第6話 人畜無害な笑顔がかえってうさんくさいのです。

文字数 3,707文字

 晩餐の後、ソニアは父に呼ばれて書斎へ行った。てっきりお小言を喰らうものと覚悟しながら室内に足を踏み入れ、呆気に取られて棒立ちになる。
 美しいマホガニー製の執務机の向こうでグィネル公爵が手にした書類から目を上げた。ソニアの視線は父ではなく、机の横に佇む青年に釘付けになっていた。それは襲撃者の魔手から救ってくれた、あのひょろりとして人の良さそうな青年だったのだ。
 太い黒縁眼鏡、ハッとするほど青い瞳、人懐こい笑み……。灰色っぽい金髪かと思った髪は、よく見れば青みがかった銀色だ。
「彼はもう知っているね?」
 父の声にソニアは慌てて視線を戻した。グィネル公爵家当主アドルファスは四十代半ば。帝国議会の要職にあり、宰相ヴィルヘルムとともにアスフォリア帝国の政務を実質的に運営している御前会議の最重要メンバーだ。自宅で家族に接する時には闊達な青年時代そのままといった感じで、悪戯っぽい微笑みを絶やすことがない。ソニアはそんな父が大好きで、尊敬していた。
「フレッチャーからあらましは聞いたよ。彼に危ないところを救われたそうだね」
「え、ええ、その……、はい」
 うろたえてソニアは口ごもった。青年の目的地がよりにもよって自分の家であったこと、しかも彼が客ではなく新規の使用人希望者として訪ねる途中とわかり、ソニアは何とも微妙な気分に陥った。ソニアがグィネル公爵の娘と知った青年は馬車に乗ることを固辞したのだが、そうはいかない。ソニアは軽く混乱しながらも強引に彼を馬車に押し込んで自宅へ連れ帰った。待ち構えていた執事にこってり絞られたのは言うまでもなかった。
「何かの縁だな。フレッチャーとも話して彼を我が家の従僕として雇うことに決めたよ」
「光栄です、閣下」
「あ、あの、お父様……?」
「第一従僕(フットマン)のマーティンが急に辞めただろう? フレッチャーによれば他にも何人か希望者はいるそうだが、昼間の出来事もあるし、持参した紹介状は文句なく立派なものだ。ギヴェオン、だったね、きみ」
「はい。ギヴェオン・シンフィールドと申します」
「詳しい採用条件はフレッチャーから聞いてくれ。きみにはこの跳ねっ返りのお嬢さんのお目付役をしてもらいたい」
「お父様! そんな言い方ってないわ」
「私の言いつけを守れない娘に文句をつける権利はないよ」
 きっぱりと言われてうつむいてしまう。やはり怒っていないわけではなかったのだ。
「今日の出来事で身にしみただろう、ソニア。奴らは貴族と見れば女だろうと子どもだろうと容赦なく襲ってくる不逞の輩なんだ。警察や軍も動いてくれてはいるが、基本的には自衛するしかない。かといって襲撃を恐れて閉じこもっていては怯懦が過ぎる。我々は大陸の盟主たるアスフォリア帝国を支える誇り高き貴族なのだから」
「はい、お父様」
 神妙にソニアは頷いた。
「おまえが恐れることなく外に出て覇気を示すのは大いに結構。だが、父親としてはやはり心配だよ。今回だって彼がいなかったらどうなっていたと思う?」
 父の声になじる響きはなかったが、情愛に満ちた声音にソニアはうなだれた。まだどこか他人事だった。貴族層が狙われていると聞いてはいても、実際にこうして自分に関わってくる出来事なのだということが、実感できていなかったのだ。
「……ごめんなさい」
「わかってくれればいい。私としても、活発な気性のおまえを閉じ込めておきたいわけではないんだ。そんなことをしたら、おまえのキラキラした瞳が曇ってしまうからね」
「お父様……」
「これまでどおり、外出はできるだけ控えること。どうしても出かけたいならこそこそせず、行き先をきちんとフレッチャーに告げてギヴェオンを同行させなさい。いいね?」
「わかりました」
「ギヴェオン。言っておくが、娘にもし何かあれば、私はきみを許さないよ。しかるべき代償を払ってもらうことになる」
「心得ました」
 ソニアは唇を噛んだ。わざわざそういうことを目の前で言うのは、ソニア自身に対する牽制である。軽はずみな行為で自分が負傷、あるいは最悪死んだとなれば、ギヴェオンに責任を取らせて罰するというのだ。父にはその手段がいくらでもある。
 自分たちの生活を支えてくれる使用人たちに対して優しく寛容であること、自分のわがままで振り回して彼らの仕事の邪魔をしないことをソニアは幼い頃から厳しく躾けられてきた。召使に対してむやみに威張り散らすのは成り上がりのすることだ。
