開いていた視界では、ロキシーによって地面に寝かせられていたステラの
傍にネリネを名乗る少女が降り立っていた。
吹き荒れていた風は余韻を残すように治まっており、イリアは弾丸のように飛来した彼女に文字通り蹴り飛ばされたのだと理解した。
「…さすがに
鎧を蹴り上げるのはどうかと思ったけど、やっぱり痛覚は死んでるのかしらね。その代わりなんだか脚に力が入らないけど。」
「お嬢様、まさか骨折されているのでは…!?」
「べつに平気よ。立つ分には問題ないし。」
これだけの危害を生み出しているにも
拘らず平然とした会話を始める2人に向かって、イリアは
苦悶の表情を浮かべながら
藻掻くようにして身体を引き
摺っていた。
下着姿の少女は
直ぐにその気配に気付いたが、やはり脚に反動を
来しているのか体勢を崩すと、慌てて受け止めたロキシーが
狼狽した様子でその少女に言い聞かせた。
「ネリネ嬢様、ここは一度
退きましょう。私なら
貴女をお連れして『転移』することが
出来ます…!」
少女は
未だ何かイリアに言いたい
台詞があるようだったが、悪魔の力を猛烈に
揮ったことも起因してかその顔には疲労感を隠せず、小さく
頷き返していた。
そして2人の姿は
突如湧き出した
靄に包まれると、
忽然とその場から消えてしまった。
再び世界は沈黙に満たされ、金色の
塵が
深々と舞うだけの景色に戻っていた。
イリアは全身を打ち付けられた反動が
和らいでくると、地を
這うようにして横たわるステラの
傍へ近寄った。
ステラは意識があるようだが呼吸が浅く、苦し気に目を
瞑っており、抱え上げた身体は
腑抜けたように重かった。体温が
解らない分、かえって症状の重さを判別しづらくなっていた。
——この体調を回復させるには、やはりロキシーに加減してもらうべきだろうか。ロキシーが転移した先がセントラムならば後を追えなくもないが…今は追跡すること自体、裏目に出てしまうような気がしてならない。
——ここは…少し時間を開けてお互い頭を冷やすしかないのか。どうすればあの2人には、取り合ってもらえるのだろうか…。