聳え立つ黒い壁がラピス・ルプスの民が隠れ住む集落クラウザの一画であることに、ピナスは
直ぐに気が付いた。
グラティア州の西端だと言われた場所からアヴスティナ連峰までは、現時点での魔力残量に
鑑みれば体感時間にして半日ほど飛行を要するのではないかと覚悟していた。だが
恰も最初から双方の場所が隣接していたかのように、一瞬で周囲の景色が切り替わっていた。
不図空中で首を
捻り背後を
見遣ったが、無機質な白い空の
下、金色の
塵のようなものが降り
頻る先には黒い樹海が果てしなく広がっていた。
明らかに時間と距離感が
噛み合っておらず、ピナスにはこの現象が
最早転移と表した方が
相応しいように思えた。
——どういう理屈かは知らんが、悪魔の力を浪費せずにクラウザに帰還
出来たことは都合が良い。まずはここが本当に生前の世界と違うのかを確かめなければならん。
クラウザに降り立ったピナスは、黒い泥で塗り固められたかのような故郷を
虱潰しに巡回した。確かに集落の地形は慣れ親しんだクラウザそのものであったが、一切の
人気がなく
只管に無音に支配されていた。
他方で
塒にしていた洞穴は空と同じように一面
真白に塗りたくられており、
灯が無くとも奥まで見通すことが
出来た。
だがその分露骨に
人気のなさが強調されており、
剰え打ち捨てられたかのような
虚しい生活感がこびり付いていた。
「…誰かいないのか!? …アリス……お爺様……!?」
その不気味な圧力に抵抗するようにピナスは妹や祖父を呼んだが、その声は洞穴に反響することなく岩壁に吸収されてしまった。そもそもピナスにとっては、それが岩壁と言えるのかどうかも判然としない物体であった。
一方で洞窟の中には、外界で降り注いでいた金色の
塵がある程度
纏まったような光の球体が、ピナスの胸元辺りの高さで
幾つか
漂っていた。
ピナスは
徐にその1つを
掴もうとしたが、何の触感もないままに球体は
掌を
擦り抜けた。その現象が余計に虚無感を助長させ、ピナスの口元からは思わず溜息が
零れた。
——結局
解らないことだらけだ。ここがクラウザの地であることには
相違ない。
儂自身がクラウザに向かおうと意思を
抱いた矢先に転移したことからも、その見立ては間違ってはいないはずだ。
——だが、
何故同胞の姿がない。
何故蛻の殻なのだ。
宛ら民がこの地を放棄してしまったようではないか。
そこまで考えを
廻らせたとき、不意にピナスの脳内では最悪の
顛末が描写された。
——
若しくは儂がドランジアに殺された後に、何か良からぬことが起きたのか? 大陸議会は当初から、厄災を招く危険因子であるラピス・ルプスの民を管理監督下に置こうとしておった。そのための勧告が通達されておった。だが
儂が暴虐の限りを尽くしたことで、管理監督では収まらず民そのものを絶滅させる強行に踏み出したのではないか?
——ドランジアには死に
際に一族への不干渉を取り付けたが、
死人の口約束など結局は何の拘束力もない。そして人間どもには集落を
僅かな時間で壊滅させられるだけの武力がある。この一帯に争われたような形跡はないが…その可能性は否定
出来ないのではないか?
そのとき洞穴の外で何者かの話し声が聞こえて、ピナスは狼の耳を鋭く
欹てた。
その声には確かに聞き覚えがあったものの、同胞ではなく少し前まで奇妙な
邂逅をしていたイリアとステラのものであることを察すると、息を殺しながら内心舌打ちをした。
——
何故彼奴等がここに? 同じように転移の
業が使えるのか? …
即ち、
儂の後を追って来たということか?
その行動が何を意味するのか察すると同時に、ピナスは生前イリアが軍部隊を率いてこの集落を訪れていた過去を思い起こしていた。
もし転移の
業が
自分の記憶していた場所へ
瞬時に姿を移すことを指すのであれば、それはイリアが
僅かな滞在時間ながら自然に紛れたこの場所を明確に記憶していたことを意味した。
そしてそこへ自分が
還ることを見越して、未知なる
業を使い
熟し追跡してきたのであれば、その女隊長の執念は決して
侮れないものであった。
目的が推測
出来る以上
関わり合いにはなりたくはなかったが、その一方でピナスにはやり場のないとある欲望が生まれていた。
——
彼奴は確か
儂の後に死んだと言っておった。
況して一度この地を訪れた隊長格の軍人であれば、その後のクラウザの
顛末を知っているのではないか?
