カリムがアーレアの地下空間で凍死しかけたサキナを救おうと訴えかけた情けなく
縋り付くような言葉は、ラ・クリマスの悪魔を
全て『封印』する前に思い
留まるために
希ったものであった。
だが
全ての『封印』はその後数時間とも経たずして成し
遂げられ、半日も経たずしてカリムはこの暗闇に身を投じていた。
その間
目紛るしく変わりゆく事態に押し流されたことで、眠ったまま保護されたサキナとは手が届かないほどに離れてしまったように思えていた。
「心配じゃないと言えば嘘になります…でも今こうして『
陰の部隊』から
背くように独断で行動していることもあって、もう本部には戻り
辛いですし…元々あの人とはその場限りの関係だったというか……。」
『カリム様。お言葉ですが「その場限りの関係」などという言い回しを
軽率にするべきではございません。それは私のような
下賤な者との
疚しい
間柄に対し形容すべきでございます。』
しどろもどろに答えていたところをロキシーに鋭く
諫められたカリムは、
迂闊な表現に気付き慌てて訂正しようと口走った。
「ああいや、別にそういう意味合いで言ったわけじゃ……。」
『
勿論承知しております。ですが、カリム様にとってはもうその
御方が薄からぬ存在になっていることは私でも
解ります。何か気迷いを抱えておられるのでしたら、
尚更もう一度お会いするべきかと存じます。』
「…
譬え、相手が自分を必要としていると思っていなくても?」
『それは少なくとも私にとっては、
贅沢な悩みだと思います。』
弱腰を突き放すようなロキシーの返答に、カリムはそれきり何も言い返せなくなった。死人である彼女にそのような
台詞を吐かれては身も
蓋も無いと思いつつも、いつまでも
愚図ついた感情を引き
摺るべきでないことは心の中で明らかであった。
蒸気機関車の屋根の上で決裂して以来サキナと向き合うことを恐れている自分が、
菫色の
靄から
容易く
見透かされているような奇妙な感覚を味わっていた。
他方で、
何故ロキシーが
執拗に私情に踏み込んで来るのか疑問を
抱いていた。
——もし仮に俺が誰かと交際でもしていると知れば、それこそ『
淫蕩の悪魔』が首を絞めてしまうんじゃないのか。消滅する前にけじめを付けるつもりなのだとしても、
自棄になっていないといいんだが……。
『…出過ぎた
真似を、失礼いたしました。それでは、2つ目の質問をさせていただきます。』
カリムは
憂慮しながら
菫色の
靄を
追随していたが、ロキシーは
突っ
慳貪な追及を
自ら片付けて話題を転換してきた。
『カリム様は…「普遍的な愛情」とはどういうことだと思われますか。』
だが2つ目の問いは打って変わって極端に抽象的なものであり、カリムは思わず小首を
傾げた。一方のロキシーも言葉足らずを
悟ったのか、数秒の間の後に遠慮がちな補足を加えた。
『あ、その…これはですね、私が生前お会いしたドランジア議長様より拝聴した表現の一部なのです。』
「…ドランジア…議長から!?」
『議長の姉夫婦様は日頃から
父君より国益に貢献するよう厳しく
説伏を受ける一方で、その
御子息には
家柄に
囚われず望むまま自由に生きて欲しいと言い聞かせておられたそうです。議長様はそこに「普遍的な愛情」があり、温かく
眩いものであったと表されておりました。』
『反面、それを語る口振りはどこか
侘しそうで、「普遍的な愛情」はもう存在していないのではと邪推したことを覚えております。思い返せば議長様も、蛇のような
黄金色の瞳を光らせる
御仁でした。その愛情を注がれていた
御子息というのは…カリム様のことだったのですね。』
記憶をなぞりながら語り掛ける
菫色の
靄の背後で、カリムは
伯母であるルーシー・ドランジアが赤の他人にそのような過去を語っていたことに動揺していた。
身近な親子の関係を
羨み惜しむような
面影は、ルーシーとの関わりの中で一度たりとも
垣間見たことがなかった。
あくまでロキシーの言葉通りに捉えたとしても、それが本心なのか美化された
逸話なのかまるで判別しようがなかった。
「…どうして
伯母さんはロキシーさんに、その話を…?」
『申し訳ございませんが、あのとき多弁にお話しされていたうちの一部ですので、詳細な脈絡までは
憶えておりません。ただ、使用人としてしか生き方を
見出せなかった私に、人生における可能性の1つを
