第２話　２本の鍵

　ソンノム霊園の正門付近には１台の乗用車が待機しており、その傍(そば)に立つタルロと呼ばれたスーツ姿の男がジオラスとカリムを出迎えた。一方のジオラスはタルロにランタンを預けながら、息を殺すようにして問いかけた。


「俺達が来るまでの間、誰か霊園に立ち入ったか？」


「……いいえ、誰も？」


　タルロがやや首を傾(かし)げて答えると、ジオラスはそれ以上何も確認することはなく、自(みずか)ら乗用車の後部座席の扉を開けて颯爽(さっそう)と乗り込んだ。

　カリムも慌てて乗用車の反対側へと回り込み、古びた杖を抱えて乗り込みジオラスと少し間隔を開けて座った。
　タルロもそれ以降は訝(いぶか)しむ素振(そぶ)りを見せず、準備を整えて運転席へ座り、ジオラスに一言添えてから乗用車を発進させた。


「元帥(げんすい)、この後は予定通りで宜(よろ)しいですね？」


「…ああ、頼む。」


　カリムは結局自分がどこに案内されるのか報(しら)せられていないままであったが、先の異変を見て一段と表情を顰(しか)めたジオラスに、容易(たやす)く声を掛ける気力が湧かなかった。
　それでも車内には弾むようなエンジン音が絶えず響いており、かえって居(い)た堪(たま)れない思いが有耶無耶(うやむや)にさせられていた。

　今は未(ま)だグラティア州を中心に、大陸軍や議会関係者のほか一部の富裕層にしか運転どころか乗車すら叶わない最先端技術のガソリン車は、カリムにとってつい数時間程前のソンノム霊園への送迎以来早くも２度目の体験であった。

　とはいえ行先も目的も判然としないまま続く密室の旅程は、意識を集中していなければ、息詰まるか酔うかして醜態(しゅうたい)を晒(さら)してしまいそうな漠然とした不安があった。


　窓の外に映る街灯や住宅が疎(まば)らになるに連れ、カリムは乗用車が北東寄りに、首都から離れるように走っていることが解(わか)った。
　するとジオラスが、徐(おもむろ)に胸元のポケットから紐付けされた大小２本の鍵を取り出してカリムに寄越(よこ)した。


「その大きい方は、住宅の鍵だ。グラティア州の辺境で我がピオニー家が建築し、ルーシー・ドランジアが所有していた別荘のな。」


　それを聞いたカリムは、漸(ようや)く自分が送り届けられる行先を察して忽(たちま)ち背筋が張り詰めた。


「そんな…恐縮です。けじめを付けろと仰(おっしゃ)ったばかりではありませんか。」


「その話以前に、あいつから正式な所有権譲渡の委任があったんだ。だが書面上はまさかの白紙委任だ。あいつは俺に口約束で、譲渡の優先順位の一番上におまえを立てるよう依頼してきたんだ。…それがおまえに対する報奨(ほうしょう)か、せめてもの贖罪(しょくざい)だったのかは知らないがな。」


　ジオラスは立て続けに運転席の後部に仕舞ってあった大きな封書を引き出し、呆然(ぼうぜん)とするカリムの膝元に置いて更に話を付け加えた。


「別荘とはいえ、あいつは殆(ほとん)どその住宅を訪ねていないはずだ…水道や電気は通っているがな。元より13年前の例の事件のあと、ドランジア家の財産一式を暫定(ざんてい)的に押し込んで以来、そのままになっていたんだ。あいつは最低限の持ち物を抱えて首都近郊で暮らし続けていたからな。」

「だから厳密には、住宅以前にその保管財産一式の処遇をおまえに委ねているのだと捉えて貰(もら)って構わない。おまえがそのまま住処(すみか)にしようが、住宅を含めた全財産を売り払って別の地に発(た)とうが自由だ。猶予(ゆうよ)は明日から起算して３日、その日の夜に遣(つか)いの者を回すから返事をしろ。もし後者を選ぶなら、その売却手続きは無償で引き受けてやる。」


　今後の予定を淡々と決定するジオラスに対し、カリムは抑圧されるように小さく承諾する他なかった。

　仮に住宅を譲り受けるにしても、今日齢(よわい)17になったばかりの自分には未(ま)だ法的な契約能力が認められないことから、事実上はピオニー家が住宅を所有し間借りする格好になるのだろうと推測した。

