青白い
隼の姿に転じたピナスがトレラントを飛び去ったのち、クランメに連れられてセントラムへ転移したドールは、一面に広がる黒い湖を前に
深紅の瞳を輝かせていた。
白黒の単調な世界観とはいえ、生前に本や絵画でしか見たことのなかった大陸有数の名所を、このような境遇でも訪れることが
出来たことに自然と胸が躍っていた。
吟遊詩人、
若しくは旅する修道女として
描いていた夢が、ほんの少しでも叶ったような気がしていた。
「……ピオニー様!?」
だがその
呑気な観光気分は、背後から聞こえたロキシーの動転したような声音で
容易く
掻き消された。
ドールが振り向くと、一緒に転移していたイリアが
困憊した様子で
蹌踉めいたところを、ロキシーが
咄嗟に支えていたところであった。
「…すまない。一段落して疲労のようなものが…どっと力が抜けたような感覚に
陥っているだけだ。」
そのように釈明するイリアに対し、諸悪の根源を自覚していたドールは
直ぐに
駆け寄って
首を
垂れた。
「申し訳ございません。私が破滅的な行動を
採ったばかりに、余計な力を使わせてしまったことをお
詫びいたします。いえ、ピオニー隊長だけでなく全員に謝罪しなければなりません。悪魔の力を振り
翳さずとも話し合える余地はあったはずなのに、私は簡単に悪徳に呑まれてしまって…。」
「その辺で構わない。私こそ配慮が不足していたし、責任を感じている。元より我々は信条も価値観もばらばらで、衝突して当たり前だった。だが皮肉にも衝突の
度に悪魔の力を
揮うことで、ここまで生き
永らえているとも言えるのだ。」
「…どういうことなんですか?」
「私が宿した悪徳は『
憤怒』…それもドランジア議長に対する不信や不満に由来する怒りだった。しかし今となってはそれも
曖昧になり、この奇妙な世界で
皆の足並みが
揃わないことに
苛立ちを、衝突に対抗するように敵意を
抱くことで悪徳を保っていた。」
「胸に
孔を開けられ心臓を失った我々は、
各々の悪徳こそが心臓の代わりとなって
己を動かし続けているのだと思う。」
イリアが
遣る
瀬無い
面持ちで語ると、彼女に肩を貸していたロキシーも同調するように
俯いていた。
他方でそのやりとりを湖の
淵から
眺めていたクランメは、
昏い
紺青色の瞳を3人に向けながら語り掛けた。
「その認識で
概ね間違いないやろな。生前も適度に魔力を使わな生きられへんかったんや、悪徳の
矛先が限られとるこの世界では
尚更限られた命やと言える…それも
内輪揉めしとったらお互いに消耗し続けるのみや。」
「うちらは
未だ時間が残されているようで、その
実もういつ消えても
可笑しないほどに
脆弱で
儚い存在なんや。そしてうちらが引き起こした厄災は、しっかり現実世界で観測されとる。…なぁロキシー、ここの住民は朝何時頃から活動してるんや?」
ロキシーは幼少の頃からセントラムの領主邸宅に仕えていたものの、あまり対外的な付き合いはなく農産業に精通しているわけではなかった。
それでも丘の上に建つ邸宅から
長年街を
眺めてきたこともあり、農家の生活習慣や地形に関して
他所に説明
出来る程度には把握していた。
「この時期はブドウを
朝摘みしておりますので、早い者ですと4時過ぎには
湖畔の畑に出て参るかと存じます。」
「ここはそいつらから見つかりやすい場所やと思うか?」
「…どうでしょう。ただ、丘の上の領主邸宅からは目立つ場所かもしれません。」
ロキシーが返答に詰まっていると、クランメの質問の意図を察したイリアが
自らの足で立ちながら補足を加えた。
「いずれにせよラ・クリム
湧水湖は東西の
櫓から、
