第2話 信者なら〈光の書〉を暗記するくらい当然です。
文字数 3,404文字
「……無限の闇の彼方より彼らは現れた。
混沌の海 を越えて、彼らは至った。
彼らはこの世界を発見した最初の神々であった。
神々は荒れ果てた岸辺に上陸した。
大地は黒光りする尖った石塊に覆われていた。
朝になれば燃え上がり、夜になれば凍りついた。
そこは不毛の世界だった。
にも関わらず神々は嘆かなかった。
何もないなら創ればよい。
そして神々は必要なものを創り始めた……」
朗々と響く美声が止んだ。
うっとりと耳を傾けていたフィオナは、声の余韻が消えるのをせつなく追った。
深紅色の天鵞絨 めく麗しい声音が中空に溶け込んだ、まさにその刹那。
ぐすー。
静まり返った室内に、なんとも間の抜けた音が響いた。
広い部屋の中央には長方形の大きな机が置かれている。国内有数の職人が丹精込めて作った、精緻なツタと果物が彫り込まれたクルミ材の美しい猫脚机だ。
その机に突っ伏しているフィオナの主、十七歳という妙齢の少女が、明るい栗色の髪を天板いっぱいに広げ、気持ちよさげに寝息をたてている。
ぐごっ。
今度は噎せたようなイビキが響いた。
フィオナは血の気の失せた顔で、自分と同い年の主と、それを睨んでいる美貌の青年とを交互に窺った。
美青年は背後の黒板から親指大の白墨をおもむろにつまみあげた。弾丸もかくやの勢いで白墨が居眠り少女の頭頂部に激突する。
「いたっ」
反射的に身を起こしたソニアは瑠璃色の瞳をすがめて頭をさすった。
何が起きたのかとねぼけ眼で周囲を見回すと、真っ青になったフィオナがしきりに目配せしている。
何やら目の前が急に翳ったような気がして顔を上げると、机を挟んで佇む青年が凄絶な微笑を浮かべていた。
左手に〈光の書〉の小型写本を持ち、右手で第二弾とおぼしき白墨を不穏に弄んでいる。
ソニアの家庭教師 であるアイザック・ノーマンは、唇だけでにっこりと微笑んだ。
「目は覚めましたか、ミス・ソニア。おや。顔に本のページ跡がくっきりついていますね。もう少し刺激が必要なら、こちらの写本を脳天にお見舞いしてさしあげますが?」
「い、いえ、結構です」
あの装幀写本は小さな見た目からは想像つかないほど重いのだ。
表紙は一見革製のように見えて実は薄い板金だし、角は真鍮で補強してある。おまけに背表紙にはいくつもの貴石がはめ込まれている。
目の前で居眠りしたのを見咎められてはさすがに気まずく、ソニアは誤魔化すようにぐすぐすと鼻を鳴らした。
「お風邪でも召されたのですか、ミス・ソニア」
「いえ別に。わたし、とっても丈夫なのでご心配なく」
「そうですね。なんとかは風邪をひかないと言いますから」
ムッとしてソニアは家庭教師を睨んだ。
「わたしが馬鹿だとおっしゃるの」
「おや、誰がそんなことを」
机の下でぐっと拳を握る。
ソニアは国内でも三つしかない準王族・公爵家の令嬢だと言うのに、まったく遠慮も会釈もない。
さすがに口調だけは丁寧だが、彼にとってソニアはお嬢様でも何でもないただの生徒──それもかなり出来の悪い生徒にすぎないのである。
「鬼教師……」
低声で呟いたとたん、「オニ?」と訊き返される。地獄耳め。
「いえっ。その……、そう! お兄様に会いたいなぁ、と」
「そういえば、近々若君が帰省される予定だそうですね」
「そうなの。久しぶりなもので、嬉しくってもうウキウキしてしまって」
「それで浮かれるあまりに爆睡してしまった、と。たいへんユニークな反応ですね」
「ありがとう!」
「褒めてません」
睨まれたソニアは亀のように首をすくめた。
「では、〈光の書〉、通史の部分を暗唱しなさい。今私が読んだ続きから」
