「ピナスさん!? 大丈夫!?」
ステラは青白い背中を軽く叩きながら直接名を呼んだが、ピナスは何ら応答せず力無い
滑空を続けていた。
その突き進む先にはセントラムを囲む黒い
丘陵地帯が待ち構えており、このままではそこを超えられず激突するように不時着する
虞があった。
鉤爪に抱えているはずのカリムの安否も心配であったが、ステラは
蔓を伝って生み出せる限りの魔力をピナスに送ることを何より優先しようとした。
だがピナスの魔力は
枯渇していたわけではなく、それを全身に行き渡らせるための
熱りが冷めつつあることが
解った。
それが少し前に
抱いた違和感と似ていたことを
不図思い出し、また新たな
焦燥に
駆られた。
——ロキシーを介抱していたときと同じ
手応え…それってつまり、ピナスさんが
抱く悪徳が弱まっているってこと!?
「…ネリネ! どうにかピナスさんを支えられない!?」
「無茶言わないで! 自分以外の人や物を運ぶなんて器用なことは
出来ない…
寧ろ私が自由に動けるようこの
蔓を
解いてもらいたいんだけど!?」
ステラは
出来る限り背後を振り向いてネリネに救援を求めたが、ピナスの異変を察していたネリネは
既に離脱を視野に入れていた。
一見薄情に思えたものの、彼女が風を操れることを知りつつ、何の説得もなく
蔓で
繋ぎ止めておくことは現状ただの
道連れにしか成り得ないことをステラは自覚していた。
それでも
皆で共有した方針を狂わせないために、自分がただ魔力を供給するだけではなく、それ以上に果たせる役割を見出そうとしていた。
端から誰1人として見捨てるつもりなどなかった。
——悪徳については今もよく
解ってない…けど、ピナスさんは誰よりもルーシーさんを目の
仇にしていた。いや、人間という存在そのものを
忌み嫌っていた。そのことは最初にクラウザに転移したとき、イリアさんから聞かされていた。
『私は以前このクラウザの地に、議長
直々の命で訪問したことがあった。明朝だったにも
拘らず、
独り
仁王立ちをして我々を出迎えたのがピナス・ベルだった。我々を
軽蔑し、一切の
迎合を拒まんとするあの
鋭い眼光は今でもよく思い出せる。』
『ラピス・ルプスの民は代々人間からの迫害に
遭い閉鎖的に集落を作っているとは聞いていたが、あれは単なる偏見ではない…人間との直接的な
確執を積み重ねた結果なのだと思う。彼女は幼く見えるが、あの種族は人間と
齢を重ねる間隔が異なるらしい。恐らく私よりも長く生きているかもしれない…彼女とは、そのつもりで接するべきだろう。』
——それでも彼女は私達と協力して動くことを選んだ。その理由はついさっき判明した…リオやサキナと接した過去に測り知れない後悔があって、そこから接点が生まれた私に負い目があったんだ。その後も我慢や不満が
募って、カリムにすら自分の主張に同調してもらえないどころか否定された感覚になって…
矜持を見失ってしまったのかもしれない。
——悪徳が機能しなくなるって、そういうことなの? ロキシーはカリムとの接触で目覚めたけど、リヴィアさんは彼女が宿す悪魔を『
淫蕩』と呼んでいたから、生前にカリムと何らかの関係があったのだと推測
出来る。もしそういう因果関係が悪徳
全般に当て
嵌まるのなら、私がピナスさんに対してすべきことは……!