駐屯している大陸軍が交替で監視をしているはずだ。農業だけでなく生活用水としても引かれている湖の水質に、異常を来すような外的要因を警戒するためにな。どの
湖畔へ移動しようが結果は同じだろう。ただ深夜のうちであれば、岸辺の
些細な凍結は目立たないとは思うがな。」
それを聞いたクランメは一度
溜息を挟んでから、改めて
皆へ言い聞かせた。
「やっぱりそうなるわな。実質うちらに残された
猶予は未明までの3時間程度や。それ以上にかかると現実世界で見つかって騒ぎになるか、最悪
氷穴を途中で破壊される
虞がある。そして湖底を往来する時間も考慮すれば、一刻も早く
氷穴を完成させなあかん。そのためには…
莫大な魔力を
注ぎ込んで一気に
拵える必要がある。」
その声音は
微かに震えており、イリアが
伝播した緊張感を
噛み締めながら問いかけた。
「
莫大な魔力…そんなものをどうやって
早急に用意するつもりだ? ステラの持つ力を介して、全員の魔力を
貴女に送れば良いのか?」
「そないな甘っちょろい程度やない。…全部や。うちを含めた全員分の魔力を
魂ごと
注ぎ込む。そしてその後のことは、ディヴィルガムを持つカリム君に託すんや。」
「なんで…なんで急にそんな話になるのよ……?」
クランメが宣言した方針に、真っ先に
狼狽えたのはネリネことリリアンであった。
「ドランジアの計略を止めれば私達は消滅を
免れる…そういう話だったんじゃないの!? ドランジアの前に
辿り着くまでに私達が消滅したら、そんなの本末転倒じゃない!!」
「悪いけどな、それは君が
独りでに言うた望みであってうちは何も保証はしてへん。それに…ぼちぼち限界が来とる者もおる。ドランジアがどうなろうが、大して余命は変わらへんやろな。それならいっそ残っている余力を、成すべき目的のために
早々に
注ぎ込むべきなんや。」
リリアンは空色の瞳を
強張らせながら他の『宿主』達の表情を次々に
見遣ったが、
皆已む無く受け入れようと視線を伏せるばかりであった。
ルーシー・ドランジアと因縁がある
旨を発言していたピナスでさえ、先の飛行中での
諍いを経てか、ステラの隣で口を曲げながらも大人しく聞き従っていた。
間もなくしてこの生きた感覚が
終焉を迎え、
本当の死
が訪れることにリリアンだけが唯一反抗していた。
「…あんまりだわ。先に転移した4人で話を合わせて、後で多数決にするようなものじゃない。私は嫌よ。魔力を
注ぎ込むなら、私以外の全員で仲良く心中しなさいよ。」
「そないな意地張っても
独りで生き続けられへんことくらい、君も
解っとるやろ。」
だがクランメの冷静な指摘が突き刺さり、リリアンは立ち尽くして何も言い返せなくなった。
自らの『
虚栄』という悪徳は
騙る相手がいるからこそ成り立つものであり、現状その対象たる『宿主』達が
皆姿を消せば、自我を保てず自然と消滅に追い
遣られる
顛末は
疾うに理解していた。
そのためにロキシーの
蘇生を試みようとしていたことを思い出すと、リリアンは再びロキシーへ
縋るような視線を向けた。
既にクランメらの意見に同調したことに裏切られたような
虚しさを覚えながらも、従者を名乗った彼女に
儚い望みを
繋ごうとしていた。
その無言の訴えを感知したロキシーは、重苦しい雰囲気の中で動くことに戸惑いながらも、ゆっくりと下着姿の令嬢の前へ歩み寄った。
「…ネリネ嬢様…。」
「お願いよロキシー…
貴女だけでも
傍にいてよ……あの影の男と一緒に居てもいいから、私からも離れないでよ……私のこと、心配してくれたじゃない……!」
『
淫蕩の悪魔』を宿すロキシーが男である影の青年の呼びかけで
覚醒し、恥も
厭わず泣き付いた時、彼女にとって唯一の未練は果たされたのだとリリアンは推し量っていた。