示唆してくださったのだろうと思っています。…
尤もそれは同時に、私に悪魔を顕現させるための心理的な誘導だったのかもしれませんが。』
「人生における…可能性の1つ……?」
『カリム様は、幼少の頃の記憶がないと
仰っていましたが…失礼ですが、ご両親のことも
憶えておられないのでしょうか。』
「…はい。」
『そうですか…。私も
凡そ家庭と呼べる環境で育ったわけではないので、何を申し上げたところで無用の
長物になりかねないものと存じます。ですが
僭越ながら1つ進言させていただけるのであれば…カリム様の将来には
沢山の可能性、選択肢があるということです。』
『カリム様は今でこそ使命と覚悟を胸に
邁進しておられますが、どのような境遇を
抱いていたとしても、本当に大切なものを
見出し
愛しいものを追い求める権利があるのです。私はそれが
許されること
こそが…「普遍的な愛情」なのだと思います。』
口調では
畏まりながらも、ロキシーはカリムを奮い立たせるような提言を示した。
だがその主張はかえってカリムが背負い込む様々な想いに余計な重みを与え、表情を苦々しく
歪ませた。
「もう持ち腐れてますよ、そんなもの…大体、許してくれる人なんて俺にはいません。」
『いいえ、カリム様。他でもない
貴方様が自分自身を許すのです。愛する人を見つけ、
尚且つ自分を愛してください。そうでなければ大切なものを
見出せないどころか…
既に抱えている大事なものでさえ、
容易く失ってしまいかねないのです。』
「…それは…一体どういう……!?」
カリムが更に問い返そうと一歩を踏み出したその時、当然にあると思っていた段差が
突如平坦になっており、着地した足裏から不意打ちのようにこそばゆい反動が返ってきた。
驚きのあまり周囲を
見遣ると、息詰まるように思えた氷壁がなくなっており、
遂に暗闇に放り出されたような錯覚に
陥っていた。
落ち着けるように目を凝らすと、そこは分厚い氷で造られた半球状の空間であり、湿り気を残す柔らかな足元の質感は湖底に到達した何よりの証拠であると判明した。
その広大さに対して
菫色の
靄が照らす範囲はあまりにも
心許なかったが、カリムは冷たい暗闇の奥に
微かだが何か浮かんでいるような
輪郭を視界に捉えた。
「あそこに何かが…いる…?」
『お待ちください…カリム様。』
だが近付こうと慎重に踏み出そうとした次の一歩を、ロキシーが
透かさず制した。
満を持して
伯母と
相見えるときが来たのだと
逸る気負いを
削がれたカリムだったが、不服を覚えながら
傍らを振り向くと、
菫色の
靄が強風に
煽られる
篝火のように荒々しく揺らめいていた。
「ロキシーさん!? 大丈夫なんですか!? …あれは、ドランジア議長で間違いないんですよね!?」
『大丈夫…です……
魔素の
奔流が激しく…吹き飛ばされそうですが……。』
カリムには何の音も風圧も感じられないものの、ディヴィルガムを通じて届くロキシーの返事には砂嵐のような雑音が断続的に入り混じっており、奇妙な現象に
狼狽えがらも隕石に意識を集中させて彼女の声を聞こうと努めた。
『申し訳ございませんが…私には
眩すぎて…はっきりとした
素性を捉え切れません……ですが…その周囲は高密度の魔力で堅く…球体状に閉ざされています……。』
『…あれが恐らく…リヴィア様の
仰っていた……「魔力の
匣」…恐らく生身のカリム様が踏み込めば……
忽ち圧死するか
若しくは…
窒息するでしょう……。』
カリムは前もってクランメから、予想されるルーシーの変異状況について聞かされていた。
即ち、現状は湖底の水圧を
相殺するような高圧の隔壁を生成維持しているが、氷結で
覆い尽くすことでそれを一時的に解除
出来ると思われること。
それでも
尚ルーシー自身を半永久的に保存し続けるため、
自らを閉じ込める高密度の魔力の
殻が存在し得ること。
いずれにせよ、ディヴィルガムによる思念の接触は魔力の圧迫により
遮断される可能性が高いこと。
実際にこれらは
殆ど的を射ており、カリムは徐々に心臓の鼓動が
昂っていくのを感じ取っていた。
——確かにリヴィアさんの言っていた通り、他の『宿主』達のように意識を
繋げることは難しいみたいだ。でもこの暗闇の中で、確かに
そこに居るのが見えている
。つまり、手段としては間違っていないということだ。そしてこの最後の壁を打破するには……!
