人はいつか必ず死ぬ。
生命には必ず終わりを迎える時が来る。
花にどれだけ水や肥料を与え続けても枯れる時が訪れるように、どれだけ救いの手を差し伸べても人生はいつしか
終焉を迎える。
譬え『強欲』の悪魔の力を
揮ったとしてもその
理まで
捻じ曲げることは叶わないと、ステラは本能的に理解していた。
だからこそ、
生命の終わりを
目の当たりにすることが
口惜しく、
悍ましかった。
嘗てリオを失ったときと同じような虚無感や無力感に再び
溺れることを恐れていた。
剰え
自らの手でその
終焉を
齎すなど——それが魔力という不可思議な力で
象られた
仮初の
生命だとしても、目的を果たすために
必須であると
解っていても、ステラは最後まで割り切ることが
出来なかった。
「…おい、ステラ!?
酷い顔色やで、しっかりせぇ!!」
振り返ったクランメの動転したような声音で、ステラは我に返った。
幾つもの
魔魂を吸収したステラは気付けばクランメの背中に
被さるように寄り掛かっており、肩を
掴んだ右手は激しく震えていた。
他方で全身は意識が飛びそうなほどに
熱いており、温度感覚が失われたはずのこの身が今にも内側から焼き尽くされようとしているのが
解った。
——魔力の過剰吸収……生命活力を奪い過ぎて肉体が耐え切れなくなるんだわ……きっとリオが
自らの身を滅ぼしてしまったときと…同じように……。
——あの
娘は…こんなに
辛く苦しい
最期を…迎えていたのね……。
ステラは亡きリオに想いを重ねて、
辛うじて呼吸を整えながら焦点を合わせていた。膨大な魔力を抱えて
萌黄色の瞳が
嘗てないほどに
煌めき、何度瞬きを繰り返しても視界では同色の火花が弾けていた。
——
駄目よ、倒れたら……イリアさん達が
託してくれた力が…思いが…無駄になってしまう……!!
だがそうして意志を固めるほどに、胸の
孔の奥に抑え込む『強欲』が熱く暴走しそうになっていた。
どんな人にも救いの手を差し伸べたいという欲望がイリア達の消滅により明確に行き場を失い、膨大な魔力と釣り合わない肉体の
器を壊そうと
足掻いているのだとステラは察していた。
生前に孤児院の管理人に従事するに当たり、
幾つもの子供の命を預かるという使命を
全うしてきたつもりだったが、実際に背負う
生命の重さは数えるほどであっても計り知れないほどの重圧を
纏っていた。
結果としてステラは、
僅かでも意識を緩めれば身体の内側と外側から
容易く
圧し潰されかねない危難に
陥っていた。
——
生命を丸ごと抱え込むことが…これほどの
荷重になるなんて……。
——私は…そんなことも知らずに…カリムに偉そうな講釈を…垂れていたのね……。
心の中で
不図呟くと、カリムの表情が
走馬灯のようにステラの視界に映し出された。
幼き頃の
昏い顔、再会し
対峙した頃の失意と
嫌悪が
鬩ぎ合う顔、そして影に染まりながらも決意に満ちた顔…それらを
眺めていくに連れて、ステラは少しだけ呼吸が軽く落ち着いていくのを感じた。
——そうだ…カリムもきっと…その重さを自覚したんだわ……その上で…自分の歩むべき未来を…切り
拓こうとしている……。
——それなら私は…何としてもこの力を…
生命を…
繋がなきゃならない……それが私の…最後の願い……欲望を手放してでも
紡ぐべき…役割……!!