心の中で
呟きながら、ピナスは洞穴を出て集落の広場へとゆっくり足を進めていた。このまま
留まっていても何も収穫がない以上、立ち去るのであれば
腹持ちの悪い
懸念など
早々に解消するべきだと判断した。
目当ての2人の姿が視界に映るまで
然して時間は掛からず、ステラと何か言葉を交わしていたイリアがこちらの気配に気付いて振り向くと、その
凛とした
黄蘗色の
眼差しと交錯した。
ピナスは
未だ5メートル以上も距離があるにも
拘らずその場で立ち止まり、単刀直入に問いかけた。
「貴様は確か、あの7人の中で最後に死んだと言っておったのう。ならば『
貪食の悪魔』による厄災の後このクラウザがどうなったか、何か聞き及んではおらんか。例えば…我々ラピス・ルプスの民を人間にとって危険な種族と見なし、報復するが
如く武力を
以て根絶やしにした、とかな。」
唐突に物騒な質問を投げかけたことで、イリアの
傍らでステラが
忽ち戸惑いの表情を浮かべた。
他方でイリアは
暫しの間その質問の意図を推し量っていたが、
軈て慎重に言葉を選ぶようにして答えを
寄越した。
「…聞いたことがないな。そもそも
貴女がトレラントを襲撃してから3日しか経っていなかった。
度重なる厄災で大陸軍には
憤る余裕すらなかっただろう。」
「…そうか。それならそれで構わん。」
ピナスはそう吐き捨てるとともに、再び背中から青白い翼を生やして
羽搏かせ、地を蹴って
宙に浮かび上がった。
クラウザの民が今も
何処かで生き
永らえているのであればそれ以上に
憂慮することなどなく、為すべきことといえばただ怪しげな
囁きに従ってルーシー・ドランジアを
捜し出すのみであった。
「待ってくれ、ピナス・ベルよ。この不可解な世界で単独行動に
奔ることは推奨しかねる。改めて我々と合流してほしい。」
だが予想通りにイリアが声を張り上げ制止を図ってきたので、ピナスははっきりと反発の姿勢を示した。
「不可解な世界だからこそ
儂が
率先して
俯瞰し偵察する方が妥当だと言ったはずだ。貴様に何の意図や目的があって
儂の行動を縛ろうというのか。」
「我々はドランジア議長を
捜し出したうえで、何をすべきなのか意思統一が
出来ていない。それを成さずして役割を分担するべきではない。」
「
戯け。そんなものはドランジアを見つけ出してからで充分に間に合うであろう。」
ピナスは
煩わしくイリアを
遇いながら、彼女の
魂胆について
凡そ察しがついていた。その理由は他でもない自分自身が、
皆の前で打ち明けていたからである。
故に、いっそのこと
牽制をしてやろうとピナスは
宙から高圧的に問いかけた。
「逆に貴様はどう考えておるのだ? ドランジアは見つけ次第殺すべきだと思うか?」
「…その判断は
未だ
出来ない。議長が成していることの善悪が
解らない以上、誰もそうするべきではないと考えている。」
「ならば良いことを教えてやろう。誰も貴様に従う義理も必要性もない。誰も貴様の部下ではないし、軍隊長としての貴様は
既に死んでいるからだ。」
その
台詞を耳にしたイリアが
解り
易く
眉間に
皺を寄せる様を遠目に、ピナスはせせら笑いながら飛翔した。
黒い大地と樹海が
瞬く間に眼下に広がり、改めて世界の
全貌を見渡そうと、舞い散る金色の
塵の中で
碧色の
眼を
凝らした。
——明確な意志なく
他者を縛ろうとすることなど
愚の
骨頂。…
否、人間はいつも
曖昧かつ
迂遠な物言いで
本意を隠し、都合よく
他者を言い
包めようとする。
——一度死んだ身で
尚、そのような
輩に
迎合などしてやるものか。
儂は
儂が考えたいように、この世界を見定めてやる。
だがその瞬間、頭上で何か大きな
塊が崩れ出すような
轟音が鳴り響き、ピナスは反射的に顔を伏せて下方へと
滑空した。
その間にもピナスの
瑠璃色混じりの銀の尾を捕らえようと
幾重もの雷撃が
迫ってきており、
軈て広範に発散して包囲網を構築した。
ピナスが
辛うじて身を
捩り横目を開けると、
真白の天井の
何処からともなく雷が発生し、舞い散る金色の
塵に触れて連鎖するように電撃が弾けているのが
解った。
その青白い衝撃に目が
眩んで顔を
背けると、クラウザの広場では感情を押し殺しつつこちらを見上げるイリアの
黄蘗色の瞳が、
燦々と
煌めいていた。
——
彼奴の悪魔の力か…
小癪な
真似を。しかし意図的に
儂を狙えるのだとしたら、強行突破するのは
些か危険だのう。
ピナスは徐々に迫り来る電撃の包囲網に
圧される形でやむを得ずクラウザの広場に降り立つと、再びイリアとステラに
対峙する
格好になった。
そして
敵愾心を
露わにして身体から
蒼獣を次々と生み出し、不気味な
唸り声を上げる群体を作り上げた。
「貴様が悪魔の力を使うのであれば、
儂も容赦はせん。
蒼き獣の
贄となって、この世界で再び死ね。」
その
冷徹な宣告と共に、
蒼獣の群れは一斉に
相対する2人へと襲い掛かった。
死んだはずの人間の身を
嘗てと同様に
貪ることが
出来るのかは知る
由もなかったが、少なくとも相手が
自分と同じである以上
、喰らって魔力に変換することは可能であるとピナスは見込んでいた。
だが
既のところで、イリアとステラの足元から束になった青白い
蔓が——黒く染まった地表を突き破って壁のように
迫り上がり、突撃していた
蒼獣の群れに
纏わりついて高波のように呑み込んだ。
思わぬ反撃に目を
瞠ったピナスは、イリアに半分隠れながら腕を掲げ、
萌黄色に瞳を輝かせるステラの姿を
漸く認識していた。
そして一旦離脱しようと
跳ね上がった片脚にも地中から生えてきた
蔓が絡み付き、ピナスを引き戻すようにして
忽ち身体中に延伸した。
瞬く間に
蔓に拘束されてしまったピナスの眼前では
蒼獣が一頭たりとも残らず消滅しており、全身を襲う脱力感がその原因を
否応なしに理解させた。
——魔力が、吸収されていく……!? …抜かった。この厄災は
儂の天敵だ。魔力の
塊を具象化させぶつける
儂とは
頗る相性が悪い。
——あのステラ・アヴァリーとかいう女…
彼奴を争い慣れていないと無意識に
見縊っていた。恐らくピオニーと
僅かな合間で示し合わせていたに違いない。それが
出来るほど
奴等が親しげな間柄であると、留意しておくべきだった…。