第4話 お代は命でいただきます。
文字数 3,462文字
翌日は久しぶりの雨だった。
「……少し小降りになったんじゃない?」
窓の外を眺めてそろりと言ってみると、フィオナはキッと目をつり上げた。
「いいえっ、ざあざあ降りです。外出は禁止です。今朝も旦那様に念を押されました。お嬢様がこっそり抜け出さないよう、くれぐれも気をつけるようにと」
「過保護だわ。ちょっとその辺を馬車で回るくらい……」
「お嬢様の活発なご気性はわたしも承知しております。でも、今は本当に時期がうまくありません。建国祭が終わるまではどうぞご辛抱を」
「今年はただの建国記念祭じゃないわ。千年に一度の千年祭なのよ! 屋敷に閉じこもってたら記念行事にも出られないじゃないのっ」
「皇妃様主催の園遊会に招待されているでしょう。あれは出席してよいと旦那様がおっしゃっていましたよ」
「そりゃあ皇妃様のご招待だもの。断るわけにはいかないわ」
「皇帝陛下もお出ましになられるのでしょうか」
「どうかしら。皇帝陛下は内気な御方だから……。顔見せ程度にはいらっしゃるかもね」
「わたし、皇妃様のことを思うと今でも何だかおいたわしくなりますわ」
ソニアは眉根を寄せて頷いた。
アスフォリア帝国皇妃オフィーリアは現在二十三歳。隣国の王女であったひとだ。
胸を衝かれるような儚げな美貌で、ほっそりと華奢な身体つきから受ける印象そのもののたおやめである。
元々は現在の皇帝の兄の婚約者であった。しかし帝都に到着した姫君を待っていたのは婚約者の死の知らせ──。
結局彼女はそのまま宮廷に留まり、急死した皇帝の後を継いだ弟の妃となったのだ。
「先月も体調を崩されて、しばらく静養なさっていたのよね。本当は園遊会どころじゃないんでしょうけど、建国祭の恒例行事だから中止するわけにもいかないんだわ。あの冷血宰相がそんなこと許すはずないもの。何としても王室の健在ぶりを見せつけたいのよ」
園遊会には帝都に駐在している外交官夫人も招かれるのだ。
二代続けて国王が急死した辺りから、アスフォリア帝国は勢力が衰えたと見做されるようになった。
二十年前、北方の国境紛争で思わぬ苦戦を強いられて多大な犠牲を払ったことも、未だに尾を引いている。
これまでアスフォリア帝国を大陸の覇者として周囲の六王国が認めてきたのは、女神アスフォリアの特別な加護を受けた国だという認識があればこそだ。
女神の加護が薄れたのではないかとの噂は少しずつ信憑性を増しながら大陸全土を席巻しつつある。
帝国の政務を実質的に把握している宰相ヴィルヘルムは、建国千年祭をそんな憂慮を吹き飛ばすための絶好の機会と捉えている。
「そういう時に貴族が狙い撃ちにされたんじゃ、洒落にならないわよねぇ」
「外出を控えるようにと言われても、正式に招待されている園遊会や舞踏会、晩餐会なんかには行けるんだからいいじゃありませんか」
「全部室内か、せいぜいお庭よ。それに、社交辞令ばかりのつっまんない会話。ちっとも息抜きにならないわ。ねぇ、フィオナ。雨が降ってるってことは視界が悪いってことよね」
イヤな予感にフィオナは眉をひそめる。
ソニアは無邪気ににっこりとした。
「雨の日はみんな家に閉じこもっているもの。テロリストだってお休みなんじゃないかしら。出かけるとしてもガラス天井つきのアーケード街だわ。公園には絶対誰もいない」
ね? と小首を傾げて微笑まれ、フィオナは肩を落とした。結局フィオナは、ソニアのこの笑顔にとても弱いのだった。
口うるさい執事に気付かれないようにこっそりと馬車を用意させ、ソニアはフィオナを連れて屋敷を抜け出した。
馬車で十分ほど行ったところにある公園の周囲をぐるりと一回りしたら帰るつもりだ。父の心配もわかるが、ちょっとばかり息抜きがしたい。
ゆっくりと馬車を走らせながら公園の景色を眺めていると、ふと道端に立っている人影に気付いた。
ひょろりと背の高い男だ。
なんとなくくたびれた感のある帽子が、頭の上で傾いでいる。
雨にぬれて重そうなケープつきの黒いコート。
