その瞬間、再び空気が砕けるような音と共にルーシーの足元から鋭利な氷柱が生成され、首筋を捕らえるように差し迫った。
クランメがふらつくように振り返ると、
紺青色の瞳を揺らめかせながら、
飄々とした表情のまま
佇むルーシーに向かって低い声音を震わせた。
「おまえ、人を
虚仮にすんのも大概にせぇよ。散々人の感情
弄んだ
挙句堂々と利用しようやなんて、誰が賛同すると思っとんねん。
早ぅうちの体質を元に戻さんかい。」
「そう怖い顔をするな。研究者たる者、結論は人の要件を最後まで聞いたうえで口にするのが筋じゃないか。」
だがルーシーは意に介すことなく蛇を思わせる
黄金色の眼光でクランメを
牽制した。
その独特な
眼差しは学術院時代に
於いても
畏怖や尊厳を集める一因になっており、クランメが当時から気に
喰わない要素の1つでもあった。
そんな
蛇睨みに臆さず
喰い下がりたい衝動に
駆られたが、このままでは
埒が明かないことも認めざるを得なかったため、クランメは仕方なくルーシーに伸ばしていた氷柱を昇華させた。
何の温度変化も生じない、空気に直接溶け出すような消滅の現象には改めて不気味さを覚えた。
——不本意なことこの上ないけど…感情的に歯向かってもこの
悍ましい体質が元に戻るわけやない。今は大人しく奴の口車に乗った
風に振る舞うしかあらへんな。
一方のルーシーは氷柱が消えると、作業台の下に置いていた
鞄に挟んでいた、布に
包まれた棒状の荷物を持ち出し台の上で
解いてみせた。
中身は古ぼけた杖であり、先端には黒い鉱石が着装されていた。その杖に見覚えがあったクランメは、思わず目を丸くして作業台へと近付いた。
「これは…ラ・クリマスの悪魔を『封印』したって言われとるあのディヴィルガムか!? せやけどあれは、グレーダン教の大司教が代々受け継いどるはずなんじゃ…?」
「あれは
贋作だ。教団の奴らは今でも本物だと信じ込んでいるみたいだがね。本物は
何故か私の祖先が隠し持っていたらしく、父が生前引っ張り出して来たのさ…ラ・クリマスの悪魔をもう一度『封印』し直すために。」
呆気にとられるクランメを尻目に、ルーシーは本題となる
自らの野望を語り始めた。
「私はいずれ大陸議会の一員となり、そして首相となってこの国をより繁栄させたい。だがその最大の
弊害となるのがラ・クリマスの悪魔だ。」
「この国は長い内戦時代を経て、人権を始めとする法整備を推進し諸外国に引けを取らない立法体系と政治体制を確立しつつある。だがそれらを
以てしても、
嘗て預言者グレーダンが掲げた『7つの
戒め』の代わりとなって、国民が
抱く悪徳を制御するには至らない。」
「諸悪の根源たるラ・クリマスの悪魔をこの大陸から引き
剥がさない限りは、厄災はこの先の未来にも起こり続ける。より踏み込むならば、国が繁栄し民が
安寧を享受できるようになればなるほど、そこから
零れた者が相対的に悪徳を大きく
募らせ、より
甚大な規模の厄災を引き起こす
懸念もあるんだ。」
不意にルーシーがディヴィルガムを拾い上げ、クランメに先端の隕石を向けてみせた。その瞬間隕石から胸元に向かって不可視の光線で射抜かれるような
疼きを感じ、クランメは
慄きたじろいだ。
——
何や、この感覚…!? まるで隕石に串刺しにされて、呑み込まれるかのような……気のせいとちゃうんか…!?