　それ故(ゆえ)にジオラスはなるべく迅速な権利処理を済ませたいのだろうと勘繰(かんぐ)ったが、その口調からは自分をドランジア家の遺産諸共(もろとも)早々に厄介払(やっかいばら)いしたいようにも受け取れた。


——勿論(もちろん)居住を選択しても、不利益を被(こうむ)ることはないのかもしれない。でもその場合、俺は『陰(かげ)の部隊』に戻ることは出来(でき)なくなるのだろう。今まで通りの生活を送るのならば、郊外の別荘も財産も必要ないのだから。

——でも一方で元帥(げんすい)は、全財産を売り払って別の地に発(た)って良いとも言った。もしかしたら、俺が『陰(かげ)の部隊』に従事し続けることを歓迎していないのかもしれない…元帥(げんすい)の言動は一貫して俺のためではなく、議長の意思を尊重したものだろうから。

——『陰(かげ)の部隊』は本来、ラ・クリマスの悪魔を殲滅(せんめつ)させるための秘密裏(ひみつり)の組織だ。その大義が果たされた今となっては、諜報(ちょうほう)機関として運用を継続されこそすれども規模としては縮小するだろう。その部隊を継承するであろう元帥(げんすい)は、恐らく人員を選別する。既(すで)にこの世界で厄災が二度と起きないという前提で動き始めている。

——俺みたいな悪魔への復讐(ふくしゅう)が人生の全(すべ)てだったような人材は、初めから足切りの対象だったのかもしれない。



「答えを急(せ)く必要はないが…何か訊(き)きたいことがあれば、今なら答えてやる。」


　暗い車内で思い詰めていたカリムは、再びジオラスから不愛想(ぶあいそう)な声音で話し掛けられ、そのなけなしの慈悲に何を応(こた)えるべきか尚更(なおさら)戸惑った。

　不覚にも鍵束が掌(てのひら)から零(こぼ)れそうになり、カリムはそれを誤魔化(ごまか)すように無難な質問を投げかけた。


「この小さいほうの鍵は、何なんでしょうか。」


「さぁな。住宅内の鍵ではないから、どこかにある金庫か何かに使うためではないのか。」


　案の定(じょう)短い応対で終わり、再び車内は断続的なエンジン音で満たされた。自分の今後について何も思い浮かばなかったカリムはせめて、会話になりそうな問いかけをしようと試みた。


「…議長が姿を消して、明日から議会はどうなるんでしょうか。」


「ルーシー・ドランジアは体調不良に伴(ともな)う静養、後(のち)に度重(たびかさ)なる厄災に対する一連の指揮を引責し政界から身を退(ひ)く算段になっている。そしてドランジア派閥(はばつ)のヴェルフ・カルミア氏が、今後の議会を取り纏(まと)めていくことになっている。全(すべ)て当の本人が事前に決めた筋書きだ。ドランジア一族は最後の最後でその名に疵(きず)が付くことになるが…おまえが気に病む必要はない。」


「…議長は初めからそのつもりで、僕と縁を切ったということなんでしょうか。」


「当時のあいつは未(ま)だ学生の身だぞ。そもそもおまえが『陰(かげ)の部隊』に関わることがなければ、一生知る由(よし)のなかった話だ。」




　その後は結局是(これ)といった会話もなく、カリムはエンジン音を聞きながら窓から昏(くら)い空を眺(なが)めるしかなかった。
　本心ではジオラスに尋ねたいことが幾(いく)つかあったのだが、何を選んでも厄災関連や今後の施政絡みの話題にしかなり得なかった。

　昨今(さっこん)の厄災の対応責任を問われているのは大陸軍元帥(げんすい)たるジオラスも同様であるうえ、先程の霊園で見た異変も相まって、その手の質問はただでさえ強面(こわもて)な男の神経を逆撫(さかな)ですることに繋(つな)がりかねないと危惧(きぐ)していた。

　あらゆる犠牲を払って完成させたはずの『厄災の無い世界』が早々に瓦解(がかい)することなど、後を託された第一人者として到底容認するわけにはいかないことは、痛いほどに察することが出来(でき)た。



　そしてソンノム霊園から乗用車を走らせること２時間足らずで、目的地である別荘に到着した。
　
　近隣集落からやや離れてひっそり佇(たた)んでいたその煉瓦(れんが)造りの２階建ては、溜息が滲(にじ)むほど上等な外観であったにも拘(かかわ)らず、生い茂った雑草に囲まれて酷(ひど)く殺風景(さっぷうけい)に映っていた。