何故か傘をたたんだまま腕にひっかけ、足元に古ぼけたトランクを置いて、手に何か小さな紙切れを持って辺りをきょろきょろ見回している。
建国祭の見物に来た観光客だろう。
(ホテルを探してるのかしら……)
目抜き通りに軒を連ねる超高級ホテルほどではないが、この周囲にも公園を借景にした瀟洒なホテルがいくつもある。
馬車が前にさしかかると、車輪の音に男はふと顔を上げた。
窓の雨垂れでよく見えなかったが、やけに頑丈そうな黒縁眼鏡をしていることだけは見て取れた。
通りすぎて何となく振り返ると、小さな影が男の前をさっと走り抜けるのが見えた。
薄汚れた格好の子どもが、男の足元にあったトランクを通り抜けざま引っ掴む。
車輪の音にまぎれ、男が「ああ!?」と間抜けな悲鳴を上げたのが聞こえた。
思ったよりもずっと若そうな声だった。
「ま、待って! そんなもの持っていっても何にもなりませんよーっ」
男は手にしていた紙切れを放り出し、慌てて子どもの後を追いかけ始めた。
「いやですね、こんなところにまで……。やっぱり建国祭の影響かしら。お上りさんを狙って掏摸やひったくりが横行してるって聞いたけど、本当なんですね」
後ろの窓から窺っていたフィオナが嘆かわしげに首を振る。
ソニアは窓ガラス越しに空を見上げた。
いくらか明るくなった気がする。雨の勢いもさっきより静かだ。
「……ねぇ、フィオナ。公園の中を歩きたいわ。少しでいいの」
「何をおっしゃるんですか! ああいう連中がまだいるかもしれません」
「噴水のある広場をぐるっと回るだけでいいのよ。ほら、そこの入り口から入ってすぐの場所。馬車からそんなに離れるわけじゃないんだし、門の側には守衛もいるわ」
「仕方ありませんねぇ……。本当に噴水の周りだけですよ」
フィオナは小窓を開け、公園の入り口で馬車を止めるよう御者に指示した。
ソニアはさっそく馬車を降りると傘をさし、深呼吸をした。
「ああ、素敵。わたし、雨の匂いって大好きよ。特に春の雨はいいわ。若葉の青っぽい匂いとうっすら甘い花の香りが絶妙に入り交じって、何ともいえない気分になる」
先端に鏃のついた黒い鋳鉄製のアーチ型の門が、半分だけ開いている。
守衛小屋の窓から顔見知りの老人が会釈した。ソニアはブーツのかかとを弾ませて歩いた。
噴水広場は門を入って短い小道を歩けばすぐそこだ。
円形の広場の真ん中には巨大な六芒星型の噴水があった。
真ん中には岩に腰掛けるアスフォリア女神の像が置かれ、戯れる水の精霊たちの彫刻が周りを囲んでいる。
ソニアは足を止め、軽く首を傾げた。
「……やっぱり雨だといまいち映えないわねぇ。女神様も何だか憂鬱そう」
「雨の日に噴水を眺めても仕方ありませんわ。さ、もうお気は済みましたか」
「一回りしたらおとなしく帰るわよ」
溜息をつくフィオナを従えて歩きだした途端、にわかに雨足が強くなる。
傘に当たる雨粒の音に、ソニアは眉をひそめた。
「馬車に戻るまで待ってくれたっていいのに……」
意地でも一周しようとソニアはずんずん歩きだした。
そこへ、反対側から花売り娘が近づいてきた。目深に被ったフードの端からぽたぽたと雫が滴っている。
いつもここには小さな花束を売る少女がいて、散歩の客がたくさんいる晴れた日にはけっこうはけるのだが、今日はほとんどが籠に残ったままだ。
「お花はいかがですか、お嬢様。森で摘んできた鈴蘭はいかが」
少女はかすれた声で鈴蘭の花束を差し出してくる。ソニアは受け取った花束を鼻にあてた。雨にぬれた香りが清々しい。
「全部いただくわ」
ソニアは雨に打たれた少女が気の毒になって言った。
五月とはいえ傘もささずにいたら風邪をひいてしまう。それに今日は公園を訪れる人も少ないだろう。
少女は声を弾ませた。
「ありがとうございます、お嬢様」
「籠ごともらうわね。いかほどかしら」
少女から受け取った籠をフィオナに持たせ、ソニアは持っていたポーチから財布を取り出そうとした。
少女は奇妙な含み笑いをして首を振った。
「お代はいりません。お嬢様、あなたの命でお支払い願います……」
いつのまにか、少女の手に鋭い短剣が握られている。それはまっすぐにソニアの喉笛を狙っていた。
