第2話 悪魔の接吻
文字数 4,127文字
カリムはロキシーが釈明する現況に息を呑みながら、漸くこの邸宅を埋め尽くす沈黙の意味を理解すると、唯一応対するその女使用人に再三頭を下げた。
「そ、それは…お気の毒というか…そのような状況とはいざ知らずお邪魔してしまい、大変失礼いたしました。」
「いいえ、私どもも充分なご対応が叶わず申し訳ございません。」
ロキシーもまた何度目かの会釈で控え目に応えるその裏で、調査員を名乗る青年の言動を注視していた。
——この人は本当に使用人長に面会を希望していたのかしら。それが叶わないと知ったなら、日を改めるなどと言って引き下がったりしてくれるのかしら。
淹れた紅茶には毒など入っていないのに、青年は何かを敬遠しているのか見向きもしていなかった。頑なに口元のバンダナを外そうとしないその様子も、ロキシーの不信感を募らせる一因になっていた。
その一方でカリムは、俯きながら少しの間考え込むような姿勢をとっていたが、何か思い至ったかのように傍らに待機するロキシーを見上げて尋ねた。
「ロキシーさんには何の症状も出ていないんですか?」
「…今のところは。ただ、少しずつ倦怠感が増してきているような気はしています。」
「そうなんですか。…もう少し、ロキシーさんにご質問させていただいてもよろしいでしょうか?」
ロキシーの密かな願いも虚しく、カリムは唯で立ち去ることはせず、協力という名の矛先を自身へと傾けてきたように見えた。
その先端がどこまで己が身に差し迫ってくるのか危惧せずにはいられなかったが、無理矢理拒絶するわけにもいかず渋々同意を示した。
「それでは…伝染病の蔓延を認識したときのことから、お聞かせ願えますでしょうか。」
その後暫くの間、恰も取調べを受けるかのような質疑が続いた。伝染病の蔓延を知ったのはいつか、その前日にどんな業務に従事していたか、何を食べたか、誰と会っていたか。
それ以外にも他の使用人の病状、とりわけ使用人長について尋ねられることが多いように感じた。
それら一問一答は簡潔なものであったが、ロキシーにとっては冗長で憂鬱な時間になっていた。
着席を許可されないままその質疑が続いており、立ち仕事には慣れていたものの一刻も早く腰を下ろしたい衝動に駆られていた。
粗雑なのか常識知らずなのか、そんな下っ端の青年が伝染病の蔓延地域に送り込まれている事実に、ロキシーはかえって同情してしまいそうになっていた。
「成程ですね…。それにしてもこんな状況にも関わらずお一人で広い邸宅を管理されているなんて、その心労は察するに余りありますね。」
だが、同情されることに対してはどうしても抵抗があった。意図があるにせよないにせよ、会ったばかりの男性に一歩でも踏み込まれれば、自然と一歩退いてしまうものであった。
物心ついた頃から他人の視線には敏感で、特に男性の瞳に決まって潜んでいる影には常に気圧されていた。
この邸宅では制服として胸元が広く露出したエプロンドレスを着用させられていることも一因かもしれないが、幼い頃から学舎にも通わず働いていたその姿は、挙って曰く付きの存在として見られて当然であった。
そしてこの青年の瞳にも、卑俗な存在を見るでも憐憫を抱くでもない、また違った影が宿っているような気がしていた。
「さて、僕はそろそろ具体的な調査を始めさせてもらいます。…これだけ同時多発的に被害者が出ていると、環境的な要因も考えられます。例えば街の取水源が汚染されているとか…この盆地に立ち込める霧にも問題があるかもしれませんし…。」
気が付けば、カリムは筆記具を片付けながら独り言のように今後の予定を呟いていた。
必要な用事は済んだのか、青年は早々に立ち去ろうとしているように見えた。それまでの間を持たせるような言葉の羅列がどこか空虚に感じたロキシーは、その後を追うように補足をしてみせた。
「…あの、この盆地の霧は時期的なもので、特段珍しい現象ではございません。水質に関しましても、当邸宅も街の住居と同様の水源から引いておりますので…。」
「それでも、調べるに越したことはないですから。それに主だった症状のないロキシーさんには、もしかしたら天性の耐性があったりするのかもしれないですしね。」
だが冗談半分で放ったであろうカリムの言葉は、唐突にロキシーの心臓を冷たく鷲掴みにし、血の気が退くような動揺を引き起こした。
——きっとこの人は、暗に確信を突こうとする意図はなかったのかもしれない。
それでも本当は既に伝染病の真相を掴んでいるのではないかという漠然とした疑心、自分の身体を隅々まで調べ秘密を暴こうとするのではないかという危機感が、最早退く余地のない足元をはっきりとロキシーに認識させた。
その瞬間から、譬え大陸議会から派遣された客人だろうと容赦をするべきでないと、本能が警鐘を鳴らし始めていた。
——やっぱりこの人を、このまま返すわけにはいかないわ。
「えっと…それでは、またお伺いしますので。」
一方のカリムも不用意な発言で室内の空気が微妙に変わったことを察したのか、柔らかいソファから愈々腰を上げようとした。