 それは単なる横暴で、矜持を示すどころか自らの尊厳をも貶める行為。そんなふうにソニアは教わってきた。ゆえに、それぞれの分野での専門家である召使たちにしかるべき敬意を払うのは当然であり、軽はずみで迷惑をかけてはいけないと思っている。
 主人側のそういう姿勢のためか、グィネル公爵家では他家に較べて使用人たちが居つく割合が高い。マーティンの突然の辞職願いには驚いたが、このまま勤め続けても執事になれる見込みは少なく──フレッチャーは有能かつまだまだ若い──、ステップアップするには転職するしかないという事情もわかる。ソニアは彼の前途に幸多きことを願い、できるかぎりよい内容の紹介状を書いて持たせたのだった。
「どうした、ソニア。浮かない顔だな。彼が気に入らないのかね?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ふむ。確かに他の従僕と並ぶと彼ひとりだけ頭が飛び出るな。まぁ、ずらりと並ぶような場面には出さなければいい。ギヴェオン、きみには娘の世話と外出時の護衛をメインにやってもらおう。フレッチャーにはそのように言っておく。何かあれば彼に訊きたまえ」
「かしこまりました」
 ギヴェオンは慇懃に頭を下げた。その物腰も態度も、今のところまったく非の打ち所がない。人畜無害な笑顔はどこから見ても好青年だ。作り笑いでないのは目許を見ればわかる。なのに、それがかえってうさんくさい。怪しいとまでは言わないが、何かが妙にひっかかる。彼のあまりにも青すぎる瞳のせいだろうか。
 にこり、とギヴェオンはソニアに向かって微笑んだ。ああ、そうかとソニアは納得した。うさんくさいのではない。この無邪気で無害そうな笑みが実は曲者だということを、自分はもう知っている。だからこんなにも落ち着かないのだ。
 彼の見た目から受けるのんびりした印象と、刃物ばかりか驚異的な体術をもった襲撃者を息ひとつ乱さずに撃退してみせた能力とのギャップが、あまりに大きすぎる。
 昼間の事件が起こらず、父から彼が新しい従僕(フットマン)だと紹介されたら、この笑顔から受ける印象のままに捉えただろう。背は高いけどひょろっとしてて頼りなさそうだな、とか、人懐っこい笑顔だな、とか。あるいは太い黒縁眼鏡がダサすぎるとか、ボサボサ髪をもう少しなんとかしろとか文句を言いつつ、それほどの関心も抱かず受け入れたことだろう。
「では、いいね? 今後出かける時は、どんな些細な用事であろうと必ず彼を伴うように。この言いつけを守れないなら、残念ながらおまえを屋敷内の一角に監禁せざるを得ない。私としてはせっかくの建国千年祭をおまえにも存分に楽しんでもらいたいと思っているんだ。ぜひわかってほしい」
「ええ、お父様。お言いつけは必ず守ります」
「嬉しいよ、ソニア。ではギヴェオン、よろしく頼む」
「はい、旦那様」
 ギヴェオンは胸に手をあて、古風に一礼した。書斎を辞したソニアの後をついてきたギヴェオンは、ソニアが自室の前で立ち止まると同時にさっと扉を開けてくれた。ふと彼の左手に目が留まった。中指にくすんだ金色の指輪が嵌まっていた。通常見かけないくらい幅広で、真ん中には深紅色の石があしらわれている。
「変わった指輪ね」
 そういうと、何故かギヴェオンは少し驚いたような顔になった。
「……護符(おまもり)なんですよ」
 よく見れば赤い石を囲んでアスフォリア女神の紋章である六芒星が描かれている。なるほど、とソニアは納得した。使用人は結婚指輪以外、指輪を嵌めることは禁止されている。実際には独身が多いため、指輪を嵌めている者はほとんどいない。護符ということで特別に許されたのだろう。
(でも指輪の護符って珍しいわ)
 アスフォリア女神の護符は信者であれば何かしら必ず持っているが、たいていは首飾りだ。ソニアも六芒星(ヘキサグラム)のペンダントをいつも身に着けている。
「おやすみなさいませ」
 さりげなく指輪をソニアの視線から外しつつ、慇懃にギヴェオンは頭を下げた。
「……おやすみなさい」
 閉まりゆく扉の隙間から、姿勢を戻したギヴェオンの顔がほんの一瞬だけ見えた。彼は相変わらず、こちらが気抜けしてしまうほどのほほんと笑っていた。

 扉を閉めたギヴェオンの微笑が苦笑に変わる。
「まさか、この指輪を見咎められるとはね。見えないように目眩ましをかけてあったのに」
 さすが……と言うべきなのだろう。
 吐息で笑い、ギヴェオンは廊下を歩きだした。その口許には、やけに楽しそうな笑みが浮かんでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み