リリアンとロキシーが座る位置から少し離れた岸辺で、ドールは黒一色の平たい湖面に
逆巻く金色の
渦をぼんやりと
眺めていた。
風も音もないこの世界で唯一といっていいほど
壮大な
蠢きを見せる
塵の
奔流に改めて目を奪われつつ、
犇々と伝わり来る
畏怖に浸っていた。
悪魔を宿したときにディレクタティオの夜空から降り注いでいた
煌めきも、北の山脈に積もる雪ではなくこの『
魔素』と呼ばれる不思議な物質だったのだろうと
沁み
沁み思い返していた。
——この湖の底には千年前に
墜ちた巨大な隕石が埋まっていて、
壊月彗星から降り注ぐ
魔素を大陸に誘引し続けている…リヴィアさんからはそんな仮説を聞いた。どれだけ古い本を読んでも、そんなことを推論する記述はなかった。もし本当なら、歴史がひっくり返るほどの大発見になる。
——でも実際に悪魔を宿さずして、誰もその可能性に気付くことはないのだろう。そもそも
魔素という不可解な物質の存在が
公に知られ渡る方が、測り知れない混乱の原因になりかねない。結局はこれからも現実世界では、悪魔が
何食わぬ顔で厄災という名の『
戒め』を続けていくのだろう。
だが眼前では、自分が厄災を引き起こしたときとは比較にならない量と密度の
魔素が絶えず湖に吸い込まれていることから、ルーシー・ドランジアという人物がいかに絶大な魔力を消費し続けているのかを想像し、
対峙の時を待つカリムを案じた。
——そんな未来をドランジア議長が
嫌悪して、
途轍もない執念で人知れず
捻じ曲げようとしているのが
否が
応でも伝わってくる。カリム君はこの
壮大な魔力と意志を、本当に
独りで
凌ぐことが
出来るのかな。
——仮に
凌げたとして、その先は具体的にどうするつもりなのかな。あんなことを言った手前、心配をかけるだけ
野暮なのだと思うけど……。
「…おい、グレーダン教徒の女。」
思い
耽っていたドールは背後から
不愛想な声音で突然話しかけられ、その場で飛び上がりそうになった。
聞き覚えのある口調から声の主を察して
気不味そうに振り返ったが、そこに立っていたピナスの姿は以前とは打って変わって
牙を抜かれたように映っていた。
更に背後ではステラが2人を見守るように立っており、ドールは言わなければならないことを今になって思い出して
咄嗟に口走った。
「あ、その…変な意地を張って炎をぶちまけて危害を加えてしまって、申し訳ありませんでした。特に
貴女には
随分酷い当たり方をしてしまって……。」
「お互い様だ。元より
解り合うつもりなどない。本当の死を迎えるまで
儂が
儂であるために、
既に口にした言葉は取り消さぬし、取り消してもらいたいとも思わん。」
だが依然として当たりの強そうなピナスの物言いに、ドールは戸惑い
口籠った。
湖畔で再会したピナスは移動中に何があったのか目に見えて様子が変わっており、穏便になったものと
見做していたために、和解以外に
態々話しかけてくる要件に思い当たる
節がなかった。
「その代わり…貴様に尋ねたいことがある。」
たじろぐドールの反応を
他所に、ピナスは
淡泊に切り出した。
「貴様の両親は…どちらかがラピス・ルプスの民だったのではないか?」
予想だにしない問いかけに、ドールは
唖然として立ち尽くした。質問の意図すら
掴めず、
辿々しく事実を口にする他なかった。
「…
憶えてないわ。私は赤子の頃に
棄てられて、記憶があるのは…ディレクタティオの修道院に引き取られたときからでしかないの。この生まれつきの
白髪が、きっと
棄てられた原因。」
「いや、その純白はラピス・ルプスの民の赤子が
湛えるものと
酷似しておる。生まれつきの雪のような純白が
齢を重ねるごとに
瑠璃色を帯びた銀へと転じ、
軈て老いればくすんだ灰色となる…それが我が一族の体毛の
