カリムがラ・クリム
湧水湖に到着してから10分ほどが経過する頃、
愈々湖底に
潜むルーシー・ドランジアの元へ到達するための道筋が作られ始めようとしていた。
黒い湖の岸辺にはクランメが両手を差し出すようにして座り、氷結を生み出す姿勢をとっていた。背後にはステラが立ち、更にその後方にはピナス、ドール、イリア、ネリネ、ロキシーが左から並ぶようにして立っていた。
段取りとしてはまず最後方の5人の魔力を
魔魂ごとステラの
蔓に吸収させると同時に、ステラの魔力
全てを
併せてクランメに送り込み、クランメがそれを一気に解き放つようにして湖中央部の底に続く
氷穴を作り上げるというものであった。
当然にクランメ自身の魔力も
全て
費やすことが前提であり、どこまで精巧な通り道が
出来上がるかは本人の腕次第なのだが、イリアはそれも含めてクランメに
託すことを踏まえて、
皆に段取りを周知させていた。
イリアが左右に並ぶ顔を
然り
気無く
窺うと、4人とも生きた感覚が終わる
虚しさを
抱きながらもどこか
清々しているようで、イリア自身も胸を
撫で下ろした。
あれほど
纏まりのなかった悪魔の『宿主』達が、
紆余曲折を経て
漸く足並みを
揃えていることに
溜飲が下がるような思いであった。
——結局私が
皆を統率するには力不足だった…いや、この世界での私は
所詮皆と
同じ存在に過ぎなかった
。軍隊長の
肩書もこの
風貌も高圧的な装飾にしか成り得ず、かえって
軋轢を生むこともあった。
——そのなかで
皆を
繋ぎ止められたのは、ステラの思い
遣る姿勢があってこそだった。彼女の
芯の強さには本当に助けられた。そのお
陰で、
漸くこの不可思議な
生の続きを終えることが
出来る。
——最後に議長ともう一度会って話せないことは…あの
御方の行動の真意を聞き出せないことは残念ではあるが、元より叶うはずのない願いだ。
寧ろこれからの未来を生きる者が優先して知るべきことであり、私はその導きと成れるよう
生命の残り火を
捧げるべきなのだ。
「…
皆、思い残すことは何も無いな? それならば、ラ・クリマスの悪魔の『宿主』として最後に成すべきことを成すとしよう。…ステラ、
宜しく頼む。」
ステラが
凛とした声音で呼びかけると、
皆が静かに
頷いた。
間もなくしてイリア達5人が並び立つ足元から青白い
蔓が生え出て、魔力を吸収するために各人に絡み付こうとした。
だがその
延伸は力無く
撓み、
萎れるように動かなくなった。
その現象を
訝しんだイリアが
咄嗟にステラを
見遣ると、彼女の背中が明らかに
強張り、立ち尽くしたまま
微かに肩を震わせているのが
解った。
「…ステラ? 大丈夫か?」
イリアは問いかけながらも、ステラの心境には察しが付いていた。
これまでステラには何度か
蔓を操って他者を拘束したり魔力を吸い上げるなど依頼したりすることはあったが、
生命の源が
枯渇するまで害するよう指示したことはなかった。
元より彼女は生前厄災を引き起こした際も、誰1人としてその力で
殺めてはいないことをイリアは知っていた。
『何があるか
解らない世界で
独りで無茶をして、傷付いてほしくない。
貴女が自分を
顧みないのなら、私も全力で
貴女を止めてみせる。』
『誰の手も取り
零さず
掬い上げること、それが私の欲望なんです。そのためなら、不思議と力が湧いてくるんです…!!』
『本当は悪魔の力を振り
翳さずとも話を交わし合えるはずだから、それまで
貴女を手放したくないだけなの。』
そう言って
既に死んだ身である『宿主』達でさえ見捨てようとしなかったにも
拘らず、護り続けてきた
皆の存在を消し去る役割を課すことが
如何に非情なことか、イリアは重々承知していたつもりだった。
『もうこれ以上、誰もこの世界で
独りになんてさせない。
皆が納得して人生の続きを終えられることを、私は諦めたくないから。』
他方でステラがこのように発言したことも確かであり、今がまさにその時なのだと彼女自身も納得したものだと思い込んでいた。
だが実際にその時を最も受け入れ
難く感じていたのは、
紛れもなくステラ本人だった。
