「…ピナスさん? 大丈夫? ごめんなさいね、加減してるつもりなんだけど…。」
不自然な絶句で硬直したピナスが不安になり、ステラは青白い
蔓で拘束しながらも
狼狽気味になっていた。
何度かイリアに視線を送って次の選択を
委ねようとしていたが、イリアはピナスの様子を無言の抵抗と受け取るべきか
否か見極めかねているようであった。
その
暫しの沈黙で我に返ったピナスは、言わなければならないことを思い出して力無く声を発した。
「…もうよい。今後勝手な真似はせんと
約しよう。だから早く解放してくれ。」
その態度の急変振りにイリアは思わず目を丸くしたが、ステラは
安堵したように息を
吐いて、奪った魔力をピナスに
還しながら
直ちに拘束を解いた。
青白い
蔓は地中に吸い込まれ、
軈てステラの衣服の内側へと収束していった。ピナスにはそれが
蒼獣の操り方と良く似ているように見えた。
だが直後、一気に魔力が戻ってきた反動なのか立ち
眩みに襲われ、ふらついていた肩をステラに慌てて抱き寄せられる格好になった。
お互いに死んだ身であるはずなのに、そのときどこか懐かしいような温もりが
被さってきたような気がした。
「大丈夫だ…何ともない。」
それでもステラはピナスを抱き寄せたまま、
囁くように問いかけていた。
「ねぇ、
貴女は…リオのことを知っているの?」
それはピナスが逆に尋ねたい
台詞でもあった。
行方を
晦まし二度と会えないと思っていた
天真爛漫な人間の幼女が、その後どのようにして年月を過ごし、
何故命を落とすに至ったのか…リオナについて知りたいことは山ほどあった。
だがそれ以上に、追及されることを恐れた。
自分のせいで、
延いては母のせいでリオナが故郷から切り離され、死も同然の苦しみを味わったことを
慮ると、彼女の恩人に釈明すべき言葉が見つからなかった。
況してやリオナの死とステラが悪魔を顕現させた因果が結び付いているのであれば、その責任すら自分が負わなければならないような気がした。
——
此奴はリオナの過去を知ったとき、
憤慨するのだろうか。その
柔和な
眼差しが
軽蔑で
歪むのだろうか。
——
此奴が操る厄災の力を前にして勝算がない以上、最悪今度こそ魔力を
根刮ぎ奪われかねない…
宛らドランジアに殺されたように。今は
此奴との関係性を、
徒に悪化させるべきではない。
そうして回答を
有耶無耶させることを決める一方で、ピナスの内心には別の疑念も湧き上がって来ていた。
——リオナはリンゴを食べて悪魔を宿したと聞いた。それは
即ち、
儂らと同じようにドランジアの手によって悪魔を顕現させられたということなのか?
