第16話 残さず召し上がればお話しします。

文字数 3,025文字

 暴風に巻き込まれたかのような一夜が明けた。
 粗末な寝台の上に身を起こし、ソニアは黒ずんだ梁がむき出しになった斜めの天井をぼんやりと見上げた。
 少しずつ昨日の出来事が思い出されてくる。あまりにも多くの事件が立て続けに起こり、昨夜は思考停止に陥ってしまった。
 ここはギヴェオンの知人宅だそうだが、よくも眠れたものだと我ながら思う。
 控えめなノックの音にぼんやりしたまま返事をすると、年若いメイドが洗面器と水差しを持って入ってきた。
 軽く膝を折り、微笑みを浮かべる。片隅の鏡台に洗面器を置き、開けたままの戸口に戻って廊下から差し出された包みを受け取る。黒い上着の袖口が覗いた。
「……ギヴェオン?」
「はい」
 落ち着いた声が戸口の向こうから返って来る。ソニアは急に胸が締めつけられるような感覚に襲われ、声を詰まらせた。
「お支度が整うまでお待ちします」
 ソニアは唇をふるわせ、様子を窺っていた少女に小さく頷いた。扉が閉められる。ぐっと奥歯を噛みしめ、ソニアは寝台から起き上がった。
 少女の手を借りて洗面や身支度を済ませて部屋を出ると、言葉どおり廊下でギヴェオンが待っていた。
「おはようございます、お嬢様」
 屋敷にいる時と同じ裾を短く切り詰めた短燕尾服で挨拶をされ、いつもと変わらぬ日常が始まるような錯覚に捕らわれる。ギヴェオンはしげしげとソニアの身なりを眺めた。
「サイズは合っているようですが、丈が少し短いかな……」
 ソニアはギヴェオンが買ってきた古着を着ていた。昼用の外出着で、状態は悪くない。生地や仕立てもしっかりしており、裕福な家庭から出されたもののようだ。
「これくらいなら別にかまわないわ。動きやすいし」
「靴はいかがです?」
「大丈夫、ぴったりよ」
 ソニアは裾を摘み、確かめるように足を動かした。やわらかな革のブーツもやはり中古品だが履き古されたものではなかった。
 かかとはわずかしか減っていないし、ぴかぴかに磨き上げられて編み上げのリボンはほぼ新品。わずかな時間によく調達できたものだ。
 ギヴェオンに導かれ、階段を一階分降りて小さな部屋に入った。すでに朝食の用意が整っていて、ティムが控えている。炎にあたった赤らみは頬から消えていたが、目が腫れぼったいのはよく眠れなかったせいだろう。
 今になってソニアは、自分が昨夜は夢も見ずに熟睡したのだと気付いて、呆れたような哀しいような気分になった。
「……食べたくないわ」
 ソニアは運ばれてきたベーコンと卵料理の皿から目を背けた。ギヴェオンは構わず丸パンの盛られた籠とオレンジ果汁のグラスをテーブルに置いた。
「今朝早く、お屋敷の様子を見て参りました」
 天気の話でもするように、のんびりと彼は言った。ソニアはハッと顔を上げた。太い黒縁眼鏡に遮られた蒼い瞳には何の含みもなく、ただ穏やかに凪いでいる。
「……どうだったの」
「訊きたいですか?」
「もちろんよ!」
「では先にお食事を。残さず召し上がればお話しします」
 ソニアは眉をつり上げたがギヴェオンは平然としている。
「先に話して」
「お食事が先です」
 穏やかな口調ながら、ギヴェオンには一歩も譲る気配はない。
 ソニアは唇を噛んだ。悔しいが、軍に連行されるという不名誉から救ってくれたのはこの男だ。
 あの時はショックで茫然自失状態に陥ってしまってそこまで気が回らなかったが、準王族たる公爵令嬢が特務隊に拘束されたなどと知られたら社交界に顔を出せなくなってしまう。
「……食べればいいんでしょ」
 拗ねたように呟き、ソニアはナイフとフォークを掴んだ。ギヴェオンは軽く会釈して戸口脇に控えている少年に向き直った。
