第17話 お給料もまだもらってません。

文字数 2,978文字

「そうなのですか?」
「違うわよっ」
「ならば私はお嬢様の言葉を信じます」
 あっさり言われ、ソニアは却ってたじろいだ。
「だけど特務はわたしも一味だと思ってるのよ。わたしにくっついてるとあなたまで目をつけられるわ」
「私はお嬢様付の従僕ですから、仕事をまっとうしたいと思います。勤めて六日目だし、お給料もまだもらってません」
 台詞の前半にはちょっと感激したが、後半にがくっと来る。じとっと半眼でソニアは黒縁眼鏡の青年を睨んだ。
「そういえば、この服とか靴とか、お金はどうしたの?」
 古着とはいえ状態からしてそう安い買い物ではなかったはずだ。
「お嬢様のために自腹を切りました──というのは真っ赤な嘘で、フィオナさんから財布を預かっていたんです。元を正せばお嬢様のお金ですからご心配なく」
「……それ持って逃げようとか考えなかったの?」
「お嬢様、持ち逃げは犯罪です」
「知ってるわよっ」
 真面目な顔で諭されて逆上する。
「信用できないのであれば、財布はお返ししますが?」
「い、いい。あなたに預けておくわ」
「それがよろしいでしょう。落としたりすられたりしたらいけませんから」
 今さらりと馬鹿にされたような気もするが、考えないでおこう。
「明細はつけていますからご心配なく。贅沢しなければしばらく潜伏していられます」
「潜伏って……、いやな言い方ねぇ。わたしは危ない組織とは本当に無関係なのよ」
「旦那様が亡くなられた今、一度捕まったらすぐに出られる保証はありません。反政府的な過激派との関わりを疑われている状況では、王宮が身元引受人になってくれるかどうかも怪しいものです。しばらくは身を潜めているのが得策かと。とりあえず情報を集めて善後策を練りましょう」
 ギヴェオンは改めて状況を探ってくると言って外出した。
 部屋に戻ったソニアはティムとしばらく話をして下がらせ、窓からそっと外を覗いた。
 狭い通りを挟んだ向かい側にも同じような建物が並んでいる。目印になるものが見えないので、自分が今どこにいるのか見当もつかない。
 ギヴェオンに訊いてもはっきりとは教えてくれなかった。ティムはこの家の使用人とあまり話さないようギヴェオンに命じられたことに加え、事件のショックで怯えてもおり、何もわからないようだ。
 昨夜の逃走劇で、ティムはすっかりギヴェオンを信頼してしまったらしい。気持ちはわからなくもない。
 少なくとも彼は驚くべき行動力の持ち主で、見た目からは想像もつかないほど頼れる人物、のようではある。
 ちょっと怪しいというか、謎めいたところもあって、それが否応なく興味をそそるのだ。
 ソニアにすれば信用していいのかどうか微妙な気分になるところだが、少年の目には意外と格好よく映るのかもしれない。
(ここはたぶん、四階建てね)
 向かい側を眺めてソニアは考えた。この部屋は建物の裏手に当たっていて、向かいも同様だ。見下ろした通りは馬車がやっと一台通れるくらいの狭い路地で、洗濯物を干す紐が渡されている。
 造りはしっかりしているようだから、表側は案外立派なファサードを持つ建物なのかもしれない。
 狭い部屋にいるせいか、ソニアは少し息苦しさを感じた。この部屋は屋敷のソニア専用バスルームよりも狭いくらいだ。
 こんな状況で贅沢を言うつもりはないが、何だか閉じ込められているようで気が滅入る。
(窓、開けようかな)
 風を入れれば気分もよくなるだろう。窓は胸よりも少し高い位置にある。背伸びをして留め金を外し、両開きの窓をいっぱいに押し開けた。
 吹き込んだ風は思いのほか爽やかで、額にかかる明るい栗色の髪を掻き上げながらソニアは目を細めた。
「……薔薇の匂いがするわ」
 独りごちたソニアの眼前に、赤い薔薇の花束がぬっと突き出された。窓の向こうに逆さまの顔がぶら下がり、ニィッと笑う。
「お花、買ってくれませんか、お嬢様ァ」
 反射的に飛び退こうとして足を滑らせ、尻餅をついてしまった。
 一回転して窓から飛び込んできた少年が、薔薇の花束を胸にあてて芝居がかったお辞儀をする。
 いつかの花売り娘に化けた少年だった。今日は女装はしておらず、一昔前の貴族みたいな袖の広がった上着にレースの襟飾りと袖飾りのついたシャツを着ている。
 肩の上で綺麗に切り揃えた金髪を揺らし、少年は美しく整った顔に禍々しい笑みを浮かべた。
「あなたのお墓に供える花ですよ。ぜひとも買ってもらわなきゃ」
「ど、どうしてここが……!?
