安易に応じた
途端、予想だにしない角度から飛び掛かってきた問いかけに、ネリネは目を丸くして思わず硬直した。
聴取用の道具の
類は既に
仕舞われており、あくまで
個人的な質問
に過ぎないとはいえ、その意図がまるで理解できず、とにかく沈黙を無駄に長引かせないために必死で返す言葉を選んだ。
「はぁ? 何でそんなこと
訊くのよ。あいつは街を1つ崩壊させた極悪人じゃない。私が何を進言するまでもなくさっさと処刑されて終わりでしょ?」
「ええ、拘束されれば間違いなく命の保証はないでしょう。ですが
貴女にとっては、
拉致されたその身柄を案じ解放しようと抵抗した唯一の人間であり、手段はどうあれ闇市場が
蔓延るメンシスを浄化させた、ある意味恩人のような存在と言えるのではないでしょうか。」
「…だから今度は私があいつを
庇えと? 冗談じゃないわ。元々その身を偽ってエクレット家に取り入って来た悪党よ。私が
拉致されたのもあいつが首領として部下を統率できていなかったからでしょ。恩に着ることなんて何もないし、自業自得で同情の余地すらないわよ。」
「ですが、話を聞く限りリリアン・ヴァニタスは望んで海賊団の首領になったようには思えないんですよね。組織の体裁として仕方がなかったというか…事実関係をもっと整理すれば
酌量できる余地はあるんじゃないかなと…。」
「…ねぇ、まだこの話続けるの?」
唐突に持論を語り出すカリムに対し、ネリネは露骨な
煩わしさを
以て一蹴しようとした。
自らを議会の雑用と
卑下した分際で何様のつもりなのだろうと
訝しむ過程で、内心は動揺を通り越して
辟易してしまっていた。
——まったく…何のつもりであんな奴に同情を促そうとしてくるわけ? この
期に及んで嫌がらせのつもりなの!?
もう二度と『海賊団の首領リリアン・ヴァニタス』の話はしたくない、
するべきでない
と言い聞かせているのに、何の悪意を
以てかその殻を
突こうとする無思慮な態度が
酷く不快だった。
「…申し訳ありません、出過ぎた真似でしたね。でも自分の過去を
顧みると、少しは同情できるところもあるかなというか…。」
歯切れの悪い謝罪以前に、そもそもネリネはこの男の過去に何ら関心を
抱くつもりはなかったが、それでもカリムは独り言のように話し続けた。
「自分は大陸北東部地方の孤児院の出自でして…貧しい地域で治安も良くなく、幼くしてまるで生き
甲斐を感じなかったんです。そんななかでも護りたいものができて、そのためなら盗みだの何だの軽犯罪のような愚行も
厭わなかったんです。でも結局自分のせいで護りたかった存在を失ってしまった…文字通りの自業自得でした。」
「でもそれらすべてを汲み取ったうえで自分を
窘めて、生きる目的を与えてくれた恩師がいるんです。だから、少しでも
赦せる気持ちがあるのなら、
窘めることで救われる
他人の人生があるのなら、率先してそうするべきだ…と、思うんですよね。」
カリムの独白が
尻窄みに終わり、狭苦しい空間には
暫しの間馬と車輪が駆ける音だけが静かに響いていた。いつの間にか窓の外は少しずつ
薄昏くなってきていた。
ネリネは暇潰しにこの陰気臭い青年の過去がどこまで真実なのか推し量ろうとしたが、その男の最後の一言がどうにも触れ
難く、かえって苦虫を
嚙み潰したような面持ちを浮かべていた。
——あんな奴を、
赦せるはずがない。あんな
惨めで
意気地のない奴を、救う必要なんてない。そもそも大前提として、
もうこの世に首領リリアンは存在しない
のだから…。
不意に馬車が動きを止め、ネリネは驚きのあまり思わず小さく跳ね上がった。
急停止ではなく平常通り減速し目的地に到着していたのだが、思い
耽っていたネリネは
全くもって気付かなかったのである。
さすがに
醜態を
晒してしまったのではと
刹那の
焦燥に
駆られたが、向かいに座っていたカリムは何事もなかったかのように
身支度を整えており、馬車の扉を開放するところだった。
「お疲れ様でした、ネリネ嬢様。足元にお気をつけてご降車ください。」
ネリネが降り立ったのは、周辺地域でも名高い貴族の大豪邸…ではなく、雑木林をある程度
伐り開いた
辺鄙な空間に建ち並ぶ、木造平屋のうちの1軒であった。
土地勘があるわけではなく、何ら背の高い目印も見当たらないので、現在位置がまったく
解らなかった。ただ、
微かに潮の香りが漂ってくるような気がした。
カリムのことを完全に信用していなかったネリネにとって、必ずしも期待通りの展開にならないことは想定内だった。だが
令嬢としての反応は
当然にそうはならない。
「ちょっと!?