アイザックはくるりと背を向けてしまう。続きと言われても完全に寝落ちていたので見当もつかない。
横目で窺うと、フィオナが口をぱくぱくさせて教えてくれた。ソニアは軽く息を吸い、暗唱を始めた。
「……そして神々は必要なものを創り始めた。
まず、世界を司る四つの元素に〈宇宙の息吹 〉を吹き込んで火と風と水と土の元素霊 を創り、彼らを統率する王をそれぞれに置いた。
神々は四元素すべてを統合した〈第五元素 〉の王となった。故に神々は〈世界の支配者 〉と呼ばれるのである。
……
神々は精霊たちを駆使して世界を整えていった。
世界が広がってゆくと、神々は自分たちの代理として〈第五元素 〉を元に人間を創った。
ところが人間は神々の威光を嵩にきて威張り散らしたため、不快に思った神々は人間から〈第五元素 〉を操る力を奪った。
以来、人間は神々の助けなしには〈第五元素 〉を操ることができなくなり、ほとんどの人間は単なる労働力とされた。
ごく少数の優れた者だけが神秘の力を許されて神官となり、神々の代理人としての地位に留まった。
こうして人間は力なきものとなったが、その代わりに誰よりも早い速度で増え始めた。
放っておいても勝手に増える人間を、神々はあまり重視しなくなった。
容姿や能力の優れた者を連れ去り、逆らう者は容赦なく殺した。
神々にとって人間は虫のごときもので、美しければ愛で、不快であれば叩きつぶすのは当然であった。
そのような状態が永く続き、やがて神々の中から違う考えを持つ者たちが現れた。
彼らはこの世界に生まれ育った神々だった。
新しき神々は人間を奴隷状態に留めておくことに疑問を感じた。
同時に、押さえ付けられた人間たちも少しずつ知恵と力を蓄え始めた。
これを不愉快に思った祖神 たちは人間の数が増えすぎたと判断し、自分たちに忠実な者だけを残して滅ぼしてしまおうと決めた。
それに反対する神々は、離反して人間の側に立った。
こうして後の世に〈世界継承戦争〉と呼ばれる大規模な戦が起こった。
戦いは千年の長きにわたった。
神々の大部分は戦争に倦み飽き、新しき世界を探そうとふたたび混沌の海へ乗り出していった。
残った神々は世界の支配権を巡って争い続けた。
人間に味方する神々は、少しずつ追い詰められていった。
人類を敵視する神々の陣営には、最強完璧なる戦神──〈神々の神〉がいたのである。
もはや残るは最初に立ち上がった女神アスフォリアと、彼女を支えるわずかな神々のみ。
ところが戦いの流れは突如として変わる。
〈神々の神〉が腹心の手勢を連れ、アスフォリアに加勢したのである。
これ以降〈神々の神〉は〈神殺しの神〉と呼ばれるようになった。
戦いはアスフォリア側の勝利で終わった。
敗れた神々の一部は女神に誓いをたてて軍門に下ったが、大半は最後まで戦いぬいて大地に骸を埋めた。
戦争が集結した時、美しかった世界は無残に破壊され尽くしていた。
神々の粋を極めた文化はもはや跡形もなく、文明は大きく後退してしまった。
残った神々は世界中に散らばり、世界の復興に力を尽くした。
月日は流れ、やがて荒れ果てた大陸に神々を始祖とする七つの国が興った。
中心となったのはアスフォリア女神を始祖とする王国である。アスフォリアの王国はやがて大陸の覇者となり、アスフォリア帝国を名乗った。
……その影響力は国境を越え、今に至るまで大陸全土に及び──」
「はい、そこまででけっこうです。よくできました」
ようやくストップがかかり、ソニアは尻餅をつく勢いで椅子に座った。
「さすが準王族の一員だけのことはありますね。フィオナ、ミス・ソニアにライム水を」
いそいそとフィオナは部屋の隅に駆けてゆき、卓上に用意されていたライムとレモンで風味をつけた冷水をグラスに入れて持ってきた。
