第６話　おわりのはじまり

　ドールは想像だにしない光景と地下空間の肌寒さに身を強張(こわば)らせながら、ランタンを揺らして隠し部屋の更なる探索に臨(のぞ)んだ。


　壁画の向かい側には、また別の何かを保管しているようないくつもの木箱が積み重なっていた。
　その先には少し開けた空間があり、低い作業台や金槌(かなづち)などが確認できたほか、突き当りには古びた本が陳列された書架や書類が散乱した机が置かれていた。


——何かを加工する場所？ 工房？ 物や設備は古そうだけど、明らかについ最近まで人の手が付けられていたように見える。…やっぱり、教団には何か隠して生み出している物があるんだ。でも、一体何を……？


　不図(ふと)ランタンの光に反射した何かを見遣(みや)ると、机の上の壁に大きめの額縁が飾られており、ドールはそこに描写されていた絵画に自然と釘付けになった。

　左側では群衆が各々(おのおの)腕を掲げており、右側では十字架に括(くく)り付けられた７人の女性が描かれていた。そのうちの１人の胸元に向かって、豪勢な装飾を配(あしら)った１人の男が棒状の何かを突き立てていた。

　千年前に預言者グレーダンが厄災の悪魔を一網打尽にして祓(はら)った『魔祓(まばらい)の儀』を再現したものだと、ドールは直(す)ぐに理解した。

　だが同時に、はっきりとした違和感も覚えていた。

　『魔祓(まばらい)の儀』の描写は、美術館の芸術品から子供が読む絵本まで幅広く存在している。いずれもグレーダンの栄光を誉め讃(たた)え、救済と安寧(あんねい)の到来を悦(よろこ)ぶものであった。
　それに対してこの額縁に収められた絵画にはどこか悲壮感が溢(あふ)れ、怒りや憎しみ、殺伐とした雰囲気を放っているようであった。

　千年前の神託の御業(みわざ)を皮肉に描いたものだろうか、と暫(しば)し見つめていたが、不意に先程の壁画が脳裏を過(よぎ)ったとき、突如(とつじょ)全身が凍り付くように震えあがった。


——違う、これは『魔祓(まばらい)の儀』なんかじゃない。時代が違うんだ。

——これはきっと…『魔女狩り』なんだ。

　
　次の瞬間、ドールは目の前が真っ白になった。


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　何も無い、真っ白な世界。

　死んだ自分は暗闇に放り込まれるのだろうとドールは想像していたが、

生きながら死んでいると

視界は雪原のような一面の真白(ましろ)に包まれるのだろうとも思った。

　もっと将来やりたいことは沢山(たくさん)あったはずなのに、今となっては何も思い出せなかった。最早(もはや)思い出すことすら億劫(おっくう)に感じた。
　それほどまでに自分の命は無様に転がされて生気を喪失してしまい、ドールは真白(ましろ)の空間でぼんやりと回顧(かいこ)に耽(ふけ)った。


——アメリアおばさんは、どうしてあからさまに怪訝(けげん)な素振(そぶ)りを私に見せたのかな。話に乗せられた私が失敗して、魔女狩りのような目に晒(さら)されることを実は見越していたのかな。

——もう一度会って話したかった。どういうつもりだったのかって問い詰めてみたかった。そして庇(かば)ってほしかった。


　だがそれ以上に、怖いと思った。その先に立つ自分の姿を想像したくなかった。寧(むし)ろもう二度と関(かか)わるべきではないと塞(ふさ)ぎ込むことが、正しい選択であるように思えた。


——私の軽率な立ち回りも、踏み入れた暗闇の深さを推し量(はか)れなかった過失も、私が引き起こした厄災の前に同情を寄せられる余地なんてない。この世界で誰も私に手を差し伸べるべきではないし、自(みずか)ら縋(すが)り付くべきでもない。

　
　とても背負いきれない禍々(まがまが)しい重荷を生み出してしまったが故(ゆえ)に、一歩を踏み出すことすらも憚(はばか)られた。


——神様、どうして私はこんな目に遭(あ)わなければならないのですか？ どんなに白髪(はくはつ)の忌(い)み子と蔑(さげす)まれても、あなたの慈愛を信じて導かれることを待ち望んでいたのに。


　赤子の頃から面倒を見てくれた教団は、触れれば即時処刑することを厭(いと)わないような大きな闇を抱えていた。
　その闇の存在を示唆(しさ)したアメリアにも、修道女である自分を貶(おと)めてまで進めようとしていた計略があったのかもしれないと疑(うたぐ)った。

　反芻(はんすう)する度に疑心暗鬼に囚(とら)われて、一切を信じられなくなった。挙(こぞ)って悪魔と指差す他人のことも、脆弱(ぜいじゃく)で軽薄(けいはく)な自分のことも、何もかもが信じられなくなっていた。

