カリムには身体を離れた
菫色の
靄が山なりに投射されたように見え、暗闇の奥に向かって一筋の
軌跡を描いたそれは
微かに浮かぶ
輪郭を間もなく捉えた。
次の瞬間、その
輪郭に
亀裂が入るように青白い
閃光が
奔ると、共鳴するが
如く地表から天井に至るまでが盛大に震動した。
立つことも
儘ならず前のめりに倒れたカリムだったが、柔らかな地面に手を付く前に何か空気的な反発を受けた。浮き上がった全身はあらゆる角度から圧迫され、空間内を揉まれるように
煽られていった。
暗闇の中で上下左右も
解らず
捏ね繰り回されるカリムは、ディヴィルガムを両手で握り締めながら、酔って散漫になる思考を必死で
纏めようとした。
『せやけど『魔力の
匣』を破壊するような強烈な毒は、ドランジアに致命傷を負わせることにもなりかねない…うちにもその絶妙な境界線まで見極められへんし、最終的にはロキシーの
匙加減になる。』
『結果はどうであれ責められへんけど、毒が致命傷になればなるほど奴の魔力は暴走しかねない。最悪うちの氷結も破壊されて
君も助からんかもしれへん。どないな最善策を
捻り出しても、結局は死と隣り合わせの危険が付いてくるんや。』
クランメに釘を刺された通り、カリムは
嘗てないほどに死線を
彷徨っていた。
独り暗闇の中を振り回されて身体の自由が
利かず、湧き上がるような地鳴りも
止まず、乱れる圧力でいつ氷壁が内側から崩壊するかも
解らない恐怖に
駆り立てられていた。
——覚悟はしていた…けど……これじゃあ…もう…何が何だか……!?
『それだけドランジアが
賭した覚悟が…その正当性は別にしても、他の誰にも計り知れへんっちゅうことや。カリム君、
君の歩もうとしとる未来は、それを
凌ぐ覚悟が求められるんやで。』
成す
術がないなか立て続けにクランメの
台詞が脳内で再生されると、カリム自身が答えた言葉もまた自然と思い起こされた。
——「
解っています。…それに、そういう意味なら
尚更俺がやらないと駄目だと思います。」
そのとき、カリムの真っ黒な視界に金色の光が
過った。
不規則に空間を動いているのはカリム自身であったが、暗闇に
灯る
仄かな金色が
正しく追い求めていた存在であると察した。
ディヴィルガムの先端を
額に押し付けながら意識を集中させようと努め、その一方で
両眼を
確と見開いてもう一度金色の光を捉えようとした。
——あれこそがルーシー・ドランジア…悪魔の『宿主』達と同じ
靄のような、隕石の力を通じて可視化された姿なんだ。
——あの光にもっと近付かなきゃならない、
辿り着かなきゃならない。障害となる壁は全部壊したんだ…『宿主』の
皆の力と、命と、想いを
繋げて。
——それでも最後に俺が手を届かせなければ、何1つとして意味を成し得ない。こんなところで
無様に終わるわけにはいかないんだ。
——頼む、届いてくれ…どうか俺と話をしてくれ……ルーシー
伯母さん…!!
