クランメに続いて
何処かへ飛び
発とうとするピナスをイリアが呼び止めようとして顔を上げた。
だがそのどちらの意図も
阻むように、
突如広場一面に叩きつけるような風が吹き付けた。
ドールは体感したことのない風圧に身を
屈め、冷たさを感じない
氷塊に両手を付いて
堪えていたが、その
最中で唯一ネリネが声を張り上げていた。
「待ちなさいよ! 行くのならこっちの氷も壊してからにして
頂戴!!」
ピナスは少しの間
煩わしそうに空中で抵抗を続けていたが、
軈て
堪忍したように黒い花畑の上に降り立つと、新たに3体の
蒼獣を生み出して残る5人を捕らえる
氷塊を漏れなく砕かせた。
ドールは無表情の獣が自分の脚まで
噛み砕いてしまわないか終始不安に
駆られていたが、
蒼獣は器用に身体の周りの氷だけ
抉るように
咀嚼していったので、薄くなった残りの氷結は自力で
解くことが出来た。
間もなくして風が止むと、広場を
駆け回っていた
蒼獣は
全てピナスの身体へ吸収されるように、青白い光の軌跡を
描いて消滅した。
「
幾ら氷を
喰らっても何の足しにもならんな。貴様ら、1つ貸しにしてやるから覚えておけ。」
ピナスは露骨な溜息を付いたのち、
翻って地を
蹴り再び飛翔した。その後ろ姿は白い空に遠く小さくなるまでもなく、先程のクランメと同様にして
靄に紛れるように
掻き消えた。
そして強烈な下降気流の反動で舞い上がっていた黒い花弁と金色の
塵が静かに揺れ落ちてくる様を、ドールは
茫然と
眺める他なかった。
伝承でしか触れたことのなかった、ラ・クリマスの悪魔が
齎す様々な脅威を立て続けに目の当たりにして、すっかり棒立ちになっていた。
「…おい、
貴女まで
何処へ行くつもりだ?」
だがイリアが気の
滅入るような声が聞こえて我に返ると、再び強烈な横殴りの風が襲ってきた。
ドールが
辛うじて
瞼を開けると、広場の外へ続く道を進もうとしていたネリネが振り返りながら右腕を差し向け、
諄いと言わんばかりに制止を拒絶していた。
「付き合ってられないっていったでしょう? ドランジアを生かそうが殺そうが私の知ったことではないわ。邪魔はしないから
貴女達の好きにして
頂戴。」
その冷淡な捨て
台詞と共に強風が
鎮まると、ネリネは
悠々と円形の空間を去ってしまった。だがクランメやピナスのように突然消失することはなく、徐々にその背中が小さくなっていった。
それを脇目に見たロキシーもまた浮き腰になりつつ、ドールたちの方に小さく一礼したのち
駆け足でネリネの後を追い掛けていった。
幾度も離脱の阻止を訴えてきたはずのイリアは、
最早足を動かす気もなく立ち
竦むのみであった。
沈黙が戻ってきた広場にはドールのほか、イリアとステラの3人しか残されていなかった。その
静寂に耐えかねたステラが、困惑しながらイリアに声を掛けた。
「…イリアさん、これから私たち、どうすれば…?」
大陸軍の部隊長を務めていたはずの彼女の表情は、とても重苦しく思い詰めているようにドールには見えていた。そしてなんとかして言葉を絞り出しながら、手探りで目的を
見出そうとしていた。
「死んだはずの我々が
何故このような状況に置かれているのか、この現世を模したような世界が何なのか判然としない以上、安易な行動は
慎むべきだ。やはりもう一度
皆を呼び戻さなければならない。だが、手分けして調査をするべきであるという意見も正しい。」
「…いや、それでも単独行動だけは
看過すべきではない。リヴィア
女史が議長に協力させられていたことは事実のようだし、彼女の場合は何か考えがあっての独断に違いない。」
「それよりも
懸念すべきはピナスの方だ。あれは達観しているようで、実の動機は
独り
善がりの
赴く
儘でしかない。まずはピナスを説得し、歩調を合わせてもらうところから始めるべきだろう。」
