第75話 初夏の朝風に乗って(最終回)
文字数 1,387文字
ソニアは弾かれたように立ち上がり、廊下に飛び出した。
「ギヴェオン……!?」
埃まみれのギヴェオンが廊下に倒れていた。彼の胸にのしかかったコーディが盛んに顔を舐めている。ようやく半身を起こし、ギヴェオンは照れくさそうに微笑んだ。
「あ、どうもお嬢様。たいへん遅くなりまして――」
最後まで聞かず、ソニアはギヴェオンに抱きついた。
「遅すぎるわよっ……!」
「ずいぶんゆっくりしてたなぁ。やっぱ迷ってた?」
呆れたようにユージーンが覗き込むと、ギヴェオンはがらりと目つきを変えて睨んだ。
「地下限定方向音痴なもんでね! なんで迎えに来ない!?」
「行っただろー。でもって、めっちゃ怒られた」
「最悪のタイミングで来るからだっ。昔からおまえはそうだった。来なくていい時に来て状況を悪化させ、必要な時には絶対来ない!」
「それは言いすぎだ。なぁ、アビちゃん」
「そのとおりじゃないですか」
そっぽを向かれたユージーンは、わざとらしくよよと泣き崩れた。ソニアは急に鼻がむずむずしてくしゃみをした。慌ててギヴェオンはソニアを押し戻した。
「すみません、埃まみれで。お召し物を汚してしまいました」
「本当にひどい格好だわ。……でも、嬉しい。帰って来てくれて」
またくしゃみをしてソニアは笑った。目が潤むのは、くしゃみ連発のせいじゃない。
「……おかえりなさい」
万感の思いを込めて囁くと、ギヴェオンはにっこりと笑った。
「ただいま戻りました」
ふたりの側で尻尾を振っていたコーディが、絶妙なタイミングで大きなくしゃみをした。
ほんの十日ほどをブラウニーズで過ごしただけで、ギヴェオンはさっそく次の仕事に向けて旅立つこととなった。何となくこれからも彼が側にいてくれるように思っていたソニアは、急に寄る辺ない気分になってしまった。そんな自分を叱咤し、心を奮い立たせる。
(しっかりしなさい、ソニア)
これまで漠然と予想していたものとはまったく違う人生が待ち受けているのだ。学ばなければならないこともたくさんある。誰かに甘え、頼っている場合じゃない。
ギヴェオンは古びたトランクを足元に置き、帽子の端をちょっと持ち上げた。
「では、お嬢様。これで失礼いたします」
「もうあなたの『お嬢様』じゃないわ」
寂しい気分を笑いに紛らすと、ギヴェオンはわずかに眉根を寄せて微笑んだ。
「そうでしたね。――では、ソニアさん。どうぞお元気で」
「あなたもね、ギヴェオン。……また会えるかしら」
「さぁ、どうでしょう。わかりませんが、いつか会えるといいですね」
軽く請け負わないことに彼の誠実さを感じる。ソニアは鼻腔の奥の痛みを堪えて頷いた。
「おーい。追剥には気をつけろよー。千年祭の余波で、街道沿いに頻発してるそうだ」
物騒な大声が二階から降ってくる。見上げると、窓から身を乗り出してユージーンがニコニコと手を振っていた。ギヴェオンは無言で踵を返し、すたすたと歩きだした。
「あっ、無視? 無視!? ひでぇ、忠告してやったのに~」
子どもっぽいわめき声に思わず笑ってしまう。ギヴェオンの姿が遠ざかり、建物の角を曲がって消える。しばらく玄関先に佇んでいたソニアは、深呼吸をして軽くかかとを鳴らした。仄かな薔薇の香りが、初夏の朝風に乗って涼やかに吹き抜けていった。
〔了〕
「ギヴェオン……!?」
埃まみれのギヴェオンが廊下に倒れていた。彼の胸にのしかかったコーディが盛んに顔を舐めている。ようやく半身を起こし、ギヴェオンは照れくさそうに微笑んだ。
「あ、どうもお嬢様。たいへん遅くなりまして――」
最後まで聞かず、ソニアはギヴェオンに抱きついた。
「遅すぎるわよっ……!」
「ずいぶんゆっくりしてたなぁ。やっぱ迷ってた?」
呆れたようにユージーンが覗き込むと、ギヴェオンはがらりと目つきを変えて睨んだ。
「地下限定方向音痴なもんでね! なんで迎えに来ない!?」
「行っただろー。でもって、めっちゃ怒られた」
「最悪のタイミングで来るからだっ。昔からおまえはそうだった。来なくていい時に来て状況を悪化させ、必要な時には絶対来ない!」
「それは言いすぎだ。なぁ、アビちゃん」
「そのとおりじゃないですか」
そっぽを向かれたユージーンは、わざとらしくよよと泣き崩れた。ソニアは急に鼻がむずむずしてくしゃみをした。慌ててギヴェオンはソニアを押し戻した。
「すみません、埃まみれで。お召し物を汚してしまいました」
「本当にひどい格好だわ。……でも、嬉しい。帰って来てくれて」
またくしゃみをしてソニアは笑った。目が潤むのは、くしゃみ連発のせいじゃない。
「……おかえりなさい」
万感の思いを込めて囁くと、ギヴェオンはにっこりと笑った。
「ただいま戻りました」
ふたりの側で尻尾を振っていたコーディが、絶妙なタイミングで大きなくしゃみをした。
ほんの十日ほどをブラウニーズで過ごしただけで、ギヴェオンはさっそく次の仕事に向けて旅立つこととなった。何となくこれからも彼が側にいてくれるように思っていたソニアは、急に寄る辺ない気分になってしまった。そんな自分を叱咤し、心を奮い立たせる。
(しっかりしなさい、ソニア)
これまで漠然と予想していたものとはまったく違う人生が待ち受けているのだ。学ばなければならないこともたくさんある。誰かに甘え、頼っている場合じゃない。
ギヴェオンは古びたトランクを足元に置き、帽子の端をちょっと持ち上げた。
「では、お嬢様。これで失礼いたします」
「もうあなたの『お嬢様』じゃないわ」
寂しい気分を笑いに紛らすと、ギヴェオンはわずかに眉根を寄せて微笑んだ。
「そうでしたね。――では、ソニアさん。どうぞお元気で」
「あなたもね、ギヴェオン。……また会えるかしら」
「さぁ、どうでしょう。わかりませんが、いつか会えるといいですね」
軽く請け負わないことに彼の誠実さを感じる。ソニアは鼻腔の奥の痛みを堪えて頷いた。
「おーい。追剥には気をつけろよー。千年祭の余波で、街道沿いに頻発してるそうだ」
物騒な大声が二階から降ってくる。見上げると、窓から身を乗り出してユージーンがニコニコと手を振っていた。ギヴェオンは無言で踵を返し、すたすたと歩きだした。
「あっ、無視? 無視!? ひでぇ、忠告してやったのに~」
子どもっぽいわめき声に思わず笑ってしまう。ギヴェオンの姿が遠ざかり、建物の角を曲がって消える。しばらく玄関先に佇んでいたソニアは、深呼吸をして軽くかかとを鳴らした。仄かな薔薇の香りが、初夏の朝風に乗って涼やかに吹き抜けていった。
〔了〕