すると再び金色の光が、先程よりも大きく視界に映った。同時にその輝きの奥から更に鋭い一筋の光が射出され、ディヴィルガムの先端を突き抜けてカリムの
眉間を貫いた。
宛ら蛇に
睨まれたように全身が硬直し、
歪み続ける空間の中で一瞬時が止まったような奇妙な感覚に
陥った。
カリムは射抜かれた光線に意識ごと突き飛ばされそうな危機を察したが、その
繋がった感覚に確かな覚えがあり
、負けじと金色の光を凝視し返した。
何が何でも喰らい付こうとする
雄叫びのような大声が、半球状の空間に反響していた。
軈て金色の光が
突如膨張し、カリムは目の前が真っ白になった。
『まったく、
愚かな
甥子だ。おまえの
独り
善がりで、ラ・クリマス大陸は再び平和から遠ざかる。悪魔に民の
生命を
脅かされ、厄災が振り撒かれる呪われた時代が続くだろう。おまえはその責任を、一体どう背負うつもりだ?』
ぼやけていた焦点をゆっくりと戻すと、カリムは真っ白な空間で大きな金色の
靄と
対峙していることを理解した。
浮いているのか立っているのか
解らなかったが、ここがドールと対話したときと似た
向こうの世界
のような場所なのだろうと推測した。
そしてディヴィルガムを通じて聞こえてくる低く淡々とした声音は、
紛れもなくルーシー・ドランジアのものであった。
悪魔の『宿主』と同じような
靄状の存在として目の前に現れたルーシーが、野望を打ち砕いた理由を
忌々しく追及していた。
『それとも、何事もなかったかのように自由な日常へと
躍り出るつもりなのか?』
挑発的な問いかけにカリムは思わず口を
尖らせかけたが、論争を繰り広げるために来たわけではないと
既の所で
堪え、心を落ち着かせながら答えた。
「確かに、
素知らぬ顔で日常に戻ることは
出来る。
貴女が湖の底で成し
遂げようとしたことは、恐らく俺以外の誰も知らないだろうから。でも俺は、
全てをなかったことにするためにここに来たわけじゃない。
寧ろ逆だ。俺はこれまでの
全てに意味を
見出したい。そして…
貴女とは別のやり方で、厄災の無い世界を実現させたい。」
『ほう…。そこまで
宣うからには、具体的な計画があるんだろうな。』
「リヴィアさんから聞いた…この大陸で厄災が繰り返される原因は2つある。周期的に
廻る
壊月彗星から降り注ぐ
魔素と、湖の底深くに埋まっていると
思しき巨大隕石、この2つに
因る半永久的な相互作用だ。だからこのうちどちらかを破壊するなりして、無効化すればいいんだ。」
『それで? おまえは天と地のどちらを破壊する方が現実的だと考えている?』
「それは……そこまでは、俺だけじゃ何とも言えない。」
カリムが受け答えに詰まると、金色の
靄からは乾いた笑い声が漂ってきた。
嘗ての上官から一度も聞いたことのない反応は、表情すら
解らないにも
拘らず不敵で
気圧されそうだった。
『そんな
机上の空論は私も、恐らくクランメの奴も一度は思い浮かべている。湖の底を掘り返そうものなら、我が国の産業の
中枢が犠牲になる。
譬え巨大隕石が発掘されたとしても
到底利害は釣り合わないだろう。他方で
壊月彗星を破壊しようものなら、宇宙進出という
前人未到の技術を
先駆けたうえで、諸外国も照らす
闇夜の
灯を奪い去ることになる。』
『そもそも
魔素という物質の存在すら認識
出来る者は
稀有であり、厄災の火種になっているなど周知のしようがない。だから私は生来与えられた権威と尊厳を利用し、魔力
掌握の技術を
培い、厄災の無い世界を実現するための第3の選択肢を
見出した。それを果たせるのは私しかいなかった。』
『これ以上民の誰も悪魔に
苛まれず、悪魔は自然と滅びたのだと思わせ…いや、その歴史すら忘れ去られるよう
密やかに
人柱となる必要があった。それなのにおまえは…
稚拙な理想と半端な覚悟で、私が積み上げてきた
全てを踏み
躙ったのだ。』
次第に
嘲笑は
怨嗟へと転じ、金色の
靄は燃え盛るように膨れ上がった。その勢いに
煽られて何かが
