第29話 ゆっくりと、あなたの隣を歩くから。
文字数 1,772文字
「馬車には乗らないわって言ったの。わたしはゆっくりと、あなたの隣を歩くから……」
驚いた顔をしたナイジェルは、ソニアを見返して微笑んだ。そしてソニアの大好きな深みのある穏やかな声で囁いた。『ああ、それはとても素敵だね』……
その声が脳裏でこだますると同時に、抑えていた涙がこぼれ落ちた。ギヴェオンがそっとハンカチを差し出す。ソニアは受け取ったハンカチで目頭をぎゅっと押さえた。
「……卿がお好きだったんですね」
ソニアは無言で頷き、しばらくその場に立ち尽くした。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ」
照れ隠しのように笑い、ギヴェオンの腕を取った。
「それじゃ、どこかでお昼を食べてから帰りますか」
「いいの? アビゲイルさんに怒られるんじゃ」
「せっかくだから、ちょっと街の様子を見てみましょう。私から離れないでくださいね」
ソニアは頷き、なるべく自然に見えるように腕を絡めた。カップルを装うのが一番目立たなくていいのだ。
神殿の敷地を出ると籠を手にした中年女性がすっと近づいてきて、二つ折りになったパンフレットのようなものを差し出した。籠の中には同じものがぎっしり詰まっている。
女性は祈りの言葉らしきものを小声で呟いた。神殿から出てくる人たちに同じことをしながら向こうへ歩いていく。ギヴェオンは小さく苦笑した。
「創造主教会のパンフレットですよ。神殿の目の前で勧誘とは、堂々としたもんですね」
「あんまり効果はなさそうよ。ほら、ちらっと見ただけでみんな捨ててる」
お蔭で掃除人は大忙しだ。頭に来たのか、籠を持った人たちを箒で追い立てる者もいる。
「これも千年祭のせいかしら。前はさすがに神殿の近くにはいなかったと思うけど」
答えがない。ギヴェオンは険しい顔でパンフレットを見ていた。覗き込むと、創造主を讃える預言の書の一節が印刷された余白の部分に、走り書きの文字があった。
『侍女の命が惜しければ一時までにアッシュヴィルの廃神殿へ来い。令嬢ひとりで』
慌てて振り向いたが、女性の姿はすでに雑踏の中に消えていた。
「これってフィオナのことよね……!?」
「アッシュヴィルの廃神殿か……。南区の外れだ。老朽化して危険なので閉鎖されてる」
「は、早く行かなきゃ!」
ギヴェオンは懐中時計を確かめた。
「……あと二十分。時間がない、行きましょう」
「で、でもわたしひとりでって……」
「ひとりじゃ行かれないでしょ」
ギヴェオンはソニアをせき立て、大股に歩きだした。
その頃ブラウニーズでは、昼食の用意が整ったことを告げたダフネがぐずぐずと居残っていることに、アビゲイルが眉をひそめていた。
「どうかしたの、ダフネ」
「あ、あの……。いえ、何でもありません」
急いで退出しようとする少女を、アビゲイルは穏やかに引き止めた。
「何かあるなら遠慮なく言っていいのよ」
「その……、ユージーンさんのことなんですけど……。あたし、市場へお使いに出た時に見たんです、たまたま。ユージーンさんが、軍人さんと話してるのを」
ぴくり、とアビゲイルの柳眉が動く。
「軍人だと見てわかったということは、つまり制服を着ていたわけね?」
「はい。えっと、濃い灰色の、裾の長い上着でした」
濃い灰色は特務隊のカラーだ。裾が長い上着は将校であることを示す。特務隊の将校と言えば、とりあえず思い当たるのはソニアから聞いたハイランデルとかいう少佐だが……。
「何を話していたのか聞こえた?」
「いえ、遠かったので……。ユージーンさんはいつもみたいに愛想よく笑ってました。軍人さんの方はずっとこちらに背中を向けてたので顔はわかりません」
アビゲイルは、おどおどしているダフネににっこりと笑いかけた。
「よく話してくれたわね。これからも何か気付いたことがあれば言って」
ホッとした顔で頷き、少女は急いで礼をして部屋から出ていった。アビゲイルは椅子の背にもたれ、冷やかに呟いた。
「……特務とお喋り、ねぇ。いい度胸してるじゃないの」
机の抽斗を開け、二重底になった部分からアビゲイルは一挺の拳銃を取り出した。しげしげと眺め、ひとりごちる。
「残念、弾丸を切らしてたんだっけ」