喉を湿してホッと溜息をつく。
「ま、聖神殿の敬虔な信者である準王族ならば、〈光の書〉を暗記するくらい当然のことですが。アスフォリア女神は王室の始祖、国の基となった神格ですからね」
ソニアはむくれ顔でぐっと水を飲み干した。
「今日はいつにもまして機嫌が悪いのね。でも、わたしに八つ当たりしないでほしいわ」
彼らはこの世界を発見した最初の神々であった。
神々は荒れ果てた岸辺に上陸した。
大地は黒光りする尖った石塊に覆われていた。
朝になれば燃え上がり、夜になれば凍りついた。
そこは不毛の世界だった。
にも関わらず神々は嘆かなかった。
何もないなら創ればよい。
そして神々は必要なものを創り始めた……」
朗々と響く美声が止んだ。
うっとりと耳を傾けていたフィオナは、声の余韻が消えるのをせつなく追った。
深紅色の
ぐすー。
静まり返った室内に、なんとも間の抜けた音が響いた。
広い部屋の中央には長方形の大きな机が置かれている。国内有数の職人が丹精込めて作った、精緻なツタと果物が彫り込まれたクルミ材の美しい猫脚机だ。
その机に突っ伏しているフィオナの主、十七歳という妙齢の少女が、明るい栗色の髪を天板いっぱいに広げ、気持ちよさげに寝息をたてている。
ぐごっ。
今度は噎せたようなイビキが響いた。
フィオナは血の気の失せた顔で、自分と同い年の主と、それを睨んでいる美貌の青年とを交互に窺った。
美青年は背後の黒板から親指大の白墨をおもむろにつまみあげた。弾丸もかくやの勢いで白墨が居眠り少女の頭頂部に激突する。
「いたっ」
反射的に身を起こしたソニアは瑠璃色の瞳をすがめて頭をさすった。
何が起きたのかとねぼけ眼で周囲を見回すと、真っ青になったフィオナがしきりに目配せしている。
何やら目の前が急に翳ったような気がして顔を上げると、机を挟んで佇む青年が凄絶な微笑を浮かべていた。
左手に〈光の書〉の小型写本を持ち、右手で第二弾とおぼしき白墨を不穏に弄んでいる。
ソニアの
「目は覚めましたか、ミス・ソニア。おや。顔に本のページ跡がくっきりついていますね。もう少し刺激が必要なら、こちらの写本を脳天にお見舞いしてさしあげますが?」
「い、いえ、結構です」
あの装幀写本は小さな見た目からは想像つかないほど重いのだ。
表紙は一見革製のように見えて実は薄い板金だし、角は真鍮で補強してある。おまけに背表紙にはいくつもの貴石がはめ込まれている。
目の前で居眠りしたのを見咎められてはさすがに気まずく、ソニアは誤魔化すようにぐすぐすと鼻を鳴らした。
「お風邪でも召されたのですか、ミス・ソニア」
「いえ別に。わたし、とっても丈夫なのでご心配なく」
「そうですね。なんとかは風邪をひかないと言いますから」
ムッとしてソニアは家庭教師を睨んだ。
「わたしが馬鹿だとおっしゃるの」
「おや、誰がそんなことを」
机の下でぐっと拳を握る。
ソニアは国内でも三つしかない準王族・公爵家の令嬢だと言うのに、まったく遠慮も会釈もない。
さすがに口調だけは丁寧だが、彼にとってソニアはお嬢様でも何でもないただの生徒──それもかなり出来の悪い生徒にすぎないのである。
「鬼教師……」
低声で呟いたとたん、「オニ?」と訊き返される。地獄耳め。
「いえっ。その……、そう! お兄様に会いたいなぁ、と」
「そういえば、近々若君が帰省される予定だそうですね」
「そうなの。久しぶりなもので、嬉しくってもうウキウキしてしまって」
「それで浮かれるあまりに爆睡してしまった、と。たいへんユニークな反応ですね」
「ありがとう!」
「褒めてません」
睨まれたソニアは亀のように首をすくめた。
