第8話 磨くのはお嬢様の靴だけです。

文字数 3,712文字

 あらかじめ知らされていた予定時刻を過ぎても、ヒューバートは現れなかった。ソニアは苛々と暖炉上の時計を見た。あと三十分もすれば晩餐の時間だ。公爵家では食事の時間が厳密に定められており、時間になれば頭数が揃わなくても開始される。
 ヒューバートは遅くとも六時には到着すると手紙に書いて寄越した。晩餐は八時からだから、着替えて食前酒を楽しむ余裕もあると見積もっていたのに。
 横目で父の様子を窺うと、安楽椅子にくつろいでゆったりと本を眺めている。ソニアは座っていたソファから立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
 五月初旬、帝都の夕暮れはまだ始まったばかりだ。ぽつりぽつりと街灯が灯り始め、美しい波形を描く鋳鉄製の柵の向こうの表通りを劇場へ向かう馬車やそぞろ歩きの通行人が行き交っている。
 やきもきしながら視界に入ってくる馬車を見定めていると、ようやく一台の馬車が門扉の前で速度を落とした。門衛が木陰にある田舎家(コテージ)風の煉瓦の小屋から走り出てきて門を開ける。ソニアは歓声を上げた。
「お兄様だわ! お父様、お兄様が帰っていらしたわ!」
「スープを飲み損ねずに済みそうだね」
 父が本から目を上げて微笑んだ。ソニアは兄を出迎えるべく急いで玄関へ向かった。階段を降りていくと、金褐色の髪の青年が従者に帽子を渡しているところだった。
「お兄様!」
「やぁ、ソニア。元気だったかい」
 抱擁と挨拶のキスを交わし、ヒューバートは空色の瞳で軽快に笑った。
「よかった、間に合わないんじゃないかとやきもきしたわ」
「予想以上に道が混んでいてね。──ああ、父上。遅くなって申し訳ありません」
 ゆったりと歩み寄った公爵は息子と握手しながら肩を叩いた。
「早く着替えてきなさい。ミセス・コーウェンが腕によりをかけた料理が冷めてしまう」
「ええ、すぐに」
 従者(ヴァレット)を従えて自室へ向かうヒューバートを見送り、ソニアはふと首を傾げた。
「お兄様、従者を変えたのね。エリックじゃなかったわ。お父様、ご存じだった?」
「いや。何も聞いてはいないが」
 父に促されて食堂へ向かいながら、ソニアは何となく腑に落ちなかった。
 ディナージャケットに着替えたヒューバートを迎え、久々に親子三人揃っての食事が始まった。
 兄からロイザでの学生生活を聞くことを、ソニアはとても楽しみにしていた。ロイザは帝国最古の大学が開かれた町で、学問と研究の中心地となっている。歴史ある建物や美しい運河が見事な町で、ソニアはまだ一度も行ったことがないのだ。
 晩餐の後、部屋を移ってしばらくお喋りすると、父は先に自室へ引き上げた。
「お忙しそうだな、父上は」
「建国祭の準備でずっとそうなの。外国からの賓客をもてなす責任者なんですって」
「それは大変だ。気苦労も多そうだね。白髪が増えないといいけど」
 笑ったソニアは、ノックの音に目を上げた。入ってきたのは先ほど見かけたヒューバートの新しい従者だった。黒髪黒瞳の青年は銀の皿に数葉の手紙を載せていた。
「ロイザから手紙が転送されて参りました」
 頷いたヒューバートは手紙をひっくり返して差出人を確かめ、すべて開かずに戻した。
「急ぎの手紙はないようだ。後で見るから机に置いといてくれ」
「かしこまりました」
 うやうやしく頭を下げ、従者は引き下がった。ソニアはドアが閉まるのを待って尋ねた。
「エリックはどうしたの? お兄様」
「……エリック? ああ、彼は──、クビにしたよ」
「あんなに気が合ってたのに?」
 ヒューバートは急に不機嫌そうになった。
「鬱陶しくなったんだ。よく気が回ったけど、この頃何かと口出ししてくるようになって。友だちの悪口を言ったり僕の行動を監視するようなことまで。頭に来たからクビにした」
「お兄様のことを心配してのことでしょう。悪気はなかったと思うわ」
「あいつは僕をいいように操ろうとしてたんだ。大学に入って、やっとそれがわかった」
 エリックはヒューバートがまだこの屋敷で暮らしていた頃からずっと仕えている。気心が知れている分、何もかも把握されているのがいやになったのだろうか。
(わたしは色々とよくわかっててくれるフィオナにずっと側にいてほしいけど……。男の人の考えは違うのかしら)
「オージアスはエリックよりずっといいよ。気が利くけど押しつけがましくないんだ。万事控えめだし、若くて教養がある。背が高くて見た目もいい。エリックよりずっといいんだ。オージアスのほうがずっと優れてる。彼の方がエリックよりも、エ、エリック──」
