第24話 僕はもうダメなんだ。

文字数 2,401文字

 今から半年ばかり前のことだ。休暇をもらったエリックは行きつけの酒場で飲んでいた。
 そこは大学町ロイザでも学生や大学の職員はあまり来ない店で、息抜きにはちょうどよい場所だった。
 エリックのような貴族の子弟に仕える従者たちがよく集まって、世間話をしたり、使用人ならではの愚痴をこぼしたりする。
 その夜は親しい知り合いも来あわせず、エリックは酒場の主人と時折会話をする以外はほとんどひとりで飲んでいた。そこへ現れたのがオージアスだった。
 悔しそうに、またどこか怯えたように、エリックは呟いた。
「……きっかけが何だったのか、泥酔していたわけでもないのに記憶がぼんやりして思い出せないんです。気がつくとオージアスと差し向かいで飲んでいて、彼が言いました。自分の主人がヒューバート卿と近づきになりたがっていると。珍しい話じゃありません。そんな輩は掃いて捨てるほどいます。ヒューバート様は準王族である公爵家の跡取り息子ですから。私はいつものように適当に話を合わせておきました。中には賄賂めいたチップを渡して取次ぎを頼もうとする輩もいますが、そういうのはお断りしています。ヒューバート様は内気なところがあって、あまり積極的に交際範囲を広げたがらないんです。私もそこいら辺は肝に命じてお仕えしておりました」
 エリックは言葉を切り、紅茶の受け皿を割れそうなくらいに握りしめた。
「……それが、数日後にヒューバート様のお伴で出かけた時、オージアスとその主人にばったり出くわしたんです。ただの偶然なのか計られたものなのかわかりません。無視しようとしましたが、オージアスと目が合った途端に気分が悪くなって倒れてしまったんです。気がつくと病院で、ヒューバート様がおっしゃるにはオージアスの主人が馬車で運んでくれたとか……。それでヒューバート様は彼らをすっかり信用してしまって」
「オージアスの主人って誰なの?」
「エストウィック卿と名乗る、得体の知れない外国人ですよ」
 エリックは吐き捨てるように答えた。
「エストウィック卿!? それって、〈世界の魂(アニマ・ムンディ)〉とかいう結社の後ろ楯でしょ」
「そうです。そいつがろくでもない組織にヒューバート様を引っ張り込んだんです。私はヒューバート様を何とか抜けさせようとしました。オージアスにも、妙な活動に旦那様を巻き込むなと何度も強く抗議しました。でも奴はのらりくらりと言い逃れるばかりで」
(そういうところをナイジェルに目撃されて、誤解されたんだわ……)
 ナイジェルの凄絶な死を思い出し、ソニアの胸は鋭く痛んだ。
 だが今は悲しみに浸っているわけにはいかない。ソニアは涙ぐみそうになるのをぐっと堪えた。
「……あなたの忠告を、お兄様は聞かなかったのね」
「は、はい……。何度申し上げても、おまえの誤解だ、曲解だとおっしゃるばかりで。ひどく不機嫌になって、今までにないほど激昂されてひどい言葉で罵られました。驚きましたが、それ以上に心配でたまらず……。こうなったら大旦那様にお出まし願うより他ないかと、手紙を書き出したところを旦那様に見つかって、その場でクビを申し渡されました。私を大旦那様のスパイだと決めつけてひどく罵倒されて。私もあまりにショックで、つい売り言葉に買い言葉、辞めますと叫んで飛び出してしまったのです……」
「あなたのせいじゃないわ」
「いいえ! 私のせいなんです。元はといえば、私があの胡散臭い男と近づきになってしまったのが悪い。私のせいなんです……!」
 生真面目な従者が両手に顔を埋めるのを、なすすべもなくソニアは見つめた。やがてエリックは顔を上げ、小さく鼻を啜った。
「──すみません。まだ続きがありました。飛び出したものの、何日か経ってこっそり戻ってみたんです。まだ鍵を持っていましたし、エストウィック卿と付き合うようになってから旦那様はとても体調が悪そうだったので気になって。寝室を覗くと旦那様が臥せっているのが見えました。私に気付くと嬉しそうに微笑まれて、『ああ、エリック。戻ってきてくれたんだね』とおっしゃって──。痛々しいくらいしわがれたお声で、私の手を握りしめて何度もすまないと繰り返されました。すぐに医者を呼ぶと言いますと、旦那様は弱々しく首を振って『もう遅い。僕はもうダメなんだ』と言うばかりで。そのうちに顔色がますます悪くなって、死人のような土気色に変わってガタガタ震えだしたのです。苦しげに咳き込まれて、もういても立ってもいられず、医者を呼びに行こうと立ち上がったところノックもなしに扉が開いて、オージアスが手に小さな盆を持って入ってきました。盆の
上には注射器とかゴムのチューブとか、何か医療器具のようなものが色々と乗っていました。医者を呼べと怒鳴りますと、奴はふてぶてしく『自分は医師の資格を持ってる』などと言い出したのです。そうする間にも旦那様の容体はますます悪くなって、オージアスも焦った様子で私を押し退け、手早く注射をしました。何の薬だかわかりません。突き飛ばされた拍子に頭を壁にぶつけて目が回っていたものですから……。ただ、血のように赤いものが入っていたのはどうにか見えました」
 ソニアは青ざめて拳を握りしめた。
「お兄様、やっぱり病気だったのね……」
「注射をすると旦那様は一応落ち着かれて、そのまま眠ってしまったようです。私は恐ろしくなって寝室を飛び出しました。追いかけてきたオージアスに睨まれたら急に身動きできなくなって……。その時、呼び鈴が鳴らなかったらどうなっていたことか……」
「誰が訪ねてきたの?」
「郵便屋です。私はとにかく恐ろしくて、配達人を突き飛ばして逃げ出しました……」
 ソニアは何といっていいかわからず、うなだれたエリックを見つめた。
「……それで、ここに相談に来たのね」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み