変遷なのだ。それが人間に遺伝するということは、貴様の父か母のどちらかが、我が故郷と
訣別した同胞だった可能性がある。」
「そ、そんなことがあり得るの? だって
貴女達の一族は、今の時代でも迫害を受けてて……!?」
ピナスの
突飛な推察を受け止め切れず制止させようと
狼狽するドールだったが、疑問を
自ら口にしたことで、脳内に点在していた違和感が不意に1本の線で
繋がったような気がした。
深紅の瞳を見開き、再び声を失った。
——
白髪を差別するような因習は聞いたことがないとカリム君は言っていた。ここにいる人達も、今思えば誰1人として私の髪に
軽蔑の
眼差しを向けていない。そして私が孤児院ではなく修道院に引き取られた理由、悪魔を宿した私が人並み以上の身体能力を発揮
出来た理由……。
——もし私の片親が教団の人間で、ラピス・ルプスの民との間に子を授かったのだとしたら。
——教団は
早々に『
戒め』を破ったとされるラピス・ルプスの民を長い歴史の中で毛嫌いしていたけど、明確に接触を禁じるような教義があったわけじゃない。それでも信者達はその赤子を、
悪魔の血を引く
忌み子だと認識するだろう。その子が教団から
出でた命だと知られないよう
秘匿し、
忌み子を産んだ両親を迫害するだろう。
——もしかして私が
度々受けてきた『悪魔の子』という
蔑称は、本当はそういう意味が込められていたっていうの!? でもそれなら、どうして私は赤子のうちに殺されなかったのだろう。それこそ売り飛ばされるようなこともなかった。ああ、少し仮定しただけでどんどん疑問が湧いてくる……。
「…
勿論儂が直接そのような事例を生前に見たわけでも、聞いたわけでもない。あくまでも可能性の話だ。少なくとも、我が一族に純粋な好意を
抱く人間が
極僅かでも存在し得ることを…
儂は知っているからな。」
ドールが
邪推に
苛まれていると、気付けばピナスが
独り
郷愁に
浸るように
呟いていた。
その振る舞いがどこかぎこちないように見えたドールは、この
気紛れにも思える
徒な指摘がせめてもの
和睦なのではないかと察した。
ピナスには生前の自分について明かした覚えはなく、不遇を
慰めるための発言ではないことは明らかだった。思想信条が
相容れない中で、少しでも
蟠りを清算しようという彼女らしい歩み寄りなのだとドールは捉えていた。
「…そう。
最期の最後で
その可能性を聞けて嬉しかったわ。ありがとう。」
ドールもまた不器用な微笑を浮かべて
応えると、ピナスは
不愛想な表情のまま
外方を向いてステラの元へと戻っていった。
彼女の揺らめく白銀の尾を見送りながら、ドールは黒い湖面に再び向き直り、無いはずの胸の高鳴りに改めて身を
委ねた。
——もし本当に私がラピス・ルプスの民の血を引いていたのなら、それはどんなに素晴らしい奇跡だったのだろう。私にはどんな可能性があったのだろう。何より…この
白髪を誇りに思えていたのだろう。
——でもその夢を
手繰り寄せようとする
度に、残念で悲しい感情が込み上げてくる。
生みの親には
殆ど思いを
馳せたことがなかったために、ドールは今になって両親の
凄惨な
最期を想像して身震いした。
自分の命の価値が
唐突に
高騰したような気がして、充分に
生を
全う
出来なかった事実がより一層
口惜しく感じた。
それでもドールは金色の
渦に再び視線を移すと、影の青年が持つ
黄金色の瞳を
不図連想し、その苦くて
酸っぱい感情を胸の
孔の奥深くに押し込んだ。
——受け継いだ価値を
活かすも殺すも自分次第なのだろうけど、その意味を
噛み締められることはきっと幸福に違いないわ。願わくば彼もまた、
虹彩異色の瞳に前向きな意味を感じられますように。そして創世の神様がこの先の未来で…その幸福を分かち合える人を1人でも多く導いて下さいますように。
「…終わったぞ。これで良いのであろう。」
