第21話 眼鏡壊したら弁償してくださいね。

文字数 1,823文字

 ソニアを乗せた馬車は市街地を通り抜け、アステルリーズの東区へ入った。
 帝都は大きくわけて東西南北と中央の五区画からなる。中央区には各省庁が集まり、その中心にあるのが王宮だ。
 王宮にはいくつもの宮殿が建ち並び、議会棟や近衛軍の詰所、帝国軍の各部署、錬魔術中央研究所の他、国の始祖である女神を祀る聖廟がある。
 グィネル公爵家のような大貴族を始め、古くからの帯剣貴族はたいてい西区から北区にかけて屋敷を構えている。法服貴族や商人あがりの下級貴族は東区から南区にまたがる地域に住んでいる者が多い。
 ギオール河が東から西へアステルリーズを貫流し、東北から南西にかけては主街道が通じている。
 そのため帝都の東側は商工業が特に盛んだ。一般市民が住む居住区は中央区以外ならどこにでもあるが、おおまかに分ければ西区や北区に住んでいるのは比較的富裕層で、東区には大手や中堅の商人、南区では庶民が肩を寄せ合うように暮らしている。
 ソニアは帝都では西区にある屋敷を中心に生活し、出かけるのはせいぜい緑地の多い北区や東区、それも中央区寄りの目抜き通りへ買い物に行くくらいだった。
 自分が一晩過ごした建物は、どうやら南区にあったらしい。馬車は螺旋大通りを外れて脇道へ入った。
 浅緑の柳がそよ風になびく静かな石畳をしばらく進み、噴水と緑地のある広場に面した通りでようやく止まる。ドアを開けてくれた人物を見てソニアは目を瞠った。
「ギヴェオン! どうしてここに」
「途中で追いついて、後ろに飛び乗ったんです」
 こともなげにギヴェオンは答えた。後ろにいるティムに目線で尋ねると、少年は頬を紅潮させてこくこく頷いた。風に晒されて多少髪が乱れているが、ケガもしていないようだ。
「あの変な殺し屋は?」
「追っ払いました。ともかく中へ入りましょう」
 ギヴェオンは先に立って階段を昇り、奇妙な意匠の重々しい真鍮ノッカーを鳴らした。メイドのお仕着せ姿の、まだ少女といっていいくらい若い女性が現れた。
「こんにちは、ダフネ。グィネル公爵令嬢をお連れしました」
「ようこそブラウニーズへ」
 メイドはうやうやしく膝を折る。ソニアは玄関ホールを見回しながら尋ねた。
「ブラウニーズ?」
「家事使用人の、斡旋所ですよ」
「斡旋所? それじゃ、ギヴェオンはここの……」
「はい、派遣員(エージェント)です」
 にこっと無邪気にギヴェオンは笑った。
 館の内部は趣味のよい調度品や絵画が適度に飾られ、斡旋所というより個人の邸宅のようだ。
 靴音を吸収する深紅色の絨毯を踏んで奥へ導かれる途中、階段の側でギヴェオンは足を止めた。
「ティムは階下で休んでいなさい。ダフネ、お嬢様は私が案内するから、彼にお茶を」
 ダフネは頷き、気安い調子でティムを手招いた。ふたりが連れ立って階段を降りるのを見送ってふたたび歩きだし、ギヴェオンはひときわ重厚な造りの扉をノックした。
「ソニア様をお連れしました」
「入りなさい」
 クールな女性の声が重々しい口調で応じる。
 中に入ると、正面にひとりの女性が立っていた。二十代の半ばくらいだろうか。亜麻色の髪を後ろでまとめ、かっちりした紺色のツーピースドレスが怜悧な美貌によく似合っている。ギヴェオンほどのっぽではないが、ソニアよりもずっと背が高い。
 扉を閉めたギヴェオンがソニアの斜め後ろに落ち着くと、おもむろに歩み寄った女性はいきなり左足を振り上げた。ほとんど反動もつけず、右足を軸にして凄まじい勢いの蹴りを放ったのである。
 ギヴェオンの側頭部で、ぴたりと足は止まった。ほとんど髪の毛一本の差で見事に停止している。チッ、と女性は舌打ちをした。
「何故避けん」
「避けたらソニア様に当たりますので」
 平然と答えると、女性はさらに表情を険しくした。
「このわたしがそんな不手際をするとでも?」
「そうは思いませんが、念のため。下手に避けると反対側の足で背中を蹴られそうだし」
 女性はふたたび舌打ちをした。姿勢を正し、ソニアに向かって慇懃な礼をする。
「大変な不作法を、……この者が」
 じろり、と女性はギヴェオンを睨んだ。謝罪は自分のことではなかったらしい。苦笑いして頬を掻く彼を見て、間髪入れずに拳を叩きつける。またもやそれは紙一重の差で止まった。
 ギヴェオンは顔をこわばらせるでもなく平然と言った。
「眼鏡壊したら弁償してくださいね」
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