 何だか変だ。不安になってソニアは兄の腕をそっと掴んだ。
「お兄様?」
 ハッとヒューバートは目を瞬いた。唇から血の気が失せ、額に汗が浮いている。
「……すまない。ちょっと疲れてるみたいだ」
「そうね。長時間馬車に揺られたせいよ。もうお休みになった方がいいわ」
 力なく頷き、ヒューバートはのろのろと部屋を出て行った。
(どうしたのかしら、お兄様……)
 エリックとよほどひどい口論にでもなったのだろうか。ソニアの印象では、エリックは心配性なところはあっても口うるさく指図するタイプではない。ましてやヒューバートの友人の悪口を言ったなんて、ちょっと信じられない。
 自室に戻ってフィオナに訊いてみると、やはりソニアと同じ意見だった。
 侍女(レディーズメイド)のフィオナと従者(ヴァレット)のエリックは、同じく上級使用人である執事や家政婦と一緒に食卓を囲み、言葉を交わす機会が多かった。エリックは他人に指示を出すのが苦手で、執事には向いていないと苦笑まじりに言っていたことをフィオナは覚えていた。
「坊っちゃまもおとなになられたということなんでしょうね」
 妙にしみじみとフィオナは嘆息した。ヒューバートは今年で二十歳になる。幼い頃からききわけのよい利発な子で、父に逆らったり言い返したりしたのを見たことがない。その点ソニアのほうがよほど言いたい放題で、わがままだった。
「遅まきながら反抗期、ということかしら」
「かもしれませんね。それにしてもオージアスさんは素敵な方ですわ」
 頬を染めるフィオナを、ソニアはじろりと見た。
「フィオナって、本当に面食いよねぇ」
「そ、そんなことはありませんっ」
「あらそーお? アイザックのこともキラキラお目目で見てるじゃないの」
「違いますっ、わたしはただ見目麗しい殿方が、その、好ましいな~って思うだけで」
「それを面食いと言うの。もぉ、気をつけなさいよ。どれだけ顔がよくたって、性格もいいとは限らないんだから。あーあ、これじゃわたしがフィオナを見張ってなきゃ。顔だけ男に騙されたりしたら大変」
「騙されたりしませんってば!」
 真っ赤になって抗議するフィオナを笑ってあしらいながら、ソニアはやはりあのオージアスという新しい従者が気になって仕方なかった。
 はっきりした根拠があるわけではない。先ほど手紙を持ってきた時にそれとなく観察してみたが、確かになかなかの美形だ。
 身内の贔屓目を差し引いてもヒューバートはかなりの美青年だし、何というか主従の釣り合いは取れている気がする。物腰はそつなく、洗練されている。良家の出身であってもおかしくない。にも関わらず、何やら得体の知れない感じがするのだ。
(得体が知れないと言えば、ギヴェオンも似たようなものだけど……、あっちは印象が真逆なのよね。何というか、毒気を抜かれるって感じ?)
 へらっと笑う黒縁眼鏡の顔が頭に浮かび、がくりと肩を落とした。ソニアの従僕である彼は食事時にはソニアの給仕担当で、晩餐の時もずっと後ろに控えて椅子を引いたり皿を取り換えたりしていた、はずだ。兄との会話に夢中でほとんど見ていなかった。
(そうだわ。オージアスをどう思ったか、後で訊いてみようっと)
 翌日、部屋に呼ばれたギヴェオンは、眼鏡の奥で青い瞳を瞬きながら首をひねった。
「オージアスさん、ですか? さぁ~、ちらっとしか見てませんので、何とも……」
階下(した)で喋らなかったの?」
「私はあんまり。上級使用人のフレッチャーさんかフィオナさんに訊かれては」
 フィオナは彼の良さげな面しか見ていないし、執事に問うのも大仰かと思ってギヴェオンに尋ねたのだが。
「あのー、他にご用がなければ行ってもいいでしょうか。まだ靴磨きが終わらなくて」
 頷いて長椅子に沈み込んだソニアは、ふと気付いて伸び上がった。
「ちょっと待って! ギヴェオン、あなた靴磨きまでしてるの?」
「そりゃあしますよ。当然です」
「それはもっと下の者の仕事でしょ。あなたは私の従僕(フットマン)なのよ」
「だから磨いてるのはお嬢様のお靴だけです。御用事があればいつでもなんなりとどうぞ。あ、お出かけの際は必ず呼んでくださいね。旦那様からきつーく承っておりますので」
 しかめっ面で頷き、行ってよしと手を振る。こめかみを押さえ、ソニアは溜息をついた。あのへらっとした態度に苛立つのか和むのか、よくわからなかった。
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