肩をすくめて銃を戻し、とりあえず昼食にしようとアビゲイルは立ち上がった。
驚いた顔をしたナイジェルは、ソニアを見返して微笑んだ。そしてソニアの大好きな深みのある穏やかな声で囁いた。『ああ、それはとても素敵だね』……
その声が脳裏でこだますると同時に、抑えていた涙がこぼれ落ちた。ギヴェオンがそっとハンカチを差し出す。ソニアは受け取ったハンカチで目頭をぎゅっと押さえた。
「……卿がお好きだったんですね」
ソニアは無言で頷き、しばらくその場に立ち尽くした。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ」
照れ隠しのように笑い、ギヴェオンの腕を取った。
「それじゃ、どこかでお昼を食べてから帰りますか」
「いいの? アビゲイルさんに怒られるんじゃ」
「せっかくだから、ちょっと街の様子を見てみましょう。私から離れないでくださいね」
ソニアは頷き、なるべく自然に見えるように腕を絡めた。カップルを装うのが一番目立たなくていいのだ。
神殿の敷地を出ると籠を手にした中年女性がすっと近づいてきて、二つ折りになったパンフレットのようなものを差し出した。籠の中には同じものがぎっしり詰まっている。
女性は祈りの言葉らしきものを小声で呟いた。神殿から出てくる人たちに同じことをしながら向こうへ歩いていく。ギヴェオンは小さく苦笑した。
「創造主教会のパンフレットですよ。神殿の目の前で勧誘とは、堂々としたもんですね」
「あんまり効果はなさそうよ。ほら、ちらっと見ただけでみんな捨ててる」
お蔭で掃除人は大忙しだ。頭に来たのか、籠を持った人たちを箒で追い立てる者もいる。
「これも千年祭のせいかしら。前はさすがに神殿の近くにはいなかったと思うけど」
答えがない。ギヴェオンは険しい顔でパンフレットを見ていた。覗き込むと、創造主を讃える預言の書の一節が印刷された余白の部分に、走り書きの文字があった。
『侍女の命が惜しければ一時までにアッシュヴィルの廃神殿へ来い。令嬢ひとりで』
慌てて振り向いたが、女性の姿はすでに雑踏の中に消えていた。
「これってフィオナのことよね……!?」
「アッシュヴィルの廃神殿か……。南区の外れだ。老朽化して危険なので閉鎖されてる」
「は、早く行かなきゃ!」
ギヴェオンは懐中時計を確かめた。
「……あと二十分。時間がない、行きましょう」
「で、でもわたしひとりでって……」
「ひとりじゃ行かれないでしょ」
ギヴェオンはソニアをせき立て、大股に歩きだした。
その頃ブラウニーズでは、昼食の用意が整ったことを告げたダフネがぐずぐずと居残っていることに、アビゲイルが眉をひそめていた。
「どうかしたの、ダフネ」
「あ、あの……。いえ、何でもありません」
急いで退出しようとする少女を、アビゲイルは穏やかに引き止めた。
「何かあるなら遠慮なく言っていいのよ」
「その……、ユージーンさんのことなんですけど……。あたし、市場へお使いに出た時に見たんです、たまたま。ユージーンさんが、軍人さんと話してるのを」
ぴくり、とアビゲイルの柳眉が動く。
「軍人だと見てわかったということは、つまり制服を着ていたわけね?」
「はい。えっと、濃い灰色の、裾の長い上着でした」
濃い灰色は特務隊のカラーだ。裾が長い上着は将校であることを示す。特務隊の将校と言えば、とりあえず思い当たるのはソニアから聞いたハイランデルとかいう少佐だが……。
「何を話していたのか聞こえた?」
「いえ、遠かったので……。ユージーンさんはいつもみたいに愛想よく笑ってました。軍人さんの方はずっとこちらに背中を向けてたので顔はわかりません」
アビゲイルは、おどおどしているダフネににっこりと笑いかけた。
「よく話してくれたわね。これからも何か気付いたことがあれば言って」
ホッとした顔で頷き、少女は急いで礼をして部屋から出ていった。アビゲイルは椅子の背にもたれ、冷やかに呟いた。
「……特務とお喋り、ねぇ。いい度胸してるじゃないの」
机の抽斗を開け、二重底になった部分からアビゲイルは一挺の拳銃を取り出した。しげしげと眺め、ひとりごちる。
「残念、弾丸を切らしてたんだっけ」
肩をすくめて銃を戻し、とりあえず昼食にしようとアビゲイルは立ち上がった。