「ロキシーさん…お願いしてもいいですか…!?」
カリムは今にも
纏まりが
掻き乱されそうな
菫色の
靄に杖の先端を傾けながら遠慮がちに、それでいて
急き込むように催促した。
『
畏まりました…カリム様……ですが……その前に…
最期にもう1つだけ……。』
「もう1つ……何ですか!?」
雑音で
途切れる
台詞を
訊き返したつもりだったが、ロキシーはその応答を
以て同意と受け取ったのか、
菫色の
靄を
煽られる
儘に
棚引かせ、カリムの足元から胴体にかけて巻き付くように
纏わり付かせた。
そうして
唐突に身体を
這い上がってきた
靄は、
瞬く間にカリムの顔面を
覆い尽くした。
「……!!?」
呼吸を
塞がれたわけではなかったが、カリムは反射的に
瞼を閉じて息を止めていた。
嘗て虚を突く
接吻と共に毒を流し込まれたことを想起させ、身構えるように全身が硬直していた。
それでもロキシーが何のつもりで絡み付いてきたのか想像するには
易く、『
最期のもう1つ』が指すことに察しがついていた。
『…カリム様……
貴方様と出会えて……
最期に…
貴方様のお力に…なれて……嬉しかったです……。』
『…それでは……行って参ります……!』
——やっぱり、何の
温もりも心地良さも感じない。空気の
塊を
抱擁するような、
虚し過ぎる離別だわ。
——でも、それで構わない…あの
御方が私を信じてくださったから、私は
最期まで力を振り絞ろうと思える。最後にして最大の奉仕を務めることが
出来るのだから。
空虚な
接吻を終えたロキシーは影の青年から離れると、氷結に閉じられた
真白の空間で
眩く輝く『魔力の
匣』を振り返り、そこに止め
処無く流れ込む金色の粒子の柱を息苦しそうに見上げた。
氷の天井を
擦り抜けて侵入する
魔素の
奔流は、魔力の
塊であるロキシー自身も
掻っ
攫おうと半球状の空間で新たな気流を生み出しつつあった。
少しでも気を抜けば
忽ち身体は吹き飛ばされて原型を失い、拡散して
奔流に呑み込まれる
虞があった。
『単純な話、それでも構へん。
君の持つ毒は
魔素自体を汚染させるんや。そうして人体の細胞を
冒すように、魔力の
塊であるうちらにも同じような危害を加えることが
出来る…ステラがそうして伏せったようにな。』
『つまり最終的にロキシー、
君自身が毒を
孕む
魔素としてドランジアに取り込まれれば、「魔力の
匣」を内側から破壊することが
出来ると考えられる。…いや、それが奴の防壁を打ち砕く唯一の方法やとうちは結論付けた。』
——リヴィア様はそう
仰って私に大役を
託してくださった。でも
如何に私自身が毒の役割を果たすとはいえ、この激しい気流に呑まれて
散り
散りになったら、毒自体が
希薄になって思うような結果を出せなくなるかもしれない。
——挑戦
出来るのは1回限り。それなら、私は……!
リリアンが消滅したことで、ロキシーの衣類は再び
生地の薄いベビードールのみに戻っていた。他に
纏うものはリリアンへの罪悪感しかなく、今この瞬間まで重く
圧し掛かっていた。
だが覚悟を決めたロキシーはそれを振り払い、唯一身に付けていた薄い布切れを
剥ぎ取って両手で丸めるように圧縮すると、そこに生み出せる限りの毒素を染み込ませた。
生前襲撃者からカリムを
庇おうとした際、無意識に作り出していた酸のような高濃縮の毒であった。元より布切れは吸湿性のある素材ではなかったが、魔力で再現されていたその
生地は
自ずと劇毒の
塊へと
変貌していた。
ロキシーはそれを胸元に開いた
拳大の
孔に押し込み両手で
塞ぐと、
愈々上昇気流に身を預けるように浮かび上がり、空間の中心に渦巻く
魔素の
奔流へと
一思いに飛び込んだ。
直ぐさま全身が
捩れて
刮がれるような壮絶なうねりに
囚われ、脳内が激しく揺さぶられて何もかもが
解らなくなった。
だがその
最中でも、胸元に抱えた劇毒の
塊だけは『魔力の
匣』に届くまで消え去ることのないよう必死で抑え込みつつ、
只管にカリムへ思いを
馳せた。
2人きりになっても一定の距離を保ちつつ、服従でも
恋慕でもない、ただ将来の幸せを願う気持ちを『
淫蕩』の代わりに埋め尽くして、満たして、想いを
遂げるための
楔になろうとしていた。
——これが私の…生きた意味……
刹那でも愛した人に…尽くした…確かな
証……!
——あの
御方の…未来のために……この毒を…力を…絶対に…ぶつけてみせる……!!