「…あの、1ついいでしょうか。」
だがその起立を抑え込むように、ロキシーは身動ぎせず提言した。但しその声音は微かに震えており、カリムは気まずさを覚えつつも離脱を強行することはせずに問い返した。
「…どうされましたか?」
「私は、この伝染病の正体を知っております。…症状の特徴からして、『魔性病』だと思われます。大陸東部で昔から稀に発生することがあると聞く流行り病です。」
先程の聴取では何ら語られることのなかった情報を受け、青年は呆気にとられている様子だった。そして記録用の筆記具や羊皮紙を取り出すことも忘れて、自虐的な笑みを浮かべて辿々しく切り返した。
「…ああ、不勉強で大変申し訳ありません。失礼ながら、詳細をお伺いしても?」
「すみません、私もそれ以上のことは何も。…私の母が昔『魔性病』で故郷を追われて、赤子だった私とともにこの地に辿り着いたらしいのです。その事実を以前母より聞かされたことがある程度ですので。」
そこでカリムは何か閃いたかのような反応を見せ、別の質問を繰り出してきた。
「…あの、つかぬ事をお尋ねしますが…ロキシーさんの母親は、使用人長のレピア様で相違ないのでしょうか?」
「相違ございません。私も母も棲み込みでこの邸宅にて長らく従事させていただいております。」
「ということは…やはりレピア様にお話を伺うことができれば、伝染病の原因を突き止められるかもしれないのでは…?」
——やっぱりそういう結論に辿り着くのね。是が非でも母の身辺を詮索する理由が欲しいのだわ。…でも、そうはさせない。
ロキシーは表情を押し殺したままゆっくりと首を左右に振り、覚悟を決めて、誘き寄せた青年を陥れるための台詞を言い放った。
「カリム様、今はあまり女性に近付かない方がよろしいかと存じます。古来より『魔性病』の元凶は決まって1人の女性だと言われています。…もしかしたら、大陸に伝承される厄災の1つなのかもしれませんよ。」
その静かなる警告は、思惑通りに目の前の青年を硬直させた。
窓辺では穏やかな風が靡きカーテンが揺らめいていたが、その部屋はまるで密室であるかのように空気が張り詰めていた。
足元を踏み違えたことを察し言葉を失ったカリムは、俯き加減のまま忙しなく目を泳がせているように見えた。
その様子を見透かしたロキシーは、更に追い打ちをかけるようにカリムへ囁きかけた。
「…カリム様、紅茶が冷めてしまいますよ。」
猫舌の言い訳も適わなくなったカリムは、突然雰囲気の変わった女使用人に怖気づいたかのように、恐る恐るティーカップに左手を伸ばした。
最早それ以外に打開策を思案するための時間を稼ぐ手段が無くなっており、カップとソーサーが必要以上に喧しい音を立てた。
そしてゆっくりと湯気の立たなくなったカップを持ち上げると、口元を覆うバンダナを右手で少し捲り上げた。
そのとき傍らに立っていたロキシーが、不意に身を屈めてカリムに顔を近付けた。
「…失礼。」
自然と振り向いたカリムの視線上にはロキシーの露出した胸元が迫ってきており、反射的にバンダナを更に捲り上げて自らの視界を隠そうとした。
だがそうして余計に露わになったカリムの口元に、ロキシーの艶やかな唇が覆い被さった。
顔を背けられないよう静かに、尚且つしっかりと両手でカリムの頭頂部と顎を包み、ロキシーはそのまま鼻から甘美な吐息をゆっくりと漏らした。
久し振りに味わう肉感は自然と心を落ち着かせていくようで、接吻を交わす数秒間は、ロキシーにとってまるで永遠にも思えるかのような錯覚を引き起こしていた。
他方で予想だにしない展開に大きく目を見開いていたカリムは、ロキシーから解放された瞬間、肺全体が中心部から串刺しにされたかのような凄まじい痛みに襲われた。
そして瞳は更に血走り、激しく噎せ返ってソファの上をのた打ち回った。両手で胸板を掻き毟り、悲鳴と怒号が鬩ぎ合うかのような叫声を暫くの間上げていたが、一向に症状は治まらなかった。
持っていたはずのカップは放り出されるように遠くの床に転がり、紅茶が広範に染みを作っていた。
だがロキシーはそんな粗相には一瞥も暮れず、口元を右手で覆いながら、据わったような菫色の瞳で悶絶し藻掻く青年を見下ろしていた。
——ごめんなさい。なるべく苦しみが続かないように貴方を殺すには、こうするしかなかったのです。
不図、開け放たれた窓際に何者かの気配を感じたような気がして、ロキシーは虚ろな表情を静かに傾げた。明らかに普通ではない青年の叫びを、何者かに聞かれてしまったのかもしれない。
それでもロキシーは何事もなかったかのようにゆっくりと窓際に歩み寄ると、裏庭に顔を出すことなく窓を閉めて施錠し、カーテンで覆い隠した。
——少し早いけど、他の窓も閉めに行こうかしら。別に誰が侵入して来ようとも問題はないけども。…この邸宅を私の毒で充満させてしまえば、誰も私に近付くことすらできないのだから。
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