ドールとの短い会話を終えたピナスは、不本意な心情を
露わにしたままステラの前へと立ち返った。
敵愾心の
喪失は
自らを構成する悪徳の弱体化に
繋がることを痛感した以上、
和合など
微塵も望んでいなかったが、ここに来てドールとの
軋轢を気に留めたステラに促され、
渋々ドールと交わす話の種を引っ張り出していた。
だが当人がお
世辞にも謝礼を口にしたために、結局は調子を狂わされてしまっていた。
——あの女、
所詮は
絵空事でしかないというのに動揺しおってからに…我が一族と人間が交わる可能性など、万に一つも考えられん。
それでもドールの
白髪については
全くの
戯言を述べたわけではなく、彼女には
一目見たときから違和感を——人間であって人間でないような、親近と
忌避が
鬩ぎ合う複雑な印象を
抱いていたことは事実であった。
クラウザの集落に混血を認めない
仕来りがあったわけではないが、そのような存在を想定し受け入れること自体に
躊躇いがあった。
況してや彼女が因縁のあるグレーダン教の修道服を
纏っていたこともあり、結果として当たりが強くなっていたことを認めざるを得なかった。
——だが万に一つなくとも、億に一つという
一縷の可能性ならあるのかもしれん。そもそもラ・クリマスの大陸に億単位もの人は
棲んでいないが、
辛うじて人間との交わりを肯定するのであればその程度の
儚い確率にしか成り得ないのであろう。そしてその確率は…ラピス・ルプスの民が滅亡し行く未来を変える余地と同義だ。
——
瑠璃銀狼様が絶滅を
危惧して人間と交わったように、我が一族も血を絶やさぬよう再び人間と交わるか
否か選択を迫られる将来が必ず近くに訪れる。…
否、集落を見限った者たちは
既にその選択を
是と定めていたのかもしれん。
——だがそうして生まれ育った結果があのドールという女の姿だとすれば…
瑠璃銀狼様から継承した外見や
面影は
殆ど失われてしまうことになる。そもそも人間と交わるならば、人間の社会と
迎合し『
貪食の悪魔』を宿すこともなくなるのではないか。果たしてそれは、一族の血と誇りを受け継いだと言えるのであろうか。
「…ピナスさん?大丈夫? また具合が悪くなったりしていない?」
思い詰めた表情が更に苦々しく
歪むのを見兼ねたのか、ステラが姿勢を
屈めて心配そうに尋ねてきた。
ピナスは
僅かに視線を合わせて
応えるのみで、
直ぐにその
碧色の瞳を伏せた。
——いずれにせよお
爺様やアリスに何を持ち帰ることも、そもそも顔を見せることすら叶わなかった。ドランジアを
仇討ちすることも、我が一族の新たな可能性を示すことも
出来ずに間もなく
生涯を終えようとしている。悪徳の
昂る
儘に破壊と
殺戮を繰り返すのみで何を成すことも
出来ず、愚かで情けない人生であった。
——
然れども、不思議と満足している自分もいる。リオナの人生に続きがあったことを知り、あの娘の世話をしたというステラと出会い、あの娘と同じように手を差し伸べられ…そして突き放された。
——もっとリオナのその後を聞き出したいとも思ったが、この
期に及んで
此奴と距離を詰めるのも
野暮というものだ。そしてカリムとかいう
青二才もまた、リオナを失う悲劇を経験した者……同じ
不甲斐無さを
抱えて生きる者になら、ドランジアとの決着を
委ねることも
吝かではないな。
ピナスが静かに心の中の整理を付けると同時に肩の力も抜けて、口元からは小さな溜息が漏れた。そしてもう一度目の前に
佇むステラを見上げると、その表情を
小突くように指摘を返した。
「
儂は何も問題はない。それよりも心配すべきは、貴様自身の方ではないのか?
儂らの魔力を
全て注ぎ込むということは、
儂らを
皆贄にする…
即ち殺すことと同義だ。
皆に寄り添い助けることを信条とする貴様が、本当にその非情な重役を
完遂出来るのか?」