「ティム。ここはいいから階下へ行って何か食べて来なさい。しばらくしたら珈琲を持ってくるように」
「は、はい。ギヴェオンさん」
 頷いた少年はそそくさとお辞儀をして出て行った。ソニアは出された料理を黙々と口に運んだ。食べているうちに突然涙が噴き出してくる。
「う……、ふっ……」
 堪えきれなくなって、ナイフとフォークを握りしめた。ぱたぱたと涙がテーブルクロスの上に落ちた。
 そっと新しいナプキンが差し出される。ソニアはナプキンに顔を埋めてひとしきり泣いた。やっと嗚咽が収まってくると、宙ぶらりんだった気持ちが幾分か落ち着いた。
 ソニアはぬれた目許を丁寧に拭い、ゆっくりと食事を再開した。
 皿が空になって一息つくと、見計らったようにドアがノックされた。応対したギヴェオンが珈琲ポットやカップの載った盆を運んできてテーブルに置く。
 空いた皿を下げると、彼は珈琲とミルクをカップに注いでソニアの前に置いた。
 熱い珈琲は新鮮なミルクが加わってちょうどよい飲み加減になっていた。ミルクの割合も文句ない。
 働き始めてまだ数日しか経っていないのに、ギヴェオンは衣食住にわたるソニアの好みをしっかり把握しているようだ。
 卵料理は最初からほどよく胡椒が効いていたし、急いで用意されたはずの着替えもサイズばかりでなく色合いやデザインまでソニアの趣味に沿ったものだ。
 のほほんとして一見頼りなさそうな印象なのに、仕事は徹底している。ソニアは改めて感心するとともに彼に対して敬意を抱いた。
 父もよく言っていた。己のやるべきことを手を抜かずにきちんと成し遂げている人というのは意外と少ないのだと。
 そういう人には身分がどうであろうと相応の敬意を払うべきだ。ましてや自分がそういう人を使う立場であるならば、いつも感謝の気持ちを忘れてはいけない、と……。
 つん、と鼻の奥が痛くなる。ソニアは眉根をきつく寄せて堪え、ゆっくりと珈琲を飲み干して静かに皿に戻した。
「……聞かせてくれる? お父様がどうなったのか」
「残念ながら、グィネル公爵閣下は亡くなられました。中央病院に運び込まれた時にはすでに手の施しようがなかったそうです」
 背後からギヴェオンが静穏な声で告げた。ソニアは腿の上でぎゅっと拳を握りしめた。掌に爪が食い込み、痛みで涙が引っ込むくらいに。
「屋敷は居住部分の三分の二が焼けました。厩や車庫は無事です。貴重品を運び出す際に軽い火傷を負った者はいますが、使用人に死者や重傷者は出ませんでした」
 ホッと息をついたのもつかのま、次のギヴェオンの言葉にふたたび顔がこわばる。
「火事の原因と旦那様を殺害した犯人について、警察が調べています」
「……本当にエリックがお父様を殺したの?」
「状況としてはそのように見えます。ただし、ティムはエリックが旦那様を撃つ瞬間を目撃したわけではありませんし、銃声も聞いてはいません」
「でも、真っ青な顔で逃げたんでしょ。疚しいことがないならどうして逃げたりするの」
「警察もエリックの行方を追っています。他の使用人にも姿を目撃されていますから」
 ソニアの興奮をなだめるようにやんわりとギヴェオンは言った。
「……お兄様は?」
「わかりません。特務が探しているようですが」
「あなたは、どこまで知っているの?」
「ヒューバート様のことで、ですか? 何やら反政府的な活動に関わっていらしたようですね。昨夜の騒ぎで兵士たちの会話からそのようなことを小耳に挟みました」
 涼しげに微笑む従僕を、ソニアは険しい顔で睨みつけた。
「わたしもその一味だと思ってる?」
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