齢23にして部隊を率い今やジェルメナ孤児院の元締めも担っていたルーシーは、ステラとも2年ほど前から付き合いがあり、昨日から物資提供の取組みのため駐在していた。
そのルーシーが初対面の
筈のカリムに同伴しているということは、確実に何か
只ならぬ問題が起きたのではないかとステラは懸念した。
だがその一方で、静かに立ち並ぶ長い黒髪の2人はどこか雰囲気が似ているようにも感ぜられていた。
「ルーシーさん…
態々カリムを送って下さりありがとうございました。おまけに何か買って
貰ったみたいで…ほらカリム、ちゃんとお礼は言ったのね?」
本来なら隊長であり孤児院の元締めであるルーシーには
相応の敬称を付けるべきなのだが、堅苦しさを敬遠する当人から名前で呼ぶよう言い
包められていた。
とはいえ孤児院の子供が直接世話になったならば恐縮するのは当然であり、カリムが大事そうに抱える小袋もルーシーが露店で買い与えたものだと
咄嗟に思い込んでいた。
そしてステラが口走るその
台詞に、カリムは視線を合わせることなく気まずそうに
頷いて
応えた。
「そう。それじゃあリオが待ってるから早く行ってあげなさい…昼食は残しておいてあるからね。」
ステラがやや早口のままに促すと、カリムはルーシーに向かって一礼し、長い黒髪を揺らしながら廊下の奥へと姿を消していった。
その様子を見届けた
後改めてルーシーに謝意を伝えようとステラが向き直ったとき、ルーシーは
徐に
鞄から取り出した小汚い
巾着袋を放り投げるように
寄越してきた。
驚く間もなくステラがそれを両手で
掴むと、その手触りから中には幾らか小銭が入っているのが
解った。
「道中の拾い物だ。孤児院の雑収入にでも計上しておいてくれ。」
ルーシーがさばさばとした口調で言い残し
颯爽と孤児院を出ようとしたが、その
巾着袋に
薄っすらと見覚えがあったステラは、慌ててそのすらりとした背中を呼び止めた。
「あの…カリムが何か、ご迷惑をお掛けしなかったでしょうか?」
神妙な
面持ちで尋ねるステラに対し、ルーシーは半身を
翻して変わらぬ声音で答えた。
「私は特段不快な思いをさせられてはいないが?」
「そうではなくて…何か無礼を働いたりしなかったでしょうか? あの子は昔から
不愛想だし…最近は何を考えてるのかもよく
解らなくて…。」
呼び止めておきながら
台詞が
尻窄みになっていくことにステラの身は委縮したが、ルーシーは構うことなくきっぱりと言い放った。
「そう思うなら、君ももう少し落ち着きを
以てあの子と接した方がいい。私はあの子に何も買い与えてなどいないのだから。」
先程の早計を暗に指摘されたステラは一瞬
怯んでしまい、その間に今度こそルーシーは
悠然とその場を後にしていた。
玄関口に立ち
竦んでいたステラは、ルーシーが残した助言の真意を追って確認したい衝動に駆られていたが、古ぼけた
巾着袋を握り締めると
直ぐに野暮に思えた。
それと同時に、
漸くカリムの隠し事に向き合う決心が着いたのであった。
ステラが廊下の突き当たりにある個室へゆっくりと向かうと、ベッドから身を起こしたリオが
宛ら小動物のように小さなリンゴに
齧り付いていた。
それがカリムにとってどうしてもリオに買い与えたいものだったのかどうかは
解らなかったが、その愛らしい食事の様を椅子に座って
眺めていたカリムに向かって、ステラは背後から鎌を掛けるように話しかけた。
「ねぇ、カリム…さっきの隊長さんが落とし物を拾ってくれてたみたいなんだけど、これは
貴方の物?」
その質問と共に例の
巾着袋をぶら下げて見せると、カリムの黒い瞳が一瞬大きく見開いた。だが
直ぐにその視線を伏せると、
素っ
気なく答えを返した。
「…知らない。俺のじゃない。」
だがステラにとっては、その一連の言動だけで
総てを察するのに充分であった。
「そう、