「…ごめんなさい、イリアさん。私、ちゃんとやるから……!」
俯きながら背中越しに答えたステラの声音は、
解り
易く
怖気づいていた。
イリアの両隣の4人も事態の
膠着に気付き始め、クランメも座ったままステラの様子を
一瞥しようと顔を
傾げた。
そんななかピナスは真っ先にステラの心境に
勘付いていたのか、小さく溜息を付いたのちぶっきらぼうに提案した。
「
最期の最後で不本意な
業を背負うこともなかろう。やはりここは
儂が
蒼獣と化して
皆を喰らい、残った
儂だけを
蔓の力で呑み込む
手筈が好ましいのではないか。魔力を集約して譲渡するという原理自体には
殆ど大差は無いはずだが。」
だがそれに対し、イリアの右側からネリネが
即座に難色を示した。
「嫌よ、獣に喰らわれて迎える
最期だなんて
惨めったらしい…
未だ
蔓に
包まれて消え行く方が
安らかで良いわ。」
「…何だと!?」
忽ちピナスとネリネが
睨みを
利かせ合い、ドールがピナスを、ロキシーがネリネを
宥めようと慌ただしく声をかけた。
その間もステラは振り返ることなく押し黙っており、地中から生えた
蔓も一向に伸びる気配がなかった。
不穏な空気に囲まれたイリアは一旦この場を落ち着かせるべく
一喝しようと息を吸い込んだが、
既のところで
躊躇って言葉を詰まらせた。
一度決したこととはいえ、軍人どころか部下ですらない彼女達に頭ごなしに命じる立場も
謂れも無いという再三の警告がイリアの
脳裏に響いていた。
——どうする? ステラの精神的負担が大きいのなら段取り自体を変えるべきか? いや、リヴィア
女史に次善策を相談する余裕は無い…最も重要な役割を担うリヴィア
女史にとって最も都合の良いやり方を貫徹するしかない。
——ステラも理屈ではそれが正しいと
解っているはずだ。そんな彼女に…今更何と
諭すべきなのだろう。
ステラとは生前から親交があったとはいえ、根本的には軍人と軍
管轄施設の職員という関係性であり、
齢の差もあってかイリアは最初から敬われ
慕われていた。
この死後の世界でも彼女は常にイリアに
随伴するように行動し、指示を仰いでいた。
だがその心情と彼女が
抱く信条とは別物であり、献身的な態度に甘んじてこれを
蔑ろにしていた自分を、イリアは今になって
顧みた。
すると、胸の孔の奥に
閊えていた何かが
忽然と消え去ったような気がした。
——役割分担や効率ばかりを考えて…道理で
最期まで心が晴れないわけだ。ステラの負担は
和らげるのではなく、
皆で
引き受けるべきなのだ
。
——共に悪魔を宿した仲間として。その提案を納得させられるだけの功労が、ステラにはある。
意を決したイリアはもう一度ゆっくりと息を吸い込み、冷たく
啀み合うピナスとネリネの間で静かに言い聞かせた。
「…
皆、足元に生えている
蔓を
掴むんだ。そして我々自身で悪魔の力を手放し、この
蔓に注ぎ込むんだ。
魂ごと力が奪われる感覚は、
各々が生前に味わったはずだろう。
既に本当の死を迎える決意を
抱いた我々になら、その
奔流を再現することが
出来るはずだ。」
そして
屈み込み率先して左手で
蔓を
掴むと、ピナスやネリネ、ドール、ロキシーは段取りを裏返すような提案に
呆気にとられた。
それでも
直ぐに理解を示したドールが身を
屈め、イリアの姿勢に
倣った。
「そうですね。多分、
出来ると思います。やってみましょう。」
その隣ではピナスもまた、
呆れた表情のまま同意を示して腰を下ろした。
「確かに、その方が手っ取り早いだろうな。決意が揺らがぬうちに
一思いに終わらせるとしよう。」
反対側では、ネリネもまたロキシーに引き寄せられる形で姿勢を低くしており、
渋々提案に応じていた。
「まぁアヴァリーさんには色々と迷惑もかけたし、自分の
最期まで
委ねてたらまるで釣り合わないわよね。」
「アヴァリー様、この世界では本当にお世話になりました。リヴィア様も…
皆の魔力を、どうか
宜しくお願いいたします。」
ロキシーが代表するように謝辞を述べると、次々に差し向けられる
気遣いにステラの
強張りが限界を迎え、
擽られる感覚から
逃れるように声音をひっくり返した。
「ちょ、ちょっと待ってよ!?