 ずっと尾行られてた? まさか、そんな。
 昨夜ギヴェオンはしつこいくらい何度も念入りに周囲を確かめていたのだ。特務とは別口でも、あれだけ用心したのだからそう簡単に見つかるはずがない。
 落雷のように、ソニアの脳裏に衝撃が走った。
 昨日の兄の言葉が蘇る。夜会服に仮面の男たちに囲まれて、兄は悪びれもせず自分への襲撃を認めた。ソニアは兄に向かって言い返した。『ギヴェオンが助けてくれなかったら死んでたわよ!』と。
 ギヴェオンが、助けてくれなかったら──。
 まさか、彼が助けに来ることを兄は知っていた? いや、そうじゃない。最初から仕組まれていたのではないか? ソニアに恩を売って従僕として屋敷に潜り込むために。
(ギヴェオンは……、こいつらの仲間!?
 血の気を失ったソニアの顔を、少年はうっとりと眺めた。
「ああ、いいな。その絶望顔。とっても素敵だよ。ジャムジェムは人間のそういう顔を見るのが大好きなんだ。もっと見せてよ、お嬢様。ジャムジェムにいい顔見せてくれたら、ほんのちょっぴりだけど長生きさせてあげてもいいよ」
 ジャムジェムというのは少年の名前だろうか。興奮に瞳をきらめかせると、少年の顔はさらに禍々しく艶めいた。
 ドンドンと外からドアが叩かれ、ティムが叫ぶ。
「お嬢様? どうかなさいましたか」
 鍵のかかっていなかったドアが返事を待たずに開いた。ジャムジェムの袖口に、きらりと光るものが覗く。
 警告を発する暇もなく、少年の両手から細身の刃が放たれた。それはティムの頭上ギリギリを通過した。ティムが大人の体格だったら間違いなく胸か首に突き刺さっていただろう。
 ソニアは身体を反転させ、茫然と突っ立っているティムに体当たりする勢いで廊下に飛び出した。
 倒れた視界にこちらへ向かって跳躍する少年の姿が映る。反射的にソニアは壁に当たって跳ね返ってきたドアを思いっきりブーツの踵で蹴った。
 勢いよく閉まったドアの向こうから「ぎゃふっ」と叫び声が上がる。
 ソニアは一瞬もがいて起き上がり、ティムの手を引いて転げ落ちるような勢いで階段を駆け降りた。
「なっ、何です、あいつは!?
「殺し屋よ! とにかく逃げなきゃ」
 どうにか踏み外さずに階段を下ると、ソニアは手近なドアから外に飛び出した。
 凄まじい騒音に何事かと顔を出した建物の住民が、鼻を押さえて駆け降りてきた派手な格好の少年に目を丸くする。
 よほど鼻を強打したのか、少年は涙目で上着の内側から拳銃を取り出した。住民の悲鳴と銃声が重なる。
 弾はソニアの影をかすめてドアに当たった。
「クソ女ぁっ、ジャムジェムの鼻が曲がったらどうしてくれるっ!?
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