依然として
墜ち行く
蒼獣の背で、拘束されたまま
苛立つネリネに申し訳なく思いながらも、ステラはピナスの青白い体表に
額を押し当てて念じるように呼び掛けた。
「ピナスさん…
未だ意識はあるのよね? それならちゃんと聞いてほしいの。私は……
貴女を
軽蔑するわ。」
すると、ピナスの身体がまた一瞬震えて
弥立った。ステラはその宣告が彼女の心を捕らえたことを確信して、叱責するように語り続けた。
「
貴女が昔リオやサキナと何があったのかは詳しく知らないけれど、危害を与えたことを今でも引き
摺るほど
貴女にとっては大事な存在だったのでしょう。でも
貴女はその悲しみから何も学ばないどころか…
憎まれ役に
勤しむことで自己実現を
図ろうとしているでしょう。」
「
譬え
貴女が
抱く悪徳のためだとしても、
未だに
他人の命を挑発のためにしか用い得ないのなら、それは私にとって
嫌悪の対象になる。私はカリムがルーシーさんと
対峙することを認めたけど…
貴女が
牙を向けることは認めないから。何なら私が、その前に立ち
塞がってみせるわ。」
その
台詞の結びに弾かれるようにして、青白い
隼は
丘陵地帯へ激突する寸前で
真白の空へと再び舞い上がった。
突然の急上昇に、ステラとネリネは顔を
顰めながら背中に
這い
蹲っていた。
だが
軈てピナスは、穏やかにセントラムの上空を
漂い始めた。
彼女が調子を取り戻したことに
安堵したステラは、青白い背中に身を
埋めて
朧げな毛並みをそっと
撫でた。
「よかった…戻って来てくれて。さっきはごめんなさいね。」
「…貴様が謝る必要はないし、発言を取り消す必要もない。
寧ろ貴様が先のような
心証で
在ってくれた方が…
儂は割り切れるのかもしれん。」
ピナスからの返事は、
未だ多少なりとも
鬱屈しているような口振りであった。その他人事のような発言に、ネリネが
透かさず不満をぶつけた。
「謝るべきなのは
貴女の方でしょ。
独りでに
愚図ついて墜落しそうになって…任されたことはちゃんと
全うしなさいよ。」
「…その通りだな。
面目無かった。例の湖は、もう目と鼻の先だ。」
一方でステラは、沈黙したままのカリムのことを思い出し恐る恐る声を掛けた。ディヴィルガムを通した
繋がりは
未だ確かに感じていたが、何の呼びかけも無くなっていたことには
一抹の不安を覚えていた。
「カリムは、大丈夫?
未だちゃんとそこにいるのよね?」
『…大丈夫だよ先生。
蒼獣の足に少し強く
掴まれていて苦しかったけど、今は何ともない。そっちで何かあったの?』
「いいえ…
貴方が気にすることではないわ。」
どうやらピナスにかけた脅迫めいた言葉はカリムに届いていなかったようで、その意味でもステラは胸を
撫で下ろしていた。
カリムがピナスのことをどう思っているのかを知り得ない中で、負い目に付け込むような言い回しをしたことが足並みの乱れに
繋がってしまわないか、密かに
危惧していた。
そもそも危難を切り抜けるためであったとはいえ、ピナスを意図的に突き放したことで良心の
呵責に
苛まれていた。
——ピナスさんはああやって敵意を
煽らなければ…誰かと確実に敵対する余地を作り出さなければ、心の
拠り
所を失いかねない極限状態だったのだと思う。でもあんなの、寄り添い
励ましただなんて到底言えない。私が成し遂げたい形じゃない。
——もっとちゃんと話し合えるはずなのに、
軋轢を抱えながら接しないと息苦しくなるだなんて悲しすぎる。それともこの
虚しさは、私が宿している『強欲』の悪徳に影響されたものなのかしら…。
そのように推測していると、
忽ちステラの脳内もぼんやりして意識が
遠退いていくような気がした。慌てて頭を左右に振ってその
虚しさを
払拭しながらも、やはり胸に開いた
孔の奥には
凝りのようなものが残っていた。
——
既に死んだ身の私達は、きっと生前
募らせた悪徳に縛られて人生を続けているようなものなんだ。私が
出来るのは
精々、
皆の容姿を
形作ることくらい。その内側にどれだけ手を差し伸べても、心から向き合おうとしても、悪徳そのものを支えることは
出来ないし、ピナスさんの場合みたく私にとって不本意な結果にしか成り得ない。
——そしてその
虚しさは、私自身の悪徳を委縮させることに
繋がりかねない。私の魔力も無限に湧き出るものじゃない。…元々ここは、
そういう世界
なんだろうな。そんな世界の中で、私が本当にすべきことって……?