此奴が同じ疑問を
抱いているのかは
解らんが…そうであればまた1つ、ドランジアに
仇討ちする理由が増えることになる。
——
此奴がドランジアを憎まぬのなら、その分だけ
儂が報復をしてやろう。リオナのことを知るのは…その後でも構わん。
「…さぁの。
儂には人間はよく
解らん。」
自分を納得させたピナスは返事を
誤魔化しながらステラから離れると、その奥で様子を
窺っていたイリアに向かって
不愛想に問いかけた。
「それで、この後はどうするつもりだ。」
ステラとは異なり、イリアに対しては
未だに何の義理もなかったが、結果としてこの女隊長の協力要請に応じなければならない事実は受け入れざるを得なかった。
イリアもその関係値を
弁えていたのか、表情を変えずに答えた。
「…一度先程の場所に戻る。その後は私とステラで、ネリネ嬢とロキシーを連れ戻す。2人は
貴女やリヴィア
女史のように姿を消すことなくあの場を離れた。この世界が現世を模しているのなら、グラティア州に
未だ
留まっているはずの2人の捜索に時間は
然程要しないだろう。
貴女はその間、待機させているドールと合流してほしい。」
その説明の
最中でステラはイリアに歩み寄って左手を
繋ぐと、
誘うようにピナスにも右手を差し伸べた。
その段取りは前もって決めてあったのか、協和を歓迎するその
萌黄色の
眼差しがピナスには
眩しかった。
怪我を処置しながら顔を
覗き込んで来るリオナの
面影が、淡く
垣間見えたような気がした。
——
成程、これが負い目というやつか。
そして彼女が示す行為が目的地へ同時に転移するための方法だと
解っていながらも、人間の手を取ることなど生前は想像だにせず、ピナスには
僅かな
躊躇いが生まれていた。
だが無意識に掲げていた左手をステラが引き寄せると、先の転移の
間際を再現するかのように、
唐突に立ち込めた
靄で視界が
覆われた。
途端に足元が
覚束なくなったピナスは、温もりのない、ただ
繋がっているだけの状態がどこか頼りなく思えて、置き去りにされないように強く握り返していた。
その
柄にもない
浮ついた心情に気付くと、思わず
臍を
噛んだ。
——やはり、しくじったな。…ここに来て心残りなど、新たに作るべきではなかったのだ。
次に瞬きをしたときには、ピナスは黒い花畑で囲まれた円形の広場の中心に降り立っていた。
クラウザの場合とは異なり、一度見ていたとはいえ思い入れなど
皆無な場所への転移には、軽微だが酔いに似た反動が
齎されていた。
既に左手は離されており、イリアとステラは
間髪を入れず次の転移を始めようとしていた。
だが広場に満ちる沈黙に違和感を察したピナスは、やや
上擦った声音でイリアを呼び止めた。
「おい、ここに誰か待機させているのではなかったのか。」
その指摘にイリアは虚を突かれたように目を
瞠り、ステラもまた
呆気にとられて周囲を見渡した。だが待機に応じていたはずのドールの姿は広場に見当たらず、
忽ち気の毒そうに
呟いた。
「少し待たせ過ぎちゃったのかもしれないわね。近くを歩いているのか…それとも何かあったのかしら。」
一方でイリアは長考することなくピナスの名を呼ぶと、淡々と指示を伝え始めた。
「方針が定まらず申し訳ないが、
貴女にはドールを
捜索して欲しい。ここが現世のソンノム霊園を模しているのであれば、敷地内を回ることに
然して時間は要しないはずだ。もし見つからなければそのときは…北へ飛んで欲しい。」
「確かこの方角へ北上すれば、ディレクタティオの街が見えて来るはずだ。彼女もまたもしかしたら故郷に足を運んでいるのかもしれない。だが、あくまで現世と同じ地形が続けばという前提だ。何か身の危険を感じたら、迷わずまたこの広場へ戻って来てくれないだろうか。」
ピナスはイリアが白い天井に向かって掲げた指先を記憶すると、
渋々承諾をしてみせた。
だが軽く
挨拶を交わしたステラとイリアが再び
靄に包まれ転移していく様子を見届けると、張り詰めていた糸が断ち切れたかのようにその場に崩れ落ちた。
散々敵視していたはずの人間から温情を、信用を掛けられる
度に全身が
強張っていたものの、
1人になったこと
で
漸く
安堵に浸ることが
出来ていた。
——まったく、
忙しない
奴等よのう。やはり
独りの方が気楽だ…とはいえ、一度
約した以上は
応えねばなるまい。
——だがよりによって今度は
儂がグレーダン教徒の娘を気に掛けねばならんとは…因果とはどこまで非情なのだ。
深い溜息をつきながら狼の耳を
欹て鼻を震わせたが、案の
定何も感知することが
出来なかった。
ピナスは仕方なく立ち上がると、敷地内を手あたり次第見て回ることを決めて走り出し、広場の奥に伸びる坂を駆け上った。
背の高い樹木のような物体に
覆われた坂道は一転して
白けていて、その景色は
この世界の
クラウザで
覗いた洞窟に似ていた。
上りきった先は
直ぐに
袋小路になり、左手側は開けて
真白の空が映っていた。
その足元には人工的に囲われたような黒い空間があり、幾つもの正方形の物体が等間隔に並んでいた。そして正面にあった最も大きな物体に刻まれていた白い文字に、ピナスは顔を
顰めた。
——『ドランジア一族の墓』…
彼奴の先祖の墓といったところか。確かにここは霊園なのだな。
流石に
彼奴が眠っている…ことはないだろう。
だが何よりも目を
惹いたのは、その物体に添えるように置かれていた3基の花だった。
広場に咲き並んでいた花々とは造形は違えど黒一色であることに変わりはなかったが、
何故かそれらは時折青白く発光していたからである。
ピナスにはそれが
蒼獣のような魔力の
類であると
直ちに理解すると、
鬼気迫った表情で沈黙に満ちている周囲一帯を見渡した。
——これは一体誰の
仕業だ? ドールという娘がやったのか? それとも…
儂らの他に何者かが
潜んでいるというのか……!?