　カリムが玄関前に降車すると、ジオラスは車内から一言挨拶(あいさつ)を告げたのみで、あっという間に乗用車を出発させて去ってしまった。

　カリムには背の高い雑草を靡(なび)かせる風が、霊園にいたときよりもずっと肌寒く感じられた。
　さっさと玄関口を開けようと手渡された鍵を持ち直そうとして、胸元では大きな封筒と共に古びた杖を抱え込んだままであることに今になって気付いた。


——ディヴィルガム…一応は貴重なものだから、元帥(げんすい)に預けておくべきだったか。もう必要ないのかもしれないけれど、だからといって俺が所持したままでいるのは何か違う気がする。まぁ、３日後に来る遣(つか)いの人に渡しておけばいいか。


　大きな鍵は鈍(にぶ)い音を立てて回り、カリムは玄関扉を静かに開けた。真っ先に目に留まった取っ手を下ろすと、軋(きし)んだ音と共に照明が点灯した。

　居間に進むと見るからにお洒落(しゃれ)な家具や絨毯(じゅうたん)や壁紙に囲まれ、如何(いか)にも富裕層が暮らしていそうな空間であると感じた一方で、少し埃(ほこり)っぽく黴臭(かびくさ)いような気がした。

　とはいえ窓を開けて換気しようものなら羽虫が集(たか)るかもしれず、現状でも特段(とくだん)気に障(さわ)らなかったカリムは、一先(ひとま)ず古びた杖と封書をテーブルに置いて柔らかいソファに腰を下ろした。


　与えられた別荘は身寄りのない青年が１人で住むには贅沢(ぜいたく)過ぎたうえ、少し見渡しただけでもどこまでがドランジア家の財産なのか見極めが困難であった。

　他方で沈み込むようなソファの心地良さに蓄積していた疲労が一気に解(ほぐ)され、微睡(まどろ)むように思考が鈍(にぶ)り始めていた。
　明らかに余所余所(よそよそ)しく落ち着かない空間であるはずだったが、最早(もはや)何を考える気力も湧く余地がなかった。

　不図(ふと)見遣(みや)った壁掛け時計は間もなく22時を指そうというところであり、アーレア国立科学博物館でクランメ・リヴィアを訪ねてから未(ま)だ半日も経っていないことが信じられなかった。

　そしてカリムの脳裏(のうり)には、博物館地下で介抱(かいほう)したのち『陰(かげ)の部隊』に身柄(みがら)を託したサキナの姿が朧(おぼろ)げに映し出されていた。


——あいつは、目を覚ましたかな。あいつも俺みたいに、部隊を足切りされるのかな。…いや、あんなこと言っておいて、何もかも終わったのにもう一度会う理由なんてあるのかな。



　そのとき、遠くで雷鳴が轟(とどろ)くような音が聞こえてカリムは弾けるように飛び上がった。

　音自体はかなり遠く、窓辺に張り付いてもその方角を把握出来(でき)なかったが、雲一つない夜空で確かに雷鳴が響いているのが解(わか)った。


——まさか、これもまた悪魔の仕業(しわざ)なのか？ いや、考え過ぎなのか？ …いずれにせよ、今の俺にもう出来(でき)ることなんて…。


　カリムは目元を擦(こす)りながら振り返り、テーブルの上に横たわる古びた杖を気怠(けだる)そうに眺めた。
　だがその傍(そば)に放られていた鍵束を見ると、身体を休める前にあと１つやるべきことがあると思い返した。

　カリムは小さい方の鍵を差し込める穴を探して、重い脚を動かし始めた。
　もしそれがジオラスの示唆(しさ)したように金庫の類(たぐい)であるのなら、保管されている物は間違いなくドランジア家にとって重要な財産だと確信していた。


　軈(やが)てカリムは、２階の寝室に小さな金庫らしき物体を発見した。期待通りに鍵穴を回すことが出来(でき)、恐る恐る扉を開けた。

　だが中身は期待とは裏腹に殆(ほとん)ど空(から)であり、１通の黄ばんだ封書が置かれているのみであった。
　カリムは小さく溜息を付いたが、手に取ったその封書の宛名を見て絶句した。


『愛するルーシーへ　義兄シェパーズより』


　それは、カリムにとっては顔も声も覚えていない亡き実父が遺(のこ)した筆跡であった。