「……少し小降りになったんじゃない?」
窓の外を眺めてそろりと言ってみると、フィオナはキッと目をつり上げた。
「いいえっ、ざあざあ降りです。外出は禁止です。今朝も旦那様に念を押されました。お嬢様がこっそり抜け出さないよう、くれぐれも気をつけるようにと」
「過保護だわ。ちょっとその辺を馬車で回るくらい……」
「お嬢様の活発なご気性はわたしも承知しております。でも、今は本当に時期がうまくありません。建国祭が終わるまではどうぞご辛抱を」
「今年はただの建国記念祭じゃないわ。千年に一度の千年祭なのよ! 屋敷に閉じこもってたら記念行事にも出られないじゃないのっ」
「皇妃様主催の園遊会に招待されているでしょう。あれは出席してよいと旦那様がおっしゃっていましたよ」
「そりゃあ皇妃様のご招待だもの。断るわけにはいかないわ」
「皇帝陛下もお出ましになられるのでしょうか」
「どうかしら。皇帝陛下は内気な御方だから……。顔見せ程度にはいらっしゃるかもね」
「わたし、皇妃様のことを思うと今でも何だかおいたわしくなりますわ」
ソニアは眉根を寄せて頷いた。
アスフォリア帝国皇妃オフィーリアは現在二十三歳。隣国の王女であったひとだ。
胸を衝かれるような儚げな美貌で、ほっそりと華奢な身体つきから受ける印象そのもののたおやめである。
元々は現在の皇帝の兄の婚約者であった。しかし帝都に到着した姫君を待っていたのは婚約者の死の知らせ──。
結局彼女はそのまま宮廷に留まり、急死した皇帝の後を継いだ弟の妃となったのだ。
「先月も体調を崩されて、しばらく静養なさっていたのよね。本当は園遊会どころじゃないんでしょうけど、建国祭の恒例行事だから中止するわけにもいかないんだわ。あの冷血宰相がそんなこと許すはずないもの。何としても王室の健在ぶりを見せつけたいのよ」
園遊会には帝都に駐在している外交官夫人も招かれるのだ。
二代続けて国王が急死した辺りから、アスフォリア帝国は勢力が衰えたと見做されるようになった。
二十年前、北方の国境紛争で思わぬ苦戦を強いられて多大な犠牲を払ったことも、未だに尾を引いている。
これまでアスフォリア帝国を大陸の覇者として周囲の六王国が認めてきたのは、女神アスフォリアの特別な加護を受けた国だという認識があればこそだ。
女神の加護が薄れたのではないかとの噂は少しずつ信憑性を増しながら大陸全土を席巻しつつある。
帝国の政務を実質的に把握している宰相ヴィルヘルムは、建国千年祭をそんな憂慮を吹き飛ばすための絶好の機会と捉えている。
「そういう時に貴族が狙い撃ちにされたんじゃ、洒落にならないわよねぇ」
「外出を控えるようにと言われても、正式に招待されている園遊会や舞踏会、晩餐会なんかには行けるんだからいいじゃありませんか」
「全部室内か、せいぜいお庭よ。それに、社交辞令ばかりのつっまんない会話。ちっとも息抜きにならないわ。ねぇ、フィオナ。雨が降ってるってことは視界が悪いってことよね」
イヤな予感にフィオナは眉をひそめる。
ソニアは無邪気ににっこりとした。
「雨の日はみんな家に閉じこもっているもの。テロリストだってお休みなんじゃないかしら。出かけるとしてもガラス天井つきのアーケード街だわ。公園には絶対誰もいない」
ね? と小首を傾げて微笑まれ、フィオナは肩を落とした。結局フィオナは、ソニアのこの笑顔にとても弱いのだった。
口うるさい執事に気付かれないようにこっそりと馬車を用意させ、ソニアはフィオナを連れて屋敷を抜け出した。
馬車で十分ほど行ったところにある公園の周囲をぐるりと一回りしたら帰るつもりだ。父の心配もわかるが、ちょっとばかり息抜きがしたい。
ゆっくりと馬車を走らせながら公園の景色を眺めていると、ふと道端に立っている人影に気付いた。
ひょろりと背の高い男だ。
なんとなくくたびれた感のある帽子が、頭の上で傾いでいる。
雨にぬれて重そうなケープつきの黒いコート。
何故か傘をたたんだまま腕にひっかけ、足元に古ぼけたトランクを置いて、手に何か小さな紙切れを持って辺りをきょろきょろ見回している。