一方のステラはその方針に耳を傾けながら、無機質な白い空を見上げて
憂うように
呟いた。
「でもあの
娘は
何処へ行ったのでしょう? 追いかけることなんて
出来るのでしょうか…?」
「ピナスはリヴィア
女史と同じ消え方をした…彼女は
その場所へ行ける気がした
と言っていた。もしかしたら何か思い浮かべる目的地があるのなら、この場にいた者は
皆同じことが
出来るのかもしれない…あの
靄に隠れるような現象がそれだとしか考えられない。そして人間の住む世界と一線を
画していたピナスが明確に目指す場所があるのならば、私にも
宛はある。」
「…ネリネとロキシーの2人は、どうするんですか?」
「ロキシーはともかく、ネリネ嬢にはそうした行く
宛がないのだろう。グラティア州を
彷徨いてもらう分には、後で探すのに時間はかからないだろう。」
「…それもそうですね。確かにイリアさんは、グラティア州の街並みを熟知していますものね。」
その会話の流れで自然と2人が消失し転移を試みようとしているように見えたドールは、
堪らず声を発してその間に割り込んでいた。
「…あ、あの。私は、どうすれば……?」
呼びかけに反応して同時に振り向いた2人の
眼差しには決して
疎ましい感情などなかったが、ドールには
何故か2人との距離が実際よりあまりにも遠く離れているような錯覚に
陥っていた。
そんな被害妄想など知る
由もなく、イリアは淡々と指示を出した。
「すまないが、君はここで待機していてほしい。この空間は、ここで目覚めた7人が共通して記憶している場所だ。
暫くしたら誰かが戻ってくるかもしれない。その際は全員が
揃うまで待機するようにと、私が居なければ私に代わって要請してほしい。」
「…
解りました。」
渋々
畏まるドールに対し、ステラも
独り残すことに申し訳ないと一言
詫びを添えた。
そしてイリアがステラの手を取るとほぼ同時に、例の
靄に包まれるようにして2人とも姿を消してしまった。
黒い花畑に囲まれた広場は沈黙を完成させ、ドールは力が抜けたかのように花壇の
縁に座り込んだ。
——結局私は、こうなるんだ。
白髪も
相まってか関わり
難い印象を
抱かれ、
禄に主張を取り合ってもらえず、
割を食ったような役回りに
陥ったことに深い溜息をつくと、それは疲労感に転じて全身に重く
圧し掛かった。
音も温度も存在しない空間で再会できるかも
解らない瞬間を待ち続ける役目は、
早々に虚無感を助長し『
悲嘆』となって、死して
尚胸の内を
嵩増ししていくのが
解った。
寂寞の
儘に
瞼を閉じたが、
微睡みが
滲み出ることもなくただ何も無い時間が続いていた。
——こんな思いをするなら……死んでいた方が良かったのかな……。
舗装の行き届いた広い街路の中心を、ネリネことリリアンは黙々と歩き続けていた。
イリアの見立てに
則るならば、ソンノム霊園を出た先に広がる風景はヴィルトス近郊の住宅街であると思われた。
だが例に漏れずどの建物も
焦げ付いたように黒く、所々の
縁や側面は白かった。リリアンにはこの世界が、現実の風景の光と影を反転させたように見えていた。
幾ら歩いても人の気配はなく、時折降り注ぐ金色の
塵がある程度
纏まったかのような
塊が浮遊していること以外、動きを見せる物体すらなかった。
他方でこの世界で目覚めたときから裸足であったが、完全に地に足が着いていないような感覚で、痛みも疲労も
全く湧き上がってこなかった。
だが人ではない、
自分と同種の気配
がやや後方から付き
纏い続けていることをリリアンは察していた。
幾ら無視を続けても状況が変わることがなかったので、
愈々振り返って露骨に不機嫌な声音を振り撒いた。
「ねぇ、いつまで付いてくるつもりなの? いい加減
鬱陶しいんだけど?」
突然