爆ぜたような、小さく弾ける音が聞こえた。
だがカリムはそうした追及を差し向けられることを
甘受しつつ、
怯むことなく言葉をぶつけた。
「そうじゃないだろ…どうしてそれだけの立場と力を持っていながら、真実を
殆ど誰にも共有しなかったんだ。どうして『
陰の部隊』やリヴィアさんですら、目的を果たすための手段以上に
重用しなかったんだ。どうして自分の力だけで、
全てを解決しようとしたんだよ。」
『真実を周知させる方が
危ういと判断したからだ。仮に
魔素の存在が明かされれば、悪魔の顕現を恐れた女の民は大陸から亡命し、国家も文明も成り立たなくなるだろう。古き思想を再興させつつあったグレーダン教が反発し揉み消そうとする一方で、民の不安の受け皿を買って議会の主導権を
奪取する
虞も充分に考えられた。』
『おまえは私の威厳と指導力を
以て長期的な計画を組み立てるべきだったと
諫言したいのだろうが、そんなものは
所詮誰にでも言える理想論に過ぎない。』
「
誤魔化すなよ…
貴女はあの事件で生き残った俺と縁を切ったその時から、自分が
独りで
全てを終わらせることを決意していたんじゃないのか? だから解消すべき諸問題を
幾つも受け流して、協力者も犠牲にした『宿主』も、
須らく
手駒としてしか
見做さなかったんだろ!?」
カリムが
畳み掛けると、
真白の空間には
僅かな沈黙が訪れた。金色の
靄は変わらずに揺らめいていたが、
軈て静かに語り掛けてきた。
『確かにその指摘に間違いはない。宿命に惑わされて
無様に崩壊した家系に終止符を打つため、おまえとは縁を切り
自らの手で
全てを終わらせようとした。記憶を失くしたおまえは、悪魔も厄災も知ることなく自由に人生を送ればいいと当時の私は考えたんだ。』
「…じゃあ、どうしてグリセーオで俺を拾ったんだ? 『封印』計画の最前線に立たせた
挙句、ドランジアの
系譜だと
暴露させたんだ?」
『どうだかな…それなりに月日が経って、物事の捉え方も変わっていた。ただあの日
瓦礫に埋もれたおまえの瞳を見て…おまえだけは
全てを知っていて欲しいと欲張ってしまったのだろうな。
全てを知ったうえで最後には諦めて欲しい…そう願ってしまったのだろう。』
「でも、結局俺は
貴女の思う通りにはならなかった。」
『そうだな。やはりステラを巻き込んでしまったことが原因か…いや、思い付く要因は
幾つもある。短くも長かった時の
廻り合わせ、積み重ね…それらがおまえの心を変えていったのだろう。最終的には悪魔の『宿主』達を味方につけてまで私の元へ
辿り着いたのだから、
解らないものだな。』
「…
貴女は『封印』と称して犠牲にした『宿主』達が、亡霊のように生き
永らえることを知っていたのか?」
『別に彼女達が亡霊になろうがなるまいが関係はなかった…
故に想定などしていなかった。クランメの封瓶が奇跡的な副作用を生んだのか、本当に創世の神が私を罰しようと奇跡を起こしたのか…。だがおまえがディヴィルガムの、いや隕石の
真なる力に気付き、使い
熟したことは確かだと言える。』
『ここからは私の推察になるが…千年前に降り注いだ隕石とは、
所謂願い星のようなものだったのではないかと考えている。創世の神が
墜としたのではない、大陸で
虐げられていた女性達が大いなる力を求めて願い、引き寄せたものではないか…とな。』
ルーシーが
唐突に隕石についての持論を語り出し、カリムは
呆気にとられながらその論調を追い掛けた。
『より厳密に言うなれば…女性達に
潜む悪魔が呼び寄せたのだろう。』
「どういうことだ?…それが伝承される7体のラ・クリマスの悪魔、とでもいうのか?」
『いや、そもそも悪魔は7体だけではない…人の数だけ存在する。誰の心にも
棲み付いていると言うべきだ。私にも、おまえにもな。』
だがその
台詞を聞いたカリムは、
爪先を
掬われ勢いよくひっくり返されたような
驚愕を覚えて
益々要領を得なくなってきていた。
「何だよそれ…悪魔が7体だからグレーダンが定めた