何処なのよここ!? 私が指示した目的地と全然違うじゃない!!」
ネリネは何やら
御者と話し込んでいるカリムに向かって、張り倒すように文句を放った。
御者の外見は全身黒尽くめで、夕暮れ時の曇天ということもあり周囲は一段と
昏く、その表情すら判然としなかった。
カリムはゆっくりと振り返ると、令嬢の
癇癪など意に介すことなく、落ち着き払った声音で釈明した。
「申し訳ございません。街道を使えないため大幅な
迂回を余儀なくされておりまして、ご覧の通り日没も近いことから、誠に勝手ながら本日は大陸平和維持軍の臨時中継地点にて宿泊させていただく運びとなりました。ああ、ご心配なさらずとも臨時とはいえ宿泊施設は常に清潔に保たれておりますし…。」
「馬鹿にしないでよ! 街道を
逸れたのは
貴方と
御者の判断でしょう? 最初から同意なく私をここに連れ込む気で…!」
「恐れ
乍ら、ネリネ嬢様が厄災の元凶をご存知である以上、今晩はここで身を隠していただきたく進言致します。」
叱責を強めるネリネを意地でも
遮るように、カリムが
嘗てないほど声を張り上げて訴えかけた。
予期せぬ気迫にネリネは一瞬たじろぎ、反抗の姿勢は冷や水を浴びせられた。
だがそのお陰で、いまこの場に
何処にも逃げ道がないことを再認識することが
出来ていた。そして表情に不服さを残しつつも、冷静にカリムの進言の意図を聞き出そうとした。
「…どういうことよ?」
「もし今回の厄災の元凶がリリアン・ヴァニタスという女性だとすれば、彼女は
貴女を追ってくる可能性が高い…という懸念があるためです。」
またもやリリアンの名を口に出され、ネリネは
諄いと言わんばかりに腕を組んでカリムを
睨み返した。いい加減その話題に付き合うことにも疲れてきていた。
「…根拠は?」
「
貴女は彼女を
忌避されておられるようですが、話を聞く限り、リリアン・ヴァニタスにとって
貴女は唯一
縋り付くことのできる存在だと言えるからです。」
「他方でもし
全く逆の心証を
抱いているのならば、厄災の元凶を唯一知る
貴女を生かしてはおかないでしょう。竜巻を起こせる力を持っているのならば、風に乗って急接近してくることも想定できます。ここならば
駐屯している大陸軍の者に夜間の警戒に当たってもらえますので、あくまで護送の一環としてご承知いただきたく存じます。」
カリムは至って真剣な眼差しで——とはいっても片目は前髪で隠されているが——その進言の真意を打ち明けた。
拒絶する余地のない現状に、ネリネは首を振って露骨に大きな溜息をついた。
「…そう。そこまで言うなら聞き入れておくわ。いずれにせよ乗り心地の悪い馬車のお
陰で余計な疲労が溜まっているし、早いところ休ませてもらうわよ。」
ネリネは最後まで
腑に落ちない
素振りを見せながらも、カリムの進言を大人しく受諾して身を
翻し、目の前の平屋の玄関に手を掛けた。
「ご理解をいただき恐縮でございます。それでは、明朝またお迎えに上がりますので、どうかごゆっくりお休みくださいませ。」
その場で深々と礼をする青年を
一瞥し、ネリネは
颯爽と扉を開けて室内に入った。
そして
直ぐさま玄関を施錠し、静かに扉に
凭れかかった。
間もなくして馬車が動き出し去っていく音に耳を
欹て、
漸く
独りの沈黙が訪れると、先程よりも更に深い溜息が漏れた。
——言い得て妙だったな。あの男、やはり何を考えているのか読めたものじゃない。これ以上関わりを持つべきではないな。
大陸軍の臨時中継地点と言い表しただけあって、室内は宿泊施設としては最低限の、簡易で質素な設備しかなかった。ネリネはその狭い空間を隅々まで調べ、何も罠のようなものが仕掛けられていないかを入念に確認して回った。
暫くして室内の安全を信用できるようになると、ベッドの上に
仰向けに倒れ込んだ。大して柔らかさのない本当に簡易なベッドであったが、
この少女にとっては
それがとても心地良く感じられた。
——疲れた。とても長い1日だった。…さて、これからどうするべきか…。
今朝はメンシスの海岸に漂着していたところから始まり、慣れない長時間の馬車移動を経て、
全く知らない土地の小さな室内で夜を迎えていた。
それだけでなく、
窮屈な空間で繰り返される男の問答にも、思った以上に
堪えるものがあった。
肉体的にも精神的にも、隠し切れない疲労を抱えて当然であった。
だがこの平屋を大陸軍に包囲されている事実や、カリムという青年がまだ何か
企んでいるのではないかという懸念を考慮すると、大人しく眠りに
就くわけにはいかなかった。
まるで袋の
鼠のように着実に自分を追い詰めようとしているのではないかと疑わずにはいられず、ネリネは横たわったまま必死に思案を
廻らせた。
——
宵闇に
紛れて脱走するべき? ここが大陸のどの辺りなのか
解らないけど、恐らく海は近い。今夜は曇天で月明かりがなくて、海風で雑木林が
騒めいているから、風に乗って姿を
眩ますことは不可能ではないかもしれない。
——でも、不自然な風そのものが警戒されているかもしれない。いっそのこと
厄災の元凶であるリリアンが
本当に出現したことにして、不意打ちを仕掛けてここら一帯を竜巻で吹き飛ばすべき? 大陸軍とはいえ、竜巻に対抗できるような手段を持ち合わせているものなの?
——いや、 そもそも海が近いということは、この一帯に生い茂る雑木林は防風林の役目を担っているのかもしれない。もし
あたしが
悪魔を宿していると最初から疑念を掛けられているのなら、そういう地形に誘導されていても不思議じゃない。
——そんな環境下で、どれだけの被害を
齎すことができる? 再び一帯を
蹂躙するだけの力が、
いまのあたしに
残されているの…?