　挙句(あげく)の果てに厄災の悪魔に見舞われて、向けられる殺意をどれだけ拭(ぬぐ)っても心が安らぐことなど望めなかった。
　況(ま)してや刺客(しかく)を脅迫しようとしても、何ら言葉を引き出すことすら出来(でき)ないでいた。


　敵対する者を圧倒する力を授かったところで、結局自分が

人に

為(な)

れない

ことに変わりはなかった。…否(いな)、そもそもこんな力など初めから望んではいなかった。


——神様、私は一体何のためにこの世に生を授かったのですか？

——それとも、やっぱり、最初から神様も天国も存在していないのですか？


——疲れた。何もかもが嫌だ。


——もう、いっそ死んでしまいたい。



　唸(うな)るように弾ける轟音(ごうおん)が耳に飛び込み、ドールは我に返った。


　真っ白な視界が激しく揺らめいていた。だがそれは絶望故(ゆえ)の幻影ではなく、厄災の悪魔の力である蒼炎(そうえん)だった。

　炎が更に白く迸(ほとばし)るように輝きを増し、自分を取り囲むように高々と燃え上がっていた。

　ドールはその様子を呆然(ぼうぜん)と見つめながら、明らかな異変が起きていることに気付いた。


——炎を、制御できない。……止まらない……！？


　本能的に危機を察し、咄嗟(とっさ)に記憶を巻き戻した。

　死神を追い詰めたにも拘(かかわ)らず期待通りの反応が得られず消沈し、過去の回想に浸っていたことで、再び計り知れないほどの悲しみに満たされていたはずだった。
　だがすっかり底の抜け落ちた瓶のように、満ちゆく力を堰(せ)き止めるものが無くなっていた。

　最早(もはや)悪魔の力は鎮(しず)めることの叶わない、無差別に延焼する業火(ごうか)と化していた。


　驚きと焦燥(しょうそう)のあまり、ドールは腰かけていた瓦礫(がれき)から滑り落ちた。
　その拍子に床に着いた左手が炎に触れるた途端(とたん)、凄(すさ)まじい高熱が経験したことのない痛みとなって奔(はし)り、思わず跳ね上がって甲高(かんだか)い悲鳴を上げた。

　気が付けば取り囲む炎に充(あ)てられて急激に体温が上昇し、既に全身火傷しているかのような錯覚に陥(おちい)っていた。


——熱い。熱すぎる。ついさっきまでは炎を潜(くぐ)っても平気だったのに、どうして……！？


　急速に青褪(あおざ)めていく表情を、襲い掛かる熱気が容赦なく上塗りしていた。そしてドールを包囲する炎の壁が、徐々に内側へと躙(にじ)り寄ってきていることに気付いた。

　自分の意思ではなく、やはり制御はできなかった。このままだと間違いなくに炎に呑まれてしまう。それが何を意味するのか解(わか)っているのに、身体は動かなかった。

　だがそこで漸(ようや)く、ドールは違和感の元凶を理解した。


——ああ、そうか……私はもう、諦めてしまったんだ。


　厄災の器(うつわ)となった身でも耐え切れないほどの炎熱によって、抑えきれないほど燃え上がる『悲嘆(ひたん)』によって、意識を失うどころか自分で自分の身を完全に滅ぼすのだと察した。

　その虚(むな)しい現実を、ドールはあっさりと受け入れていた。


　物語で見聞きしてきたこの大陸の厄災に、長い年月に亘(わた)って続いた脅威は皆無(かいむ)だった。
　悪魔が顕現した者の末路は、恐れ慄(おのの)いた民によって討伐されるか、悪魔の力に呑まれて自滅するかのいずれかでしかなかった。

　故(ゆえ)に、この破滅は最初から解(わか)りきっていた未来であり、

期待しないことが期待通りに進んだ先の

終着点であった。


——もういい。私の最期(さいご)は、これでいいんだ。


　力無くへたり込み項垂(うなだ)れる姿は、厄災を齎(もたら)す悪魔にすらこの世から用済みだと吐き捨てられているような気がして、ドールは静かに瞳を閉じて絡みつく真白(ましろ)の炎に身を委ねた。



　その瞬間、叩きつけるような風圧がドールの正面を襲った。

　その勢いに煽(あお)られて仰(の)け反(ぞ)りながらも反射的に目を見開くと、真白(ましろ)の炎を切り裂くようにして大きな暗闇が生まれていた。

　そして暗闇の奥から迫り来る影を察知した直後、更に棒状の何かが飛び出してきて、ドールの胸元に激突した。
　見開かれた深紅の瞳は見覚えのある仮面の輪郭を映し、その奥から真っ直ぐに投げつけられる視線を捉えていた。