皆急にそんなこと……!?」
「ステラ、振り向くな。
蔓に意識を集中させろ。」
だがその
身動ぎをイリアが低い声音で制すると、ステラは反射的に身を堅くして震えを抑えつけようとした。
それでも不安と
焦燥が
滲む背中を見つめながら、イリアは穏やかに声を掛けた。
「…ステラ、
君にはとても感謝している。
君の献身的な心が…生前から何一つ変わらない、誰にでも手を差し伸べようとする姿が、今ここにいる
皆を
繋ぎ止めたんだ。だから我々は、最後にその献身に
応えさせてもらう。
君が差し出すことを
躊躇うその手を、今度は我々が握り返す。だから我々の
生命を、
全てを預かってほしい。後のことは…頼んだぞ。」
そう告げた直後、イリアは左手で
蔓を握り締めたまま
黄蘗色の瞳を閉じ、胸元に開いた
孔を
鎧越しに
覆うように右手を添えた。
脳裏には
嘗てルーシー・ドランジアに首元を
掴まれ、全身が崩れて1つの
塊に押し込められる悪夢のような記憶が焼き付いていた。
だが
億すことなくそれを再現するように——もう一度心臓を作り出すように、
自らの存在を構成する魔力を推し崩して右の
掌に集約させていった。
他方でそれが進行するに連れて意識が徐々に
靄掛かり、両手を除く感覚が
曖昧なものと化していった。
だがそこには痛みも苦しみもなく、
寧ろ
自然な形に戻ろうとする
能動性があった。元より魔力の
残滓のような存在であったためか、内側から自壊することに不思議と支障がなかった。
とはいえそれだけでは意味がなく、最終的には
魔魂に戻ろうとするこの身をステラに
蔓の力で吸収してもらう必要があった。
その結末をイリアが見届けることは叶わなかったが、ステラが必ず受け止めてくれることを信頼し託していた。
——ソンノム霊園での死に
際、私は議長に対して確かな不満を
零していた。
何故独りで
全てを抱え込むのか、力になりたいと願う
眼差しを見てくれないのか、と。
——だが至らなかったのは私の言葉や態度ではなく、手を取るために踏み出す一歩だったのだ。いや、家柄や立場を気にして常に周囲を
退いて見ていた私は、
他人よりも
もう一歩多く
踏み込まなければ真に相手の心に手が届くことなどなかったのだ。
——
最期の最後でそのことに気付いて…
皆のために役割を果たすことが
出来て、本当に良かった……。
ステラはイリアの残した言葉を
噛み締める一方で、背後を振り返ることが
出来なかった。
蔓を握られる力が
彼方此方で弱々しくなっていくのが
解り、相対的にステラの全身に鳥肌が立っていった。
この不気味な白黒の世界で出会い、支え合ってきた
幾つもの
尊い存在が
遂に失われていく様は、覚悟していても胸の
孔の奥に冷たい痛みを生み、立ち
眩みを引き起こしそうであった。
それでも
蔓の先端を細長く引き伸ばし、
微かに握られる力を
辿って収縮しつつある
各々の
魔魂を絡め獲ると、一息にそれら
全てを吸収した。
途端にステラの肩には想像を絶する重圧がかかり、
愈々立つことも
儘ならず地に膝を付いた。
——これが…
生命の重みなのね……
幾つもの
他人の命を奪うということなのね……!