第19話 いやな夢でもご覧になりましたか?

文字数 2,949文字

 ……懐かしい夢を見ていた。
 自分は今よりもさらに小さくて無力で、誰にも顧みられず、不安でたまらなかった。そんな自分の前に現れた銀青色の髪をした青年は、床に膝をついて視線を合わせ、ハッとするほど鮮やかな青い瞳で優しく微笑んだ。
 彼は自分の世話係として配属された。年齢は憧れの兄と同じくらい。
 でも兄のように近寄りがたくはなかった。兄のように自分を軽視しなかった。優しくて面白くて、すぐに大好きになった。灰色だった毎日が楽しくなった。
 遊び相手として連れて来られる貴族の子弟の前だと緊張してふつうに喋ることさえできないのに、彼が相手だとするする言葉が出た。
 大声を上げることも、はしゃぐことも、笑うこともできた。そして、泣くことも。
 ずっと側にいてくれると思ったのに、一年ほど経つと彼は去っていった。急な事故で兄が亡くなり、不安でたまらない時期だった。自分に対する周囲の扱いが突然変わり、彼がお役御免になったのもそのせいなのだとわかっていた。
 自分にはどうすることもできなかった。人々の態度がやけにうやうやしくなっても、結局何ひとつ自分では決められない。彼は去り、ふたたび毎日は灰色になった。
 時折、彼を夢に見た。
 彼はかつて自分に仕えていた時のように、誰かの世話をしていた。自分といた時と同じように笑っているのが寂しくて、彼を身近に置いている雇い主が妬ましかった。
 そんな夢から覚めるとひどい癇癪を起こし、世話係を難儀させるのが常だった。
 でも、今日は違っていた。廃墟のような遺跡のような奇妙な場所で、彼は必死で何かをしている。その姿形さえいつもとはずいぶん違って見えた。
 異形の姿でも彼だとわかったし、怖いとも思わなかった。ただ、彼がとても困っていることを感じてやきもきした。
 彼を助けたい。彼がいつも自分を助けてくれたように。
 でもどうすればいいんだろう。このままだと大変なことになる、と彼は考えている。何がどう大変になるのか全然わからないけど、彼が焦って追い詰められていることだけは理解できた。
 どうすればいいんだろう。
 どうしたら彼を助けてあげられる?
 どうしたら──。
「……陛下。陛下」
 優しい声に促され、アスフォリア皇帝シギスムント三世は目を開いた。
 優しく臈たけた女性が、かすかに眉を寄せて自分を見下ろしている。シギスムントはかすれ声で囁いた。
「姉上……」
 微笑んだ女性が後ろに控えた侍女からタオルを受け取り、寝汗で湿ったシギスムントの額をそっと撫でるように押さえた。
 冷たいぬれタオルの感触が心地よくて、少年はホッと息をついた。寝台の中でもがくように起き上がると、繊細な指が乱れた髪を梳いてくれる。
「ひどくうなされておいででしたわ。いやな夢でもご覧になりましたか」
 シギスムントは考え込んだ。悪夢ではない。だが、とても気になる夢ではあった。ふるっと頼りなく首を振ると、美女はあやすように微笑んだ。
「お庭でお茶はいかがですか。陛下の好きなお菓子も用意しました」
「はい、姉上」
 口にしてからハッと気づき、慌てて周囲を見回す。くすりと美女が笑った。
「大丈夫ですわ。口うるさい侍従は外に控えておりますゆえ」
 いたずらっぽい言い方に、シギスムントは照れ笑いを浮かべた。
 彼女のことを姉上と呼ぶたびに、侍従はシギスムントを睨んでいちいち訂正するのだ。『皇妃、もしくはお名前でお呼びなさいませ』と。
 わかってはいるが、最初彼女は自分の『姉』となるべく現れたのだ。
 彼女の微笑みがとても優しくて美しくて、それがあまりに嬉しかったから、強く心に刻まれてしまった。周りに人がいる時は気をつけているが、ふとした時にほろりとこぼれてしまう。
「さ、お召し替えをいたしましょう。わたくしがお手伝いいたします」
 にこりと微笑んだ表情は、まさに年の離れた可愛い弟を見るような慈愛にあふれていた。
 宮殿の奥まった内庭にはすでにテーブルや椅子がセットされていた。建物に囲まれた庭から見上げた空は雲ひとつない快晴だ。
 この時期、アステルリーズは一年でいちばん美しい季節を迎えていた。庭には薔薇を始め色とりどりの花が次々に開花する。
 シギスムントは皇妃が手ずから紅茶を注いでくれる姿を眺め、またしても申し訳ない気分を味わった。
 シギスムントの妃であるオフィーリアは現在二十三歳。夫より十二歳も年上だ。彼女は六王国のひとつヴァルレインの王女だった。元々は兄である先代皇帝ジーグフリード二世の妃となるべく、三年半ほど前に輿入れしてきた。
 病死した父の後を継いだジーグフリードは当時二十一歳で年齢的な釣り合いも取れていたのだが、その頃王宮はごたごた続きで婚礼は何度も延期された。
 不良行為が過ぎて宮廷から追放された先代皇帝の弟が、逆恨みから兄皇帝を毒殺したという噂が流れていたのだ。
 鳴り物入りで真相究明が行われたものの、証拠がなくて結局うやむやになってしまった。
 やっと挙式の日程が決まって許嫁を呼び寄せた途端、若き新皇帝は狩猟中の事故で急死してしまった。
 当時まだ七歳の弟シギスムントが後継者となり、母のエメライナ皇太后を摂政として急遽即位した。
 二国間で討議した結果、オフィーリアは国には戻らず、そのまま新皇帝の妃となった。
 七歳の皇帝に十九歳の妃というのは歴代皇帝夫妻の中でも年齢差が突出していたが、いずれ跡取りを儲けることも不可能ではあるまいと見做された。
 エメライナ皇太后はこの結婚に猛反対した。そもそも溺愛する長男の妃として迎えるのも不満だった。
 エメライナの母国レヴェリアはオフィーリアの母国ヴァルレインと長年にわたる確執を抱えていたのだ。
 それを宰相ヴィルヘルムが押し切った。三代にわたって皇帝を補佐する宰相には、さすがの皇太后も従わざるを得なかったのだ。
 そのエメライナも、長男の死から一年と経たぬうちに馬車の事故で亡くなった。わずか数年の間に王族の不祥事、疑わしい病死、二件の事故死が立て続けに起こり、人見知りの激しい内気な少年が大国の皇帝として立つという異常な事態になった。
 一連の死は謀殺ではないか、あるいは何かの祟りではとの噂が流れ、今でもことあるごとに蒸し返される。
 年齢的なことに加え、引っ込み思案な性格で、はきはきと自分の意見を言えないシギスムントは、実権から遠ざけられているものの、周囲の者が思い込んでいるほど馬鹿でも暗愚でもなかった。
 両親と兄の死に不穏な噂があることも、自分が不甲斐ないせいでアスフォリアの盟主としての地位が揺らいでいることも知っている。それを立て直そうと、宰相が必死になっていることも。
 ただ、だからどうすればいいのかがわからない。亡くなった兄は子どもの頃から聡明で将来を期待されていた。学問も武術も政治的なセンスも傑出していた。憧れの兄だった。
 それだけに、年齢差以上に遠い存在でもあった。
 溜息をついて湯気の立ち昇るカップをぼんやり眺めるシギスムントの横顔に、オフィーリアは愁わしげに眉根を寄せた。
「どうなさいました? さっきから溜息ばかりつかれて」
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