第10話 沼に嵌まったら抜けるのは大変です。

文字数 3,262文字

 きらめくシャンデリアの灯が、ソニアの耳朶を飾るダイヤモンドのイヤリングに反射する。振り向いたソニアは、悩ましげに眉根を寄せるナイジェルを見つめた。
「お兄様の様子がおかしい? それ、どういうこと」
 ふたりは開放されたテラスの隅にいた。室内は照明の放つ熱と人いきれでかなり暑くなっており、テラスを吹き抜ける初夏の夜風が心地よい。
 互いの近況を報告しつつ冷肉やゼリー寄せなどを軽く摘んで大広間に行くと、ちょうどダンスが入れ代わるところだった。礼儀正しく申し込まれ、内心では狂喜しながらあくまで楚々と頷く。音楽に合わせてくるくる回りながらソニアは夢見心地だった。
 ナイジェルに初めて出会ったのは、兄が大学に入った年の冬だ。年末年始の休暇を一緒に過ごそうと誘い、兄が領地の屋敷へ連れてきた。
 今思えば、ほとんど一目惚れだった。挨拶を交わした瞬間、今まで経験したこともないくらい胸が高鳴り、頬が熱くなった。当時まだ社交界に出ていなかったソニアにとって、兄以外の若い紳士で親しく言葉を交わしたのはナイジェルが初めてだった。
 その時は緊張しただけだと思っていたが、社交界デビューして青年貴族たちと話をする機会が増えても、そういう反応が出るのはナイジェルだけだった。去年の冬、三回目に彼に会って、自分は彼が好きなのだとようやくソニアは自覚した。
 ヒューバートはソニアと同じく、よく言えば活発、悪く言えば騒がしいのに対し、ナイジェルは落ち着いて寡黙な青年だった。いつも穏やかに微笑んでいるが、必要があればかなり厳しいことも言う。少し軽はずみなところのある兄にとってはいいお目付役だ。
 ナイジェルは古い伯爵家の出身で、幼い頃に家族を亡くしており、成人するまでずっと後見人がついていた。法定年齢に達して自由を得ても箍が外れることはなく、淡々と勉学に励んでいる。そんな慎重で理性的なナイジェルから兄の様子がおかしいなどと聞いてはとても聞き流せない。ソニアは室内の人込みを見回したが、兄の姿はなかった。
「──お兄様がどうしたって言うの」
「前回ヒューバートと会ったのはいつだっけ?」
「お正月よ。春先の休暇は、お友だちの領地に誘われてるとかで戻って来なかったわ」
 ナイジェルと会うのもその時以来だ。家族のいない彼は長期休暇でも領地へはあまり戻らず、ここ二年はソニアたちと過ごした。グィネル公爵家では夫人が亡くなっていて家族の数が少なく、他家より気兼ねなく過ごせるらしい。
「久しぶりに会って、何か変だなって思わなかった?」
「そうね……、お気に入りだった従者をいきなりクビにしたことには驚いたわ」
「ああ、あれには僕も驚いた。数日会わないでいて、訪ねたら新しい従者が応対に出て」
「オージアスでしょ。すごく洗練されてて有能そうだけど、何だか冷たい感じがする。わたし、あんまり好きじゃないわ。エリックが鬱陶しくなったからクビにしたそうだけど」
 そのことを尋ねた時の、兄の異様な反応が思い出され、ソニアはぞくりとした。
「……お兄様、エリックが悪いんだって繰り返してた。そういうのってお兄様らしくないと思うの。今まで一度だってそんなふうにエリックを責めたことなかったのに……」
「案外、本心だったのかもしれないな。──ヒューは半年くらい前、とあるクラブに入ったんだ。ロイザには大小様々な規模の学生クラブがあってね。趣味の同好会から政治議論をするところ、哲学・宗教関係、真面目なものからふざけたものまで色々だ。その中に、〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉と名乗るちょっと変わったクラブがある」
「〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉? 哲学サークルか何か?」
「失われた文明の研究団体と謳っている。〈世界継承戦争〉で失われた神々の知識や技術を研究しているそうだ。元々は考古学好きの学生が集まって各地に点在する遺跡の探検や発掘をしてたらしいんだが、いつのまにか妙に秘密主義になって、閉鎖的な結社みたいになった。噂によると〈神遺物(ヘレディウム)〉を見つけたとか」
「〈神遺物(ヘレディウム)!?