次の瞬間、ステラのワンピースの
袖口や
裾から
夥しい青白い
蔓が
溢れ出し、クランメの身体中に巻き付きながらステラごと拘束した。
凭れかかるように
蔓の
塊が押し寄せたことで、
流石のクランメも立て続けに動揺した。
そんな彼女の耳元に向かって、ステラは
掠れた声音を
絞り出した。
「…リヴィアさん……余さず受け取って…
繋げてください……私達の…魔力を…
生命を……願いを……!!」
高熱に浮かされるような口調から切迫した具合を察したクランメは、小さく息を吐いて冷静さを取り戻すと、ステラの意志に
応えるように
囁き返した。
「…任せとき。
皆の力も思いも、うちが全部ぶつけたるわ。」
その一言を聞いて
安堵したステラは
朧げな意識の中で、持て余すほどの魔力を
蔓を通してクランメに注ぎ込み始めた。
負担がかからないように少しずつ、その一方で肉体が限界を迎えることのないよう譲渡を
急いた。
最期の最後に自分自身の
魂から魔力を
絞り尽くして譲渡を終えるまで、意識を
途切れさせるわけにはいかなかった。
だが全身から
溢れ出す
萌黄色の光に
埋もれていくように、ステラは次第に何も考えられなくなっていった。
ただこの役割が無事に
完遂されること、そしてこの先に待ち受ける命運を祈りながら
微睡みに似た感覚に
墜ちていった。
——リヴィアさん…どうかカリムを…ルーシーさんの元へ…導いてください……ルーシーさん……どうかカリムと……向き合ってあげて…ください……。
——そしてカリム……どうか私達の
生命が…
重荷にならないよう……
健やかに…生きられますように……。
ラ・クリマスの悪魔を顕現させたその身は
最早周囲と同じような人間ではなく、
生命と魔力とが同化した異質で恐るべき存在である——クランメがそのことに気付いたのは、『
嫉妬』の悪魔を宿した日の夜のことであった。
ルーシー・ドランジアから
貰ったリンゴを食べて以来空腹を覚えず、一切の眠気を感じなくなっていた。
悪徳が弱まるなどして魔力の供給が一定値を下回るか、魔力を浪費した場合にのみ身体は休息を必要とするが、それは睡眠というより気絶や
昏睡と
表する方が妥当であった。
故にクランメは人並みの生活を
喪失しないよう無理矢理にでも食事や睡眠を習慣付け、意識的に『
嫉妬』を
募らせては適度に魔力を発散する日々を送り続けた。
凡そ5年に
亘り悪魔との共存を
図るなかで、適切な魔力の管理が
自ずと身についていた。
蓄積される魔力の上限と下限が体感で細かく計量
出来るようになり、出力を繰り返すことで効率や操作性が洗練されていった。
そうして常時安定させていたクランメの魔力量が、ステラの供給により一瞬で振り切れた。充満する魔力で肺や脳が急速に圧迫され、身体中が破裂するかのような危機に
瀕した。
だが
咄嗟に両手を突き出して岸辺に氷結を張り、金色の渦が逆巻く黒い湖の底に向かって——
紺青色の瞳に一番星のように映る小さな光に向かって氷柱を伸ばし始めた。
直径3,4メートルほどの太さの氷柱を猛烈な速度で突き出すように生成するような魔力の使い方は、経験上
著しい肉体の消耗を
伴うものであったが、ステラの
蔓を経由して届けられる魔力は
無尽蔵に思えるどころか、依然として吐き出し続けなければ身体が耐えられないような量と密度であった。
——理屈通りに進められてるとはいえ、なんちゅう膨大な魔力なんや。少しでも気ぃ抜いたら意識が全部持っていかれて暴発して
終いや。こんなん到底人1人が抱えられる魔力やあらへん。
——『強欲』の悪魔を宿しとるステラでさえ処理が
鈍重になるほどの負担やったんや…ただ物質を変化させるしか能の無いうちが漫然と抱えられるもんやないと、覚悟しとったはずなんやけどな……!
クランメは背中に
凭れるように
圧し掛かるステラと
幾重もの
蔓、そしてそれ以上に襲い来る膨大な魔力を
辛うじて受け止めつつ、生成する氷柱が
歪にならないよう集中していた。
ラ・クリム
湧水湖の広さや深さは、生前の隕石研究に当たりセントラムの地形を調査する際に
凡そ把握していたため、その記憶に基づいて目指すべき地点までの距離と角度を割り出していた。
だが仮にその記憶がなくとも、クランメはそこに
辿り着くための執念を持ち合わせていた。
——せやけどドランジアは、うちら7人分の悪魔の力をきっちり制御して野望を前進させた…今も
尚膨大な量と密度の魔素を吸収しながら自己を保存させとる。
本真に
憎たらしいほどこの上ない。なして伝承の悪魔を宿しとらんあいつに、そないな芸当が
出来んねん!?