建国祭の見物に来た観光客だろう。
(ホテルを探してるのかしら……)
目抜き通りに軒を連ねる超高級ホテルほどではないが、この周囲にも公園を借景にした瀟洒なホテルがいくつもある。
馬車が前にさしかかると、車輪の音に男はふと顔を上げた。
窓の雨垂れでよく見えなかったが、やけに頑丈そうな黒縁眼鏡をしていることだけは見て取れた。
通りすぎて何となく振り返ると、小さな影が男の前をさっと走り抜けるのが見えた。
薄汚れた格好の子どもが、男の足元にあったトランクを通り抜けざま引っ掴む。
車輪の音にまぎれ、男が「ああ!?」と間抜けな悲鳴を上げたのが聞こえた。
思ったよりもずっと若そうな声だった。
「ま、待って! そんなもの持っていっても何にもなりませんよーっ」
男は手にしていた紙切れを放り出し、慌てて子どもの後を追いかけ始めた。
「いやですね、こんなところにまで……。やっぱり建国祭の影響かしら。お上りさんを狙って掏摸やひったくりが横行してるって聞いたけど、本当なんですね」
後ろの窓から窺っていたフィオナが嘆かわしげに首を振る。
ソニアは窓ガラス越しに空を見上げた。
いくらか明るくなった気がする。雨の勢いもさっきより静かだ。
「……ねぇ、フィオナ。公園の中を歩きたいわ。少しでいいの」
「何をおっしゃるんですか! ああいう連中がまだいるかもしれません」
「噴水のある広場をぐるっと回るだけでいいのよ。ほら、そこの入り口から入ってすぐの場所。馬車からそんなに離れるわけじゃないんだし、門の側には守衛もいるわ」
「仕方ありませんねぇ……。本当に噴水の周りだけですよ」
フィオナは小窓を開け、公園の入り口で馬車を止めるよう御者に指示した。
ソニアはさっそく馬車を降りると傘をさし、深呼吸をした。
「ああ、素敵。わたし、雨の匂いって大好きよ。特に春の雨はいいわ。若葉の青っぽい匂いとうっすら甘い花の香りが絶妙に入り交じって、何ともいえない気分になる」
先端に鏃のついた黒い鋳鉄製のアーチ型の門が、半分だけ開いている。
守衛小屋の窓から顔見知りの老人が会釈した。ソニアはブーツのかかとを弾ませて歩いた。
噴水広場は門を入って短い小道を歩けばすぐそこだ。
円形の広場の真ん中には巨大な六芒星型の噴水があった。
真ん中には岩に腰掛けるアスフォリア女神の像が置かれ、戯れる水の精霊たちの彫刻が周りを囲んでいる。
ソニアは足を止め、軽く首を傾げた。
「……やっぱり雨だといまいち映えないわねぇ。女神様も何だか憂鬱そう」
「雨の日に噴水を眺めても仕方ありませんわ。さ、もうお気は済みましたか」
「一回りしたらおとなしく帰るわよ」
溜息をつくフィオナを従えて歩きだした途端、にわかに雨足が強くなる。
傘に当たる雨粒の音に、ソニアは眉をひそめた。
「馬車に戻るまで待ってくれたっていいのに……」
意地でも一周しようとソニアはずんずん歩きだした。
そこへ、反対側から花売り娘が近づいてきた。目深に被ったフードの端からぽたぽたと雫が滴っている。
いつもここには小さな花束を売る少女がいて、散歩の客がたくさんいる晴れた日にはけっこうはけるのだが、今日はほとんどが籠に残ったままだ。
「お花はいかがですか、お嬢様。森で摘んできた鈴蘭はいかが」
少女はかすれた声で鈴蘭の花束を差し出してくる。ソニアは受け取った花束を鼻にあてた。雨にぬれた香りが清々しい。
「全部いただくわ」
ソニアは雨に打たれた少女が気の毒になって言った。
五月とはいえ傘もささずにいたら風邪をひいてしまう。それに今日は公園を訪れる人も少ないだろう。
少女は声を弾ませた。
「ありがとうございます、お嬢様」
「籠ごともらうわね。いかほどかしら」
少女から受け取った籠をフィオナに持たせ、ソニアは持っていたポーチから財布を取り出そうとした。
少女は奇妙な含み笑いをして首を振った。
「お代はいりません。お嬢様、あなたの命でお支払い願います……」
いつのまにか、少女の手に鋭い短剣が握られている。それはまっすぐにソニアの喉笛を狙っていた。