 思わず大声を出してしまい、慌てて口を押さえる。肩ごしに振り向いて確かめると、さいわい音楽や人声にまぎれて聞きとがめた者はいなかった。ソニアは声をひそめた。
「……それ、見つけたら遺跡管理庁に届けなければいけないのよね」
「そして研究所に回される。ものによっては非常に危険な場合もあるらしいから」
「お兄様はそんな大昔の遺跡や〈神遺物(ヘレディウム)〉になんか、特別な興味はなかったはずよ」
「本当に見つけたかどうか怪しいもんだし、おおかた人寄せの宣伝だろう。それだけなら別にどうってことはないんだが、〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉には単なる同好会ではなく政治的秘密結社、それも反政府的な結社だという噂もあってね。もし本当なら、学生が集まって気炎を上げるだけの他愛ないサークルだとしても、ヒューが参加するのは立場上非常にまずい」
 ナイジェルの心配はソニアにもよくわかった。兄が単なる貴族の御曹司であれば、学生の悪ふざけとして眉をひそめられるくらいで済むだろう。しかし兄は準王族なのだ。お遊びでもそんな団体に所属しては、良識を疑われるだけでは済まない。父にとっても大きな痛手となりかねない事態だ。
「そのクラブにヒューが入ったきっかけがエリックにあるみたいなんだ。詳しいことはよくわからないが、エリックが酒場である男と知り合って意気投合し、その男をヒューに紹介した。エストウィック卿と言って、触れ込みではレヴェリアの貴族だそうだが、実のところは正体不明だ。そのエストウィック卿がくだんの〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉の現在の主催者で、ヒューを結社に引き入れた。いい噂を聞かないから早く抜けるように、僕も何度か言ったんだけど、エリックと一緒に嵌まっちゃったみたいで……。でもヒューはエリックと口論になってクビにしただろう? だからてっきり結社とは縁を切ったと思っていたのに」
 悔しそうにナイジェルは顔をしかめた。
「〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉は学生クラブなんでしょ?」
「認められれば学生じゃなくても入れるんだよ。資金を提供するバックがついてるクラブは他にもたくさんある。エストウィック卿は某大学教授の家に客人として滞在していた」
「していた、ってことは今は違うのね」
「居場所はわかってる。──ここだよ。この城をハル男爵から借りたのはエストウィック卿なんだ。今夜のパーティーの主催者は彼、エストウィック卿だ」
 背筋がぞっと冷えた。何か途方もないことの渦中にいるのだとソニアはやっと気付いた。
「……あなたはどうしてここにいるの? まさかあなたも〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉のメンバー?」
「違うよ。僕は以前エストウィック卿とちょっとした意見の食い違いから議論になって、以来彼には嫌われてるんだ」
「なのに招待されたの?」
「招待状は買えるんだよ。このパーティーで主人が選んだ招待客なんかほんの一握りさ。後は金で招待状を買った一般客だ」
 だからこんなに人が多いのか……。どうも盛況というより雑然としていると思ったら。アステルリーズには富裕な市民層も多いが、爵位を持たない一般人はどれほど裕福であろうと特別な縁故でもない限り貴族の社交界からは締め出されている。こういう古城など由緒ある建物はほとんどが貴族層の持ち物だから、城で開かれるパーティーに出席できるなら高額な招待状でも買いたがる人は多いだろう。
「資金集めってことなのね」
「そう。〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉のための──いや、それならまだいい。もしかすると、もっととんでもない組織のための資金集めかもしれない」
「とんでもない組織? 何なのそれは」
「きみも聞いたことがあるんじゃないかな。〈月光騎士団(ルーメン・ルーナエ)〉なる過激な結社のこと」
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