苛立ちを突き付けられたロキシーは一瞬
狼狽したが、
直ぐに
畏まって
辿々しく釈明した。
「…ご気分を害してしまい申し訳ございません。…しかし私は、領主貴族様の使用人なので。ご令嬢であるネリネ様にお
仕えすることが、今の私が
為すべきことかと…。」
「あのピオニーって部隊長さんだって
銘家のご令嬢でしょう? あの人に言われて私を監視しようとしてるんじゃないの?」
「…いいえ、私の独断です。ピオニー様には、何ら声を掛けられておりません。」
リリアンは委縮するロキシーを
詰りながらも、
未だに衣類が薄布一枚のみで恥ずかし気もなく応対されていることが不愉快になってきていた。
あまり
齢が変わらないように見えたにも
拘らず
上背もあり、発育も良い身体を生々しく見せつけられているようで気に食わなかった。
——何でこの
娘はこの
恰好で平然としていられるの。そんなことも気に留めず使用人を気取られてもこっちが迷惑なんだけど。
——でもそのまま追い返すのも何だか後味が悪いし、
何処かその辺から適当な衣類でも
見繕えないものだろうか。
周囲を見渡しても呉服店や仕立屋のような店は見当たらず、手あたり次第に住宅に入ろうと玄関扉の取っ手を
掴んでも
微動だにしなかった。
一度死んだ身
故か、『
掴む』という感覚すら失われているのだと思い知らされた。
呆れたリリアンは大きな溜息を付くと、桃色地のドレスを強引に脱いでロキシーに向かって投げ付けた。
「…取り
敢えずこれでも着てなさい、
追随されてるこっちが恥ずかしくなるから。」
「…!? ……ですが、それではネリネ様は…?」
一方のロキシーは予期せぬ
贈呈にあからさまに恐縮するとともに、ネリネの
身形が純白のキャミソールとドロワーズのみとなったことに動揺していた。
「別にいいわよ、こっちの方が動きやすいし。いいからさっさと着て
頂戴。」
令嬢としてあるまじき発言ではないかという
懸念がリリアンの
脳裏に一瞬
過ったが、ロキシーはそれ以上何も言わず
萎んだように承諾した。
あの夜
終焉を迎えたはずの人生が——ネリネに成り代わることすら否定され
全てが無に帰したはずの自分が、再びリリアンとしての意識で、ネリネとしての外見で再構築されたことの意味を考え続けていた。
この
期に及んでネリネを
騙る必要はないのかもしれないが、そうしなければ
存在を続けられないかもしれない
という潜在的な危機感があった。
故に、せめて態度や口調だけでも
齢相応の令嬢として振る舞うことにしていた。
だが結果としてネリネの外見と令嬢という肩書に釣られた、ロキシーという自称使用人との
関わりを余儀なくされていた。
——本物のネリネはこんなにがさつじゃないけれど、箱入りだったあの
娘を知ってる人なんてここにはいないだろうし、多少肩肘張らない方が
幾分か気楽ね。
「どう? 問題ないかしら?」
リリアンは
衣擦れの音が
止んだのを察すると、ドレスに身を包んだロキシーを改めて振り返った。
「…すみません、少し胸元が苦しいです。」
「あら、そう。それは良かったわね。」
ドレスを
纏っても
尚隠し切れないロキシーの豊満な胸部が、今にも
生地を引き裂きそうなくらいに張り詰めていたが、リリアンは
北叟笑むようにして
遇った。
他方で、彼女の藍色の長髪と桃色地のドレスが不釣り合いに見えたものの、
艶のある髪質や
瑞々しい肌、
美麗に整った顔立ちに不覚にも
惹かれてしまった。
「それにしても、随分と恵まれた容姿をしているのね。私よりもずっと
貴女の方が貴族令嬢みたいだわ。」
その感想はリリアンにとって
嫉妬や
羨望ではなく、皮肉を交えた正直な言葉であった。だがロキシーはより一層恐縮し、視線を
伏せながら
卑屈そうに返事をした。
「…
滅相もございません。私は一介の、
卑しい使用人ですので。」