無意識に思念を
繋げていたディヴィルガムを通じて、脳内にロキシーの
畏まった声音が響いた。
カリムは小さく
頷くと、茂みに身を
潜めている間に作った
松明に着火しようと身を
屈めた。
だがその
傍らを通過して
氷穴に侵入した
菫色の
靄が、果てしなく思えるような暗闇へと
誘う階段を
仄かに照らした。
『ここからは私が先導致します。その
松明は…どうぞ
帰路に
就くまで温存なさってください。』
朧げな
靄にしか見えない奇妙な存在だったが、カリムの目には白黒のエプロンドレスを
纏いお辞儀をするロキシーの姿が不思議とその
菫色の中に映し出されていた。
すると
鈍くなっていた脚も自然と軽さを取り戻し、カリムはディヴィルガムと
松明をそれぞれ両手に握りしめながら
氷穴へと一歩を踏み出した。
氷で繰り抜かれた穴にはアーレアの地下でクランメと
最期のやり取りを交わした際に
潜ったことがあったが、水中を突き進む氷の通路など
生涯歩くことはないのだろうと、カリムは息を呑んでいた。
壊月彗星から注がれる光が
水面に
揺蕩い、それが
氷穴の天井を
屈折して幻想的な
煌めきを創出していた。分厚い
氷壁の奥には、魚らしき影が
幾つか揺らめいているのが
解った。
だが氷の階段を
降るに連れて天井の
煌めきが遠くなり、間もなくして冷たい暗闇の中を歩いているも同然となった。
只管に単調な足音と呼吸だけが響く暗闇に
潜っていると、どれだけ時間が経ったのかも
解らず、まるで現実世界から足を踏み外したかのように、自分が何者なのかを忘失してしまいそうな気がした。
数段先を先行し足元を照らす
菫色の
靄だけが、唯一自分の存在を証明し続けてくれているように思えた。
他方でロキシーは
氷穴の入口で声を掛けて以来、黙々と階段を
降っていた。
カリムには彼女がどんな表情をしているのか、どこに顔を向けているのかも
解らなかったが、
逸る足並みを制するように先導しようとする意思は確かに伝わってきていた。
クランメの魔力を信頼していないわけではなかったが、湖底へと続く
氷穴がどれだけ存続し得るのかという不安が、カリムの心の中で
今一拭い切れなかった。
——湖の底までロキシーが付き添うことはリヴィアさんとピオニー隊長に事前に伝えられていたけど、それはロキシーの方でも個別に指示を受けているということでもある。俺としてはもう少し足を早めてもいいんだが…あの人には何か俺に見えないものが見えていたりするのだろうか。
嘗てこのセントラムの地でロキシーに
篭絡された記憶が、カリムの
脳裏の片隅にこびり付いたままであった。
根暗で控えめな印象に
潜む
妖艶で束縛的な本性が——それが『
淫蕩の悪魔』に感化されたものであったとしても、改めて関わりを持つことには
凝りが
障るような抵抗感があった。
数時間前もトレラントの前で再会し泣きながら
纏わり付かれた時には、全身が硬直して
暫し口を
利けなくなってしまっていた。
彼女から毒が漏れ出ていたことが一因だった可能性もあるが、それ
故に
安易なやり取りによって彼女の感情が空回りし、再び毒に
冒されるのではないかという
懸念もあった。
とはいえルーシー・ドランジアとの接触にはロキシーの力添えが必要だとクランメに
推奨されていたこともあり、現に彼女がこうして先導してくれることが精神的な
一助にもなっていた。
カリムはディヴィルガムを握り直しながら——調査員として初めて彼女に接触したことを思い起こしながら、
辿々しく問いかけた。
「あの…ロキシーさん。
貴女には…見えているんですか? この階段の、終着点が…。」
暗い
氷穴の中で震えた声音が反響したことに、カリムは疑問を投げかけてから気付いた。
ディヴィルガムを通じて念じなければ向こうの世界に
居る悪魔の『宿主』とは接触
出来ないと
解っていたにも
拘らず、何気なく話しかけるように言葉を発していた。
『ええ、見えております。リヴィア様の
仰った通り、金色の