抱えきれないほどの魔力を背負ったことでより一層ルーシーとの力量の差を痛感したクランメは、その『
嫉妬』を更なる原動力として
自らを奮い立たせていた。
そして
凄まじい速度で水中を突き進んでいた氷柱はあっという間に湖底へと到達し、次の瞬間には半球状の壁のようなものに衝突した。ルーシーが自己保存のために生み出している魔力で
出来た防護壁であった。
——捉えた…そこやなドランジア!!
クランメは察するや
否や氷柱の先端を更に展開して、その防護壁を
覆い尽くした。
そうして
出来上がった氷の
円天井を肥大化させ、充分な厚みに至ったことを認識すると、
愈々氷柱から
円天井にかけての中身を繰り抜いて昇華させ、人が通行
出来る『
氷穴』の加工へと段階を移行した。
足場を階段状に
象ることを含め、
殆ど
全てが湖中で正確に視認
出来ないなかでの作業だった。
その上昇華という変化の促進が氷柱生成よりも更に激しく魔力を消費することから、洪水のように押し寄せる膨大な魔力を
捌きながら
繊細な作業を慎重かつ大胆に推し進める必要があった。
それでもクランメは、
脳裏に
描いていた設計図通りにそれを
熟していた。
その
荒業を可能にしていたのは、長年悪魔を宿し続けた者としての
矜持のようなものであり、同じ悪魔の『宿主』達の意志に
応えようという決意であり、湖底に
潜むルーシーに対する挑戦的な
気概であった。
——大人しく待っとれよドランジア。
独りで世界を救う
陰の英雄に成りたかったんかは知らんけどな…大事なもん無言で切り捨てて
他人の命散々
弄んどいて、そんなとこに引き
籠るんが最善策だったなんてうちは認めへんで。
——『
陰の部隊』なんてもん指揮せんと、
表舞台で人々を動かすんが首相としての…ドランジアの家系の
在り方ちゃうんか。
勿論これはうちの利己的な偏見…悪魔に
煽られた
卑しい動機かもしれへん。せやから、ちゃんとおまえと同じ血を継ぐ
者を送り付けたる。湖の底で
水入らずの
家族会議、やってもらうからな!!
『
氷穴』の完成まではものの数分であったが、クランメには何時間も時が過ぎたように感じていた。
厳密には時の流れなど体感で計れないほど、身体も意識もいつの間にか空気の
塊のように
曖昧なものになっていた。
背中に
圧し掛かっていたはずの重圧も何も感じなくなり、ステラが
未だ
凭れて存在しているのかどうかすら
解らなかった。
経験したことのない疲労で息も
絶え
絶えであるにも
拘らず、肺の底が抜け落ちているようで呼吸をしている感覚がなかった。
それでも
託された力と
自らの魔力の
全てを解き放ったことで確かな達成感があり、クランメは
僅かな意識を後方の茂みに身を
潜めている影の青年に向けた。
——最後に君に…伝えたいこと……。
——この盆地の…特質……いや…そんなんやないな……。
セントラムを中心とする地域で5年周期に見られる豊作の要因は、湖の底の更に深くに埋まる巨大隕石に引き寄せられる
魔素の
奔流が物質を
擦り抜けることで生じる土壌の活性化である——この白黒の世界でそんな仮説を立てていたクランメだったが、
最早未練として
託すことも
野暮だと思い、
自嘲気味に笑みを
零した。
青年が持つディヴィルガムを通して今も
未だ声が届くのか確かめる
術はなかったが、クランメはぽつりと
呟くように一言を残した。
——こんなもんでもな……
遺すことに意味があるんや……。
——せやから…後のことは頼むやで…カリム君……。
「…リヴィアさん、ありがとうございます。そして
皆さんが貸してくださった力を、絶対に無駄にはしません。」
湖畔に輝いていた
萌黄色の
靄とそこから伸びる
幾重もの青白い
蔓が
掻き消え、更に
紺青色の
靄が
霧散すると、カリムは
潤む目元を
袖で
拭いながら茂みから姿を現した。
岸辺には湖底に続く立派な
氷穴が作り上げられ、
壊月彗星がその入口を称賛するように
煌々と照らしていた。
他方で
氷穴の
直ぐ奥はその光も届かぬ暗闇であり、カリムは
忽ち足が
竦んだ。
だがその背中を後押しするように、
菫色の
靄が静かに寄り添って
囁いた。
『…それでは共に参りましょう、カリム様。』