一方その頃、ロキシーは生まれて初めて海を見ていた。
セントラム盆地の中央に広がるラ・クリム
湧水湖とは比較にならないほど広く果てしない大洋は、水平線こそ金色に
煌めいていたものの、黒一色に平たく固まっているように見えた。
そのくせ足を着けようものなら
忽ち引き
摺り込まれ、二度と
這い上がれなくなってしまうかのような先天的な恐怖があった。そもそも湯舟以外の水に浸かった経験もなかった。
それ
故に、大型船を
象った影のような物体の船首部分に
佇み、静かに遠方を見つめ続けているネリネに
見惚れていた。
彼女の話によると、ここは国の2大交易都市の1つであるソリス港を模した場所であるらしく、行く宛などないと発言していながらも、ロキシーには彼女が何らかの意図を
以てこの場所を訪れたように見えた。
海際に出たネリネは風に浮かぶと、軽やかな身の
熟しで難なく大型船の
切先に着地して、静かに何かを観察し始めていた。
この貴族令嬢が
如何に交易都市の育ちであるとはいえ、か
細い足場は底なし沼を思わせる黒い水面に大きく
迫り出していたため、ロキシーは彼女の胆力に感嘆する他なかった。
——生前にお仕えしていた
伯爵の
御子息様も勤勉な方だと聞き及んでいたけれど、これほどの身体能力は備えておられなかったでしょう。同じ貴族でも、生まれ育つ環境でこうも
為人は違うのね…。
他方でロキシーは、胸元に空いた
拳大の黒い
孔がずっと気掛かりで、ネリネが戻るまで
埠頭と思しき場所で待ち
惚けながら
憂鬱に
浸っていた。
依然として痛みはないものの、何か
贓物とは別に大事なものを失い、それを取り戻せずにいるという虚無感が徐々に
孔から膨れ上がっていくようで、相対的に気分が打ち
萎れていくのが
解った。
——なんだか、変な感じがする。この感覚は…『
魔性病』を引き起こして誰とも接触
出来ずにいたあの頃に似ている気がする。私は
未だこの世界で目覚めてから、
微塵もその力を使っていないのに。
気落ちするように悩んでいると、頭上から柔らかい風が吹きつけて来たので、ロキシーは
漸くネリネが戻ってきたことを察した。
未だに下着姿を意に介さないネリネには
尚も恐縮せざるを得なかったが、
辛うじて口先を動かして尋ねた。
「あの…何か、
解りましたか?」
「そうね…きっとここは現実のソリス港なのでしょうけど、相変わらず何も動きを見せる物はないわね。風も無いから波も立たない。重力の概念はあるみたいだけど、物体に触れて動かすことは出来ない。
焦れったくて
堪らないわ。」
だがネリネは不満そうに報告しつつも、ロキシーの肩を寄せて
囁くように警告した。
「でも何か嫌な予感がする。もしかしたら、あまり悠長にしている時間はないのかもしれない。」