悪魔を宿したことで、クランメはその隕石を突き付けられることに対して本能的に
忌避感を
抱くようになっていた。
同時にルーシーが持ち込んだ杖が
紛れもない本物の遺物であり、自分の天敵になってしまったことを痛感した。
ルーシーはその反応を再び興味深そうに
見遣りながら、更に話を続けた。
「ディヴィルガムは確かにラ・クリマスの悪魔を封印するために使われたが、伝承される『
魔祓の儀』は失敗だったと言わざるを得ない。この隕石部分には
魔素の構成を破壊し、また悪魔の宿主に
宛がうことで魔力の
塊、言うなれば『
魔魂』に収縮させて吸引する能力がある。…だがその
魔魂を、
保存し続ける機能はない
んだ。」
「厳密にいえば、この
欠片ほどの質量では保存を持続させる充分な力を
発揮できず、
零れた
魔魂は原型を
留める
術を持たずに
霧散してしまうのだと考えている。ところがおまえも承知しているように、他に十分な質量を誇る隕石など
殆ど存在が確認できていない。」
「従って、
魔魂を半永久的に『封印』し続ける方法を新たに生み出さなければ、どれだけ悪魔を
斃そうとも世界は変わらないというわけだ。」
ルーシーはその
台詞と共に
徐に右手を
翳すと、その
掌の上で白く光り輝く球体が構築され始めた。
クランメはその奇怪な現象に眉を
顰めたが、よく目を
凝らすと、この室内に漂う何か
塵のようなものの存在を知覚した。その不思議な物質が、ルーシーの
掌の上で渦巻くように集合しているのが
解った。
「
魔素とは
壊月彗星より降り
注がれてこの世界に満ちている、悪魔にとっての栄養素であり、自然の
理に干渉する手段だ。私も地道に
鍛錬した結果、
魔素を
掌握し魔力として保存し続ける
術を身に付けることができた。」
「とはいえ、実際に人に顕現した悪魔の
魔魂は途方もない密度の魔力を凝縮したもので、私でもたった1つすら
保持し続けることは困難だろう
。そこで着目したのが『
嫉妬の悪魔』の能力だ。」
「
魔素を水分子と結び付け停滞させることで氷結を生み出すという過程を応用できれば、それは物理的かつ半永久的に
魔魂を『封印』する
術となり得るのではないか…その推論を進展させるべく、協力者として
相応しい人材を探していた、というわけだ。」
そうしてルーシーは作り上げた光る球体をクランメに向かって放り投げた。緩やかな軌道で飛んできた球体はクランメが片手で
掴むと、そのまま
掌に吸収されるように
拉げてしまった。
それに伴って
僅かだが確かに活力が
漲るような感覚に納得しながら、クランメはルーシーをまじまじと見上げた。
「…
成程な。要はうちが
培うた
類い
稀なる悪徳で、この国の平和な未来のために貢献してくれと言いたいんやろ?」
——こいつに問い詰めたいことは
仰山ある。魔素だか魔力だかを
使うてるおまえにも、ラ・クリマスの悪魔が宿っとるんか? 本物のディヴィルガムを持っていたっちゅうおまえの先祖は何者なんや? その隕石の情報はどっから仕入れたんや? おまえはいつからうちの『
嫉妬』に目星付けとったんか?
——何を聞いても
逸らかされる予感しかせぇへん。でもこの1つだけは、はっきりさせて
貰わんと困る。
「ほなら最終的にはうちに宿る『
嫉妬の悪魔』もいつかは『封印』せなあかんってことなんちゃうんか?