解ったわ。じゃあ早く昼食を食べてしまいなさい。その
後…少し先生とお話ししましょう。」
できるだけ言葉を選んだつもりだったが、カリムもこの先に待ち構える追及から
最早逃れられないことを
悟ったのか、表情を一段と曇らせながら小さく
頷き、昼食を
摂りに行くために椅子から立ち上がった。
だがそのカリムの服の裾を、リンゴの果汁に
塗れたリオの小さな左手が
掴んだ。
「お姉ちゃん、もっと食べたい…。」
リオはカリムのことを初対面の頃から、その長い黒髪を
以て『お姉ちゃん』と呼び続けていた。今では当然カリムが男だと認識しているはずなのだが、愛称のように
頑なに変えることがなかった。
「ごめんなリオ、今日はもうそれしかないんだ。…って、もう1個食べ切ったのか?」
カリムは
宥めるように振り返ったが、右手でリンゴの芯を握り締めながら
尚も
強請るリオの様子に驚いた。
「うん。
美味しかった。もっと欲しい。」
「
止めなさい、リオ。昼食も食べたのに、これ以上はお
腹を下すわよ。」
見兼ねたステラがベッドへと歩み寄り、ハンカチを取り出してべたつくリオの左手を
拭った。
続けてリンゴの芯を回収し右手も
拭おうとしたとき、その袖口から
蔓のようなものが顔を出していることに気付いた。
その
蔓は瞬く間に伸びてステラの手首に絡み始め、
唐突な怪奇現象をステラは理解することができずその場で硬直してしまった。
辛うじて
見遣ったリオの表情は今にも
癇癪を起こしそうで、
円らな
鈍色の瞳が
萌黄色に染まり始めているのが
解った。
「…欲しいの。もっと、欲しいよおおおおおおおお!!」
リオの
喚き声と共にステラの視界が
夥しい
蔓によって埋め尽くされ、そこでステラの意識は
途切れていた。
次にステラが目覚めた時には既に日が暮れており、ジェルメナ孤児院と周辺の建物が
無惨に
拉げ、自身を含めた多数の住民が救護を受けていた。全身が冷たく
気怠い感覚で、立ち上がれるまでに数日を要していた。
その間に、ステラはルーシーから怪奇現象の真相と
顛末を聞いていた。
リオに顕現した『強欲の悪魔』という厄災のこと。リオが無差別に吸い上げた生命活力を制御できず、悪魔の力に呑まれて命を落としたこと。それ
故に比較的短時間で、大き過ぎない被害で厄災が収束したこと。
そして一足先に首都ヴィルトスへ帰還することになったルーシーが、カリムの身元を新たに引き受けること。
これらの報告はルーシーの出発
間際に聞かされたもので、軽症だったカリムは
既に問題なく動ける身だったらしいが、ステラの元に別れの
挨拶を告げに現れることはなかった。
カリムはリオの死を受けて精神的に打ちのめされている旨をルーシーから聞かされたが、彼がその事実だけでなく更に深刻な後悔と自責の念に
苛まれていることを、ステラは推し量らずにはいられなかった。
そして幼くして壮絶な悲劇を経験した少年に寄り添えないことが、何より悔しく沈痛な思いだった。
**********
以来、ステラはもう二度と孤児院の子供たちに同じような思いをさせないよう、命を取り
零すことなく護り抜けるよう、そのためだけに心身を尽くしてきた。そのためならば、こうして悪魔の力を自ら宿すことも
厭わなかった。
——でも、その奇跡のような力でどんなに怪我や病気を治癒して活力を与えようとも、心に負った
疵までは治すことは叶わない。それは子供だろうが大人だろうが同じこと。1人1人の命に向き合い、寄り添わなければ、真に護り抜くことはできない。
——リオを失い、カリムに無言の別れを告げられて
解っていたはずなのに、結局見失ってしまっていた。…『強欲の悪魔』に呑まれた。そして悪魔への
復讐心を
滾らせ再び
相見えたカリムに、こうして打ちのめされてしまった。
そのカリムの言う通り、
独り
善がりで
数多の命を