ステラは
茫然と
項垂れるように考え込んでしまい、その背中を後方に座るネリネが冷ややかな
眼差しで振り返っていた。
大きな
隼の姿を模した
蒼獣は、ラ・クリム
湧水湖の中央に
聳える金色の
渦の周りを
旋回するように下降して、先に転移していた悪魔の『宿主』達が待つ
湖畔へと着地した。
まず
鉤爪から解放された影の青年が降り立ったのち、ステラとネリネが背中から滑り降りてから、ピナスは元の人型に戻った。
「お疲れさん。取り
敢えず合流
出来て何よりやけど……。」
出迎えたロキシーとドールの後方からぶっきらぼうにクランメが声を掛けたが、どこか曇りがちなステラとピナスの表情を
窺うと
台詞が
途切れた。その代わりにネリネが周囲を見渡しながら、クランメに問いかけた。
「この前と場所が違うみたいだけど、作り掛けの
氷穴はどうしたのよ? あんなに敬遠してた金色の
渦巻きにも
幾らか近付いた位置じゃない。」
「ああ、それはな…ピオニー隊長とロキシーの意見を元に、より都合のええ場所に変更したんや。うちが生前この街に来たんはもう10年近く前のことやったからな。」
そして続け様に、イリアが
皆に向かって言い聞かせた。
「だが現実世界も深夜であるとはいえ、
駐屯している大陸軍は飛来する
蒼獣を視認したはずだ。
捜索の手を近付けさせないためにも、
一先ずピナス・ベルには数体の
蒼獣を放って
暫し
攪乱させて欲しい。カリムもなるべく身を隠しておく方が賢明だろう。」
その要請に応じてピナスは3頭の青白い
狼を生み出して湖面とは反対側の茂みへと解き放ち、影の青年もその茂みの方へ移動しながら
潜伏出来そうな場所を模索した。
他の『宿主』達も彼に
追随するように
纏まって動いていたが、
不図ステラが心配そうにイリアに尋ねた。
「イリアさん、
暫くの間ってどれくらいなんですか。ピナスさんにずっと魔力を放出させておくわけには…それに深夜ってことは、カリムは眠ってすらいないでしょうし…。」
だが問いかけに答えたのはクランメであり、イリアと同様に改まって全員に言い聞かせた。
「それに関しては、うちから説明させてもらう。
言うても先に転移してきた面々で
予め話しとったことなんやけどな。」
「まずもってドランジアは、あの金色の
渦…
魔素の
奔流が注ぎ込むこの湖の底におるのが
解っとる。そこで大陸一帯に降り注ぐ
魔素を独占する『
匣』として自己の存在を維持しつつ、この地に
棲み付く悪魔に
魔素を渡さんようにして厄災が起きひん仕組みを作り上げようとしているんや。…現世では多分
何も見えてへんと思うけどな。」
その
神々しい光の
渦を初めて目の当たりにしたステラは息を呑んでいたが、影の青年は不審そうに座り込んでいるだけだった。
一方でピナスは、
忌々しそうに黒い湖面に流れ込む金色の粒子を見つめながら
呟いていた。
「
儂は似たような
奔流を生前にも何度か観測した。恐らく、貴様らが厄災を引き起こしたときに生じていた『
偏り』なのであろう。それがこんなにも濃密に集約され、大量に喰らわれておるとは…つくづく
彼奴は底が知れんな。」
「
全く溜息が出るわな…そういうわけで、当初うちはドランジアが
居座っとる湖の底まで氷の
洞窟を
拵えようと画策しとった。ネリネ嬢から聞いた1日ちょいの
猶予をじっくり
使うて、確実に奴と
対峙出来るようにな。奴の居場所にこの身で
辿り着くんは、それしか方法がないと思う。」
「せやけど現実世界との
繋がりやら
諸々の情報や
出来事が積み重なって、色々と事情が変わってもうた。結論から言わしてもらう。この作業は
今直ぐ突貫で終わらせて、現実世界の夜明けまでに奴との
対峙を終わらせる。そしてそれには瞬間的に
莫大な魔力を一括投入する必要がある…ここにおる悪魔
憑き全員分の魔力をな。」