「では、〈光の書〉、通史の部分を暗唱しなさい。今私が読んだ続きから」
アイザックはくるりと背を向けてしまう。続きと言われても完全に寝落ちていたので見当もつかない。
横目で窺うと、フィオナが口をぱくぱくさせて教えてくれた。ソニアは軽く息を吸い、暗唱を始めた。
「……そして神々は必要なものを創り始めた。
まず、世界を司る四つの元素に〈
神々は四元素すべてを統合した〈
……
神々は精霊たちを駆使して世界を整えていった。
世界が広がってゆくと、神々は自分たちの代理として〈
ところが人間は神々の威光を嵩にきて威張り散らしたため、不快に思った神々は人間から〈
以来、人間は神々の助けなしには〈
ごく少数の優れた者だけが神秘の力を許されて神官となり、神々の代理人としての地位に留まった。
こうして人間は力なきものとなったが、その代わりに誰よりも早い速度で増え始めた。
放っておいても勝手に増える人間を、神々はあまり重視しなくなった。
容姿や能力の優れた者を連れ去り、逆らう者は容赦なく殺した。
神々にとって人間は虫のごときもので、美しければ愛で、不快であれば叩きつぶすのは当然であった。
そのような状態が永く続き、やがて神々の中から違う考えを持つ者たちが現れた。
彼らはこの世界に生まれ育った神々だった。
新しき神々は人間を奴隷状態に留めておくことに疑問を感じた。
同時に、押さえ付けられた人間たちも少しずつ知恵と力を蓄え始めた。
これを不愉快に思った
それに反対する神々は、離反して人間の側に立った。
こうして後の世に〈世界継承戦争〉と呼ばれる大規模な戦が起こった。
戦いは千年の長きにわたった。
神々の大部分は戦争に倦み飽き、新しき世界を探そうとふたたび混沌の海へ乗り出していった。
残った神々は世界の支配権を巡って争い続けた。
人間に味方する神々は、少しずつ追い詰められていった。
人類を敵視する神々の陣営には、最強完璧なる戦神──〈神々の神〉がいたのである。
もはや残るは最初に立ち上がった女神アスフォリアと、彼女を支えるわずかな神々のみ。
ところが戦いの流れは突如として変わる。
〈神々の神〉が腹心の手勢を連れ、アスフォリアに加勢したのである。
これ以降〈神々の神〉は〈神殺しの神〉と呼ばれるようになった。
戦いはアスフォリア側の勝利で終わった。
敗れた神々の一部は女神に誓いをたてて軍門に下ったが、大半は最後まで戦いぬいて大地に骸を埋めた。
戦争が集結した時、美しかった世界は無残に破壊され尽くしていた。
神々の粋を極めた文化はもはや跡形もなく、文明は大きく後退してしまった。
残った神々は世界中に散らばり、世界の復興に力を尽くした。
月日は流れ、やがて荒れ果てた大陸に神々を始祖とする七つの国が興った。
中心となったのはアスフォリア女神を始祖とする王国である。アスフォリアの王国はやがて大陸の覇者となり、アスフォリア帝国を名乗った。
……その影響力は国境を越え、今に至るまで大陸全土に及び──」
「はい、そこまででけっこうです。よくできました」
ようやくストップがかかり、ソニアは尻餅をつく勢いで椅子に座った。
「さすが準王族の一員だけのことはありますね。フィオナ、ミス・ソニアにライム水を」
いそいそとフィオナは部屋の隅に駆けてゆき、卓上に用意されていたライムとレモンで風味をつけた冷水をグラスに入れて持ってきた。
喉を湿してホッと溜息をつく。
「ま、聖神殿の敬虔な信者である準王族ならば、〈光の書〉を暗記するくらい当然のことですが。アスフォリア女神は王室の始祖、国の基となった神格ですからね」
ソニアはむくれ顔でぐっと水を飲み干した。
「今日はいつにもまして機嫌が悪いのね。でも、わたしに八つ当たりしないでほしいわ」