奔流が吸い寄せられる先に
一際眩しく輝く光が見えています。』
だがロキシーには
確りと杖を通じて言葉が届いていたようで、進行速度を緩めることなくカリムの脳内に返事を
寄越してきた。
『
尤も、
未だ半分近く距離があるようですが。リヴィア様は、
凡そ30階ほど階段を
昇降するような
道程になるだろうと概算しておられました。』
尚且つカリムの不安と
焦燥を感知したかのように、クランメから聞かされていなかった情報を補足してきた。
カリムは30階にも
聳える建物など
皆目想像も
出来ず、
態々距離を意識することのないようクランメに気を
遣われていたことを察し顔を
顰めた。
それでもこうして何気ない会話が
出来る安心感が
遠退きそうな気力を引き留め、重く震えそうな脚を止めることなく前へと推し進めていた。
「ロキシーさんは…よく暗闇の中を
易々と降りられますね。」
『いえ、実は私の目には真っ白に映っているのです。地上で見た湖面は真っ黒だったのですが…この世界はまるで光と
陰が反転したように
出来ていて、現実世界で光が届かないはずの湖底が、
降れば
降るほど白く鮮明になっていくのです。だからこそカリム様を先導すべきなのだと…これもリヴィア様からの御指示なのです。』
「やっぱり
流石ですね…あの人の頭脳と経験がなかったら、ここまで万全を期すにも至らなかったかもしれないですね。」
『…リヴィア様だけではありません。同じ悪魔を宿したという方々のうち誰1人が欠けても、このような奇跡は生み出されなかったでしょう。それに引き換え私は……何をすべきかも
解らないまま意識を失い、お
仕えしていた
御方の荷物となるばかりで……。』
ロキシーの
台詞が
尻窄みになるに連れ、カリムの前を行く
菫色の
靄もまた動きが
鈍り、程なくして静止してしまった。
見た目の
仄かな輝きに変化はなかったが、明らかに向こうの世界に
居るロキシーが何らかの原因で足を止めてしまったことを察した。
だがディヴィルガムに意識を集中させても何も聞こえず、カリムは
途切れた
台詞から彼女の心境を推し
量るしかなかった。
「俺はそちらの世界での
出来事を、
殆ど何も聞いていません。でもロキシーさん、
貴女も
皆に必要とされたからこうして送り出されているのでしょう。現に俺も、
貴女の存在が今はとても心強いと感じています。ですから自分を
卑下する必要なんて何も……。」
『…ありがとうございます。ですが、私はあの場に
居た
全員に送り出されているわけではない
のです。』
カリムが事態を動かそうと語り掛けていると、ロキシーの低い声音が
遮ってきた。その言葉の意味を捉えかねて一瞬
怯んだが、ロキシーが立て続けに打ち明けてきた。
『私がカリム様を先導する役目は、カリム様達が湖畔に降り立つ前にリヴィア様とピオニー様より
仰せつかったもので…後から合流したカリム様を除く
御三方には最後まで伏せられていたのです。計画を穏便に進めるために…いえ、もしかしたらアヴァリー様はご存知だったかもしれません。』
『いずれにせよ、
最期の最後で嘘を並べて裏切った相手がいるのは確かなのです。こんな私にも気さくに接してくれる人と、生まれて初めて巡り会えたと思ったのに……そんな
御方を…私は……。』
再びロキシーの
台詞が
途切れがちになり、カリムは
悄然とした
菫色の
靄に掛けるべき言葉を
捻り出せず立ち尽くした。
湖畔で身を隠しているうちは
度々『宿主』達の様子を
窺っていたが、
菫色の
靄は常に
空色の
靄と隣り合っているのを見ていた。
空色で思い出すのはネリネ・エクレットに化けたリリアン・ヴァニタスの瞳であり、
齢の近しい者同士関係性を築いていたのではないかとカリムは推察した。
とはいえロキシーは最終的に自分に協力することと引き換えに不本意を
甘受していることから、カリムは相変わらず
慰める余地を
見出せなかった。
表情も態度も判然としないなかロキシーは淡々と先導しているようで、その