うちの命は
どないするつもりやねん。
綺麗事並べて
殉職せぇ言うつもりなんか? こちとらまんまと
嵌められたようなもんなんやで? おまえは一体どないしてこの落とし前つけるつもりやねん? なぁ!?」
気付けばクランメはルーシーに詰め寄る
格好になっており、室内の空気が小刻みに震えるように再び冷え込み始めていた。
結局のところは単にルーシーの夢物語を聞かされていただけであり、悪魔を宿した
己が身の末路はどうなってしまうのか、その明確な回答が得られない限りクランメの返事は当初と何ら変わることがなかった。
だが依然としてルーシーは動じることなく、クランメの
紺青色の瞳をはっきり捉えながら言い聞かせた。
「確かに悪魔が顕現した者は肉体と魔力とが
緻密に融合していて、着実に引き
剥がす
術もまた、今のところ何も確立されていない。」
「そんなことやろうと思ったわ。結局うちの命なんて
何とも思ってないねん。」
「だが実現不可能とも言っていない。人命を巻き込むことなく悪魔を人の身体から引き
剥がす方法、そして
魔魂に変換し半永久的に『封印』する方法、この2つの命題を同時に解き進めなければならない。
おまえに限らず
これから悪魔を宿す者も、『封印』のために当然に命を犠牲にしていい道理もないだろう。」
ルーシーの冷静な切り返しに、クランメは思わず
口籠った。
——相変わらず
卑怯な奴やな、論点を
擦り替えよってからに。おまえの言う命題に付き
合うとる間にうちの身に何か生死に
係る問題が起きたとき、おまえはどう落とし前つけるつもりやって話をしてんねん。
後出しで
体よく協力を
強いられる身としては、その計画の先行きが保証されなければ大人しく納得するわけにはいかず、クランメは追及の姿勢を続けた。
「そんで? 後者はさておき前者の命題はおまえがきっちり担当してくれんのやろ?
何か宛はあるんか?」
「そうだな…やはり現状では隕石の力に依拠せざるを得ない。ディヴィルガム以外にも実験材料としての隕石が必要になってくるだろう。」
その回答を聞いたクランメの口元からは、自然と自虐的な乾いた笑い声が
零れた。
「…話にならんわ。おまえはその手掛かりも含めてうちに近付いとったんか? それとも将来的に首相になったおまえが、独断でセントラムの地盤を掘り返すような援助でもしてくれるんか?」
「何を言っている。隕石なら
既に見つかっているだろう、ディレクタティオ大聖堂に飾られている7つの十字架だ。」
だがルーシーが至って真面目な顔で
突飛な立案を
企てていたので、クランメは
斜に構えるようにして
尚も問いかけた。
「グレーダン教総本山で崇拝されとる祭壇の装飾のことか? そもそもあの十字架は純粋な隕石やない。具体的な比率までは知らんけど、色んな不純物が混ざり
合うて加工された石像みたいなもんなんやろ?」
「無論そのことは知っている。
何故なら『
魔祓の儀』で悪魔を宿した者を拘束する際、魔力を放出して抵抗されないよう微弱な隕石の力を
以てこれを抑制しようとしていたからだ。だがその意義を踏まえるならば、長期的に接触し続けることで少しずつ肉体と魔力を、
延いては悪魔を分離させることが
出来るかもしれない。そのために詳しい成分を分析する必要がある。」
「
因みにグレーダン教信者は
祈祷の際に隕石を模した黒いペンダントを握りながら祈っているが、あれには
自らの悪徳をペンダントに逃がすという意味合いがあるらしい。
眉唾かもしれないが、奴らの風習も多少は参考になるのかもしれないな。」
「そうは言うても、
本真に神聖な十字架を引き渡してもらえる算段は付いとるんか?
おまえにそれができるんか
?」
仮にルーシーが本当に首相の座に上り詰めたとしても、グレーダン教の信仰と象徴を
脅かす
真似ができるとはクランメには到底思えなかった。
そもそもドランジア家はグレーダン教団とは代々
犬猿の仲であった。
内戦時代を終えてドランジア家が共和国としての新たな立法体系を主導した際、抵抗感を示す者の受け皿となったのがグレーダン教と言われていた。
現代の大陸議会でもドランジア
派閥とグレーダン教
派閥が
鎬を削っており、近年では預言者グレーダンの偉業を
讃えて千年という節目を祝う『千年祭』を実施しようと、6年後の話だというのにグレーダン教
派閥が徐々に活気付いているようであった。
その事実も重々承知してか、
流石にルーシーも少し思い悩むような
素振りを見せていたが、
軈てはっきりと宣言を下した。
「…5年だ。5年以内に、私は大陸議会の一員となり十字架の譲渡を実現させ、悪魔を人の身から引き
剥がす足掛かりを付けよう。だからおまえはその間に、悪魔を半永久的に『封印』する方法を、
ある程度で構わないから
確立させるんだ。」