戒めも7つだったんだろう? それに悪魔は女性にしか顕現し得ないって言ったはずじゃ!?」
『
虐げられし女性に
潜む悪魔が厄災を引き起こす魔力を半永久的に得るために、巨大隕石と
壊月彗星という二重構造を作り上げたのだとすれば、元より男性は魔力を操る
素質を持ち得ない…悪魔が顕現する余地がないと言える。』
『だが隕石は絶えず
魔素を吸収するという使命を負っているとはいえ、それ自体は
願いを叶える
結晶なのだ。強い意思を持ち合わせれば、男性でも魔力に干渉することが
出来る…グレーダンは恐らくそのことに気付いたのだろう。そしてそれを
教唆したのは、グレーダン自身に
潜む悪魔だったのだろう。そう仮定すれば…奴が創世の神に罰せられたという
口伝にも
合点がいく。』
『他方で、悪魔が7体とは限らないと証明することは
容易い…私を見れば明らかだろう。』
「それは、そうだけど……どうして7体だけだと言い伝えられている?」
『元より千年前の話だ。被害の
際立つ悪徳のみを
戒めとして特筆したのかもしれないが、いずれにせよ新興したグレーダン教が何百年に
亘り倫理道徳を
掲揚する過程で、7つの悪徳とそれらに起因する厄災以外の怪奇現象を厄災として認容せず観測しなかったことは充分に考えられる。』
『本当は悪魔が
育まれるような悪徳は多様性に富み、今も大陸のどこかで不可思議な力を生み出す女性がいるのかもしれないな。』
「じゃあ、
貴女が
抱いた悪徳とは一体……!?」
『そうだな……先程は「宿命に惑わされて
無様に崩壊した家系に終止符を打つ」などと言ったが、あの頃の私は同時に神に向かって激しい
憎悪を煮え
滾らせていたのだ。このような命運を
齎した神を、悪魔を放置する神を
恨み、世界そのものを作り変えようと
企んだ。』
『そのときに初めて私の中の悪魔が
覚醒し、魔力が芽生えた。
敢えて名付けるなら…『
高慢の悪魔』とでも呼ぼう。そしてその
系譜はグレーダンに始まり…きっとおまえの心にも同じ悪魔が
潜んでいることだろう。』
これまでの一連の言動を
包括するように指摘され、カリムは押し黙った。
ドランジアという血筋を
免罪符にしつつ
自らを突き動かしていたはずが、結局はそれが
伯母と同じ『
高慢』が原点だったのだとすれば、これほど皮肉なことはないと思い知らされていた。
『…さて、私は
大方語り残すことはないつもりだが、おまえはどうなんだ?』
「えっ!? それはどういう……!?」
徐に対話を締め
括るような口振りにカリムは虚を突かれたが、そのときまたも何かが小さく弾けるような音が聞こえた。
その方を
辿ってディヴィルガムに視線を落とすと、先端部分に着装された隕石に深々と
亀裂が入っていることに気付いた。
絶句している間にも、
罅割れは更に深刻化しつつあった。
「そんな…!? これが壊れたら、俺は……!!」
『二度と厄災を
鎮めることも、『宿主』の
魂を
留めることも…意思を
繋げることも
出来なくなる。元より亡霊のような存在と対話すること自体…人には過ぎたる『願い』だったのだろう。それに私自身…もう消滅までの
猶予は…残されていない。』
代弁するように
台詞を
繋げたルーシーの声音が、カリムには
既に遠く小さくなりつつあった。
目の前にあるはずの堂々とした金色の
靄が、
真白の世界に埋もれて
霞みつつあるような気がした。
「
伯母さん…!! 俺は、これからどうしたら……!?」
『今更何を……おまえはやるべきことを…成すべき目標を…正しく
見据えてるのだろう……。』
『ただ…最後に1つ…言うならば……おまえは…自分が課した宿命に…
生涯囚われる…必要はない……。』
『いつでも…降りていいんだ……私が……許してやるから……。』
その瞬間、杖の先端の隕石が盛大に破裂し、粉々に砕け散った。
同時にカリムの視界は再び真っ暗な闇へと引き戻されるように呑み込まれたが、
遠退く意識の中でルーシーの苦笑いがはっきりと反響していた。
『
伯母さん、か……存外、悪い気はしなかったね。』