実悲痛な後ろめたさを引き
摺っていることを今になって理解していた。
『…申し訳ございません。先を急ぎましょう。』
暫くしてロキシーの感情を押し殺したような声音が響き、
菫色の
靄が再び
氷穴を
降り始めた。
カリムは
仄かに照らされる足元を滑らないよう追い掛けながら、夢中で呼び止めるように声を掛けた。
「ロキシーさん! 何か俺に
出来ることは…
応えられることはありますか!?」
思ってもいない声量が
氷穴に充満し、カリムは腰を抜かしそうになった。
一方で
菫色の
靄はまた静かにその場で制止したが、その提案をどのように受け止めたのか、こちらを振り向いているのかすら当然に知る
由もなかった。
ロキシーが
抱く悪徳の矛先が依然として自分に向けられている以上、下手な要求を許容して毒を
伴う暴走が生じるような
顛末は避けなければならなかった。
だが仮にこれが
愚策だとしても、ただ1人消滅せず付き添ってくれる彼女に何らかの形で
報いるべきだと判断していた。
——『宿主』達に協力を
仰いだ手前、甘んじる
一辺倒になるべきじゃない。本当なら全員に直接礼を伝えて回るべきだったのに、結局
茂みに押し込められたまま
皆の消滅を傍観してしまった。そんな俺が向こうの世界で
独り残されたロキシーの助力を積極的に得るためには…俺の方から踏み込んでいかなきゃならない。
『…お気持ちには感謝致します、カリム様。それでは、2点ほどお尋ねさせていただいても
宜しいでしょうか。降りながらで構いませんので…。』
ロキシーから届いた返事は、それまでと大差ないような静かな口振りであった。
カリムはゆっくりと動き出した
菫色の
靄をもう一度
追随していったが、ロキシーは
口籠っているのか提示した2つの問いは
直ぐに提示されなかった。
『まず1つ目なんですが……その…カリム様には今、意中の方がいらっしゃるのですか。』
漸く
脳裏に浮かび上がった問いの1つに、カリムは
呆気にとられた。
嘗て
篭絡を試みた彼女らしい問いが真っ
向から投げ掛けられただけでなく、その返答に
間誤付いている自分自身にも驚き呆れていた。
「…正直、
解らないですね。生まれてこの方恋愛なんてしたことはないですが…少しの間でも一緒に行動して励まされて…それが
僅かでも心の支えになったという異性ならいました。」
『その異性の方というのは…私の命を奪ったあの栗毛の女性なのですか。』
捻り出した答えにロキシーが食い気味に問い返して来たので、カリムは思わず口を
噤んだ。
彼女がサキナを意識していることは明らかであったが、
曖昧に
誤魔化すことは逆効果であるように思えて
渋々釈明した。
「そうです。
貴女を討った後も、他の悪魔の『封印』のため
暫し行動を共にしていました。」
『あのときカリム様を肉壁に仕立てた
分際で差し出がましいのですが…あの女性は目的のために容赦なくカリム様を切り捨てようとしておられました。それにも
拘らず
親睦を深めることが
出来たと
仰るのですか。』
「あのあと本部で上官に…ドランジア議長に
絞られましてね。でもその後は互いの境遇を知って、同じ目的を目指す上で多少なりとも打ち解けられた…と思います。」
『その女性の方は、今どうしておられるのですか。少なくとも、協力して動いているようには
窺えませんが。』
「色々あってリヴィアさんの氷結に埋もれて、気を失いまして…今は安静にしているはずです。」
『そうなんですか……では無事に地上へ帰還して、見舞いに向かわねばなりませんね。』
ロキシーの
呟くような推奨を受けたカリムは、自然と気が遠くなるような感覚に呑まれた。だがその沈黙が不可解に取られたのか、
透かさずロキシーが
訝しんできた。
『…カリム様、
如何なさいましたか。その
御方が心配ではないのですか。』
口を付けず冷めた紅茶を指摘された時のような得体の知れない圧力が、その追及と共にカリムに
犇々と伝わってきていた。