　今度こそ確実に胸元を突いた黒い鉱石は、心臓を穿(うが)つどころか刺さるわけでもなく、況(ま)してや痛みすら生み出すこともなかった。

　だが、

本物の杖

であればその事実だけで条件は満たされた。


　ドールは心臓が全身に木霊(こだま)するような１つの鼓動音を発し、それに乗って炎熱とは異なる和(やわら)かな温もりが波打つように染み渡っていくのを感じた。
　まるで隕石が大地に衝突する様を、とてつもなくゆっくりした速度で再現しているかのように思えた。

　そして身体は空気に蕩(とろ)けるように軽く、心地よく浮かび上がって、徐々に掠(かす)れ行く意識とともに黒い鉱石の闇へと誘(いざな)われていった。

　一体自分の身に何が起こっているのか考えるまでもなかったが、そこには焦燥(しょうそう)も絶望も存在しなかった。


——これが、『封印』…？ 預言者グレーダンが『ディヴィルガム』を使ってラ・クリマスの悪魔を捕らえたという…神託による御業(みわざ)……？


——そうか…きっと私にとっては、

これが正しい終わり方

だったんだ。


　決して幸福に溢(あふ)れた人生ではなく、最後に犯した罪の数々は到底贖(あがな)えるものではなかった。
　それでも磔(はりつけ)にされるでもなく、悲嘆(ひたん)に暮れて独(ひと)り燃え尽きるでもない、

厄災の悪魔として

正しい終わり方が出来(でき)たのだと思えた。

　その意味で自分の命が確かに必要とされたことで、ドールは微睡(まどろ)むように深い安堵(あんど)に浸っていた。


——沢山(たくさん)壊して、殺してしまってごめんなさい。でも、私を終わらせてくれたのが、貴方(あなた)でよかった。


——さようなら。私の命が、貴方(あなた)のためになりますように。




　薙(な)ぎ払うような突風が廃墟一帯を覆(おお)い尽くしていた青白い炎を一瞬で掻(か)き消し、焦げ付いた修道服と黒い鉱石のペンダントが静かに揺れ落ちた。
　
　それらを身に付けていた者は仄(ほの)かに紅(あか)く煌(きら)めく粒子の塊(かたまり)と化して、突き付けられていた杖の先端——千年前に大陸に降り注いだ隕石の欠片(かけら)へと吸い込まれていった。
　

　火種は完全に失われ、ディレクタティオの小高い丘には虚(むな)しい沈黙が訪れた。

　瓦礫(がれき)の山に刺さっている大鎌には、乱雑に破かれた布切れが引っ掛かっていたものの、それを煽(あお)るような風すらもだんまりを決め込んでいるようであった。
　その静けさを破ることのないよう、杖の持ち主は颯爽(さっそう)と廃墟から立ち去った。


　そして丘の中腹に隠していた荷物の中から透明な液体が詰められた瓶を取り出し、平らな地面に置いて蓋(ふた)を外した。

　その液体の上澄みに向かって杖の先端を傾けると、着装された隕石に吸収されていた紅(あか)い粒子の塊(かたまり)がふわりと零(こぼ)れ落ちた。
　塊(かたまり)は上澄みをすり抜けるようにゆっくり液体に浸かると、忽(たちま)ちそれを捕まえるように液体がうねり、そのまま凍り付いた。


　死神と呼ばれていた杖の持ち主はその現象を見届けると、再び蓋(ふた)を閉めて荷物に詰め、予備の紫紺(しこん)のローブを身に纏(まと)い直して再び丘を下り始めた。

　周辺一帯を包囲するように大陸平和維持軍の駐屯(ちゅうとん)部隊が一晩中警備にあたっていたが、死神が最も端に配置されていた軍人に合図を送ると、軍人はこれをやり過ごして死神を街の路地裏へと送り込んだ。

　その後死神は待機していた拠点まで戻ると、今度は荷物から小さめの紙切れを引っ張り出し、素早(すばや)く筆を走らせた。


［予定通り『悲嘆(ひたん)の悪魔』の封印に成功。未明発の列車にて帰還し、封瓶を引き渡す。大聖堂の調査は同時刻を以(もっ)て開始される。］


　死神は手短に伝言を記すと、拠点の籠(かご)に眠っていた風蜂鳥(かぜはちどり)の脚に括(くく)り付け、壊月彗星(かいげつすいせい)が傾く昏(くら)い夜空へと放った。
　大陸に生息している風蜂鳥(かぜはちどり)という種は帰巣(きそう)本能が強いことで知られ、その習性と飛行速度を利用して即時的な伝書の役割を仕込まれ運用されていた。


　まだ、夜明けまでには時間があった。そのなかで風蜂鳥(かぜはちどり)が宵闇(よいやみ)へ飛翔するのを見届けたまた別の影が、廃墟と化した大聖堂へ向かって静かに動き始めていた。