そしてその青年と行動を共にしなければ、いずれまた意識を失い本当の死を迎えることも想像に
難くなかった。
故にこの
懇願は、彼女が使用人として振る舞うことに
肖った、
惨めで利己的な切望であった。
一方のロキシーは、両肩に掛けられた小柄な令嬢の手が
微かに震えているのを感じ取っていた。そして
自らも抱き寄せるように腕を回して、彼女の耳元へ
宥めるように
囁きかけた。
「私、お嬢様には感謝してもしきれないんです。ドレスを
頂いて、頼って
頂いて、何より意識を失った私をずっと
護り通して
頂いて…
人として利用して
頂けたこと
が嬉しかったんです。」
「生前もこんなに
愛しい主人に仕えられたら良かったのにって思えたんです。それと同時に、私にも未練が生まれました。それは…お嬢様を
独りこの世界に残してしまうことです。」
「……!?」
「私はカリム様をお
慕いしていますが、それは
もう終わったこと
なのです。現実で未来を生きるあの
御方に、悪霊の
如く付き
纏うわけには参りません。せっかくお
護り
頂いた身ですが、恐らく長くは持たないでしょう。」
「そうしてお嬢様だけをこの
寂寞とした世界に取り残すなどとても
遣り切れない思いですし、お嬢様には本当の死を
独り
侘しく迎えて欲しくないのです。ですから…どうか私と一緒に死んでください。そうすればきっと、
辛くはないですよ。」
使用人の
細やかな願いを聞いたリリアンの脳内では何か熱いものがじんわりと広がり、目元に向かって急速に込み上がった。
次に
瞬きをしたときには涙も衝動も抑えが
利かなくなり、ロキシーのはち切れそうな胸元に
額を
埋めて我を忘れて
号哭した。
「嫌だよおおおお!! …死にたくない! 死ぬのが怖い! 終わりたくない! 終わっちゃうのが…嫌だよおおおおお!!!」
強情にも隠し続けてきた本音を
喚き散らして崩れ落ちていくリリアンを、ロキシーは温かく受け止めながらゆっくり腰を下ろした。
白黒の
虚しい世界に響く素直な
嗚咽を、他の『宿主』達もその場で聴き入っては
憮然としていた。
既に一度死んだ身であるとはいえ生前と同じ記憶と感覚が続いている以上、どんなに割り切ろうとも、改まった死を受け入れることに誰もが無念を
抱いていた。
そしてそんな中でも
各々が残された魔力という名の命に意味を
見出そうと、覚悟を決めようとしていた。
深夜であるにも
拘らずラ・クリム
湧水湖は
壊月彗星が
煌々と照らして
眩しく、眠気を
否が
応でも晴らしてくるようであった。
背後の茂みの奥で虫の音が聞こえる以外は
静寂そのものであり、カリムはディヴィルガムを握り締めながら身を
潜めて周囲を警戒していた。
驚愕の速度でセントラムに到着して以来、
未だ心臓が高鳴っていた。
一方で7体の色とりどりの
靄は先程から何か話し込んでいるようで、イリアに隠れるよう指示されて以来何の進展もないという意味でも一向に落ち着かなかった。
——そもそも俺の申し出に
応えてくれるのかどうかすら、
未だ何も聞けていない。それを今
正に話し合っているのかもしれないけど、何も聞こえないし口を挟めないことが
焦れったい。
——大陸軍が
詮索してくるかもしれないと思うと
尚更浮足立って仕方がない…俺は本当に
蒼獣に連れ去られたように、上手いこと認識されているんだろうか。
そうして立て続けに不安に
苛まれていると、
漸く
紺青色と
黄蘗色の2体の
靄がカリムの方に近付いてきた。次いで、脳内にはクランメの
飄々としたいつもの声音が響いてきた。
『待たせたな、カリム君。ほなこれからの作戦を説明させてもらうわ。…後のことは全部、君にかかっとるからな。』