雁字搦めにしてしまった罪を
贖い、厄災の根絶を願う人々の
贄となることが、今この場における『正しい選択』なのだろうと思わずにはいられなかった。
——もっと早くにカリムに寄り添えていれば、隠していた背徳感を見過ごさず踏み込めていれば、ラ・クリマスの悪魔が顕現することもなく、カリムもリオも真っ当に人生を
謳歌していたのかしら…。
そう考えると
総ての
発端が、諸悪の根源が自分自身にあるように思えてならなかった。
たった1人…
否、たった2人の子供にすら
真摯に向き合えなかった
報いなのだと
自らを責め立てた。
——でも、これじゃきっとあのときと何も変わらない。
いまは
カリムが目の前にいる。
贄となる運命を受け入れる前に、青年となった彼への負い目を晴らさないといけない。
——彼が負った心の
疵を癒せない代わりに、せめて何か希望となるものを
遺してあげないといけない。…それが里親として面倒を見てきた者が果たすべき、最後の仕事でしょうね。
そのために、ステラには
最期に確認しなければならないことが残っていた。
「…ねぇ…最後に、1つだけ…いいかしら。」
ステラが
昏い表情でカリムを見上げ、か細い声音で尋ねた。
カリムが無言で小さく
頷くと、ステラは可能な限り後方へ首を回し、背後で
羽交い
絞めにしている少女を
見遣ろうとした。
「…
貴女、名前は何ていうの?」
今更な質問に少女は
些か顔を
強張らせたが、ステラが
愈々覚悟を決めたことを察したのか、
呟くように答えた。
「…サキナ。」
その答えを聞くことができたステラは、
安堵したように顔を正面に戻し、
独り
言のように背中でサキナに言い聞かせた。
「そう、サキナ……
貴女、どこか
面影がリオに似てるわね。あの子はずっと生き別れたお姉ちゃんを探してるみたいだった……ひょっとしたら
貴女が、本当のお姉ちゃんだったのかもね。」
少し苦笑いが混じるようなその
台詞にサキナも、そしてカリムも目を見開いた。
だが何を問い返される
猶予も許すことなく、ステラは差し向けられている杖の
柄を両手で
掴み、先端の黒い鉱石を
自ら胸元に押し当てた。
再び全身が粒子状に崩れ、
宙に浮き上がり、その鉱石に意識も何もかも吸い込まれていくような感覚に襲われたが、不思議とそこに苦痛はなく、何も抗う理由もなくその静かな流れに
全てを任せていた。
不図目線を上げると、カリムが戸惑いながらも『封印』を止めることができずに何とも情けない表情を浮かべていた。
不愛想な
面影を崩して新たな一面を
垣間見れたようで、満足感のようなものがステラの
最期に生まれていた。
その前髪に隠された瞳の色を
遂に知ることができなかったことは心残りだったが、ステラは
最早残っているかすら
解らない口元を動かして、聞こえるかどうかも
解らない本当に最後の言葉を伝えようとした。
——カリム、後のことは頼んだわ……。
——ちゃんと私の命に、意味を見出して……。
——前を向いて、最後までしっかり生きるのよ……!
高台に乾いた音が響き、立て続けに
嗚咽を伴った
叫声が上がった。
サキナは空になった緑地のワンピースを握り締め、恥ずかし気もなく地に伏せ身体を震わせるカリムを無言で見つめながら、
暫し立ち尽くしていた。
だが
軈てローブの中から腰元に付けていた液瓶を取り出すと、平らな地面に置き、拾い上げた杖の先端をその水面に向けた。
先端に着装されている隕石から
萌黄色に淡く輝く粒子が
塊となって
零れ、
忽ちそれを捕らえるように液体がうねり、凍結した。
『封印』を終えたサキナは同じく地面に転がっていたカリムの拳銃を手にすると、
黄昏の空に向かって信号弾を放った。
グリセーオの街を
覆い尽くしていた
夥しい
蔓は
塵と化して跡形もなく消滅しており、救援活動の開始を
報せる合図が周辺に待機していた大陸軍へと
伝播した。