第5話 さすが帝都は物騒です。

文字数 3,019文字

 にやりと少女の唇がゆがんだ。
「毎度、ありがとうございま──」
 ふざけた口上は最後まで続かず、少女はギャッと叫んで短剣を取り落とした。
 どこからか飛んできた石が、少女の手に命中したのだ。
 フィオナは鈴蘭の籠を少女に投げつけ、引き寄せたソニアを気丈にも背後に庇った。
「あー、すみません。手元が狂いました。刃物のほうに当てようとしたんですけど」
 申し訳なさそうな声がしてソニアは瑠璃色の瞳を瞠った。
 少女は石に打たれた右手を押さえ、狂暴な目つきで相手を睨んだ。
 少し離れたところにひょろりとした男が立っていた。
(さっきの人……!)
 馬車から見た、トランクを置き引きされていた青年だ。
 くだんのトランクは無事取り戻したと見えて、足元に置かれている。
 いかにも実用一点張りといった太い黒縁眼鏡をかけた青年は、二十代前半くらいの年頃に見えた。
 彼は心底すまなさそうに眉を垂れた。
「痛かったでしょ? もしかして、骨、折れちゃいました?」
「……ふっ、ざけるなぁっ」
 少女は叫んだ。
 いや、違う。少年だ。
 めくれたフードの下から現れた顔は人形めいて整っていたが、その猛々しい表情が元来のものらしい。
 少年は裾のほつれたスカートをひるがえし、地面に転がっていた短剣を左手で掴んだ。
 大地を蹴って姿勢を変え、勢いに乗ってソニアに飛びかかる。
 雨にぬれた刃がぎらりと光った。
 瞬間、目にも止まらぬスピードで飛来した礫が、またもやナイフを弾き飛ばす。
 ソニアには青年が身じろいだようにすら見えなかった。相変わらず緊張感のかけらもなしに突っ立ち、青年は困ったようにぽりぽりと頬を掻いた。
「すいません、今度は思いっきり狙いました。そんな危ないもの、振り回しちゃいけませんよ。ましてや女の人に向けるなんて、ねぇ?」
 女装の少年は猫みたいな金緑色の瞳をギラギラさせて青年に向き直った。
 だらりと垂れた両手はよく見ると不規則に痙攣している。痺れているのか、握りしめることもできないようだ。
 少年は獣じみた叫び声を上げ、青年に襲いかかった。
「どわっ」
 奇妙な声を上げ、間一髪で青年は少年の繰り出す蹴りを躱した。
 それがまた怒りに油を注ぎ、少年は殺意をむき出しに目まぐるしく回転しながら連続して蹴りを放った。
 ぎりぎりでどうにか躱し続けた青年の身体が、バランスを崩してよろける。
 少年の瞳が輝いたのは一瞬だった。
 振り向きざま、生き物のように飛び上がったトランクを肘で叩き落とす。その時には青年はすでに間合いの外に出ていた。
 少年は憤怒の形相で肩を怒らせた。
 よろけたように見えたのは、身体を沈めて傍らのトランクを蹴り上げたためだったのだ。
 距離を置いた青年は、生真面目に眼鏡の位置を直した。まったく息を切らせもせず、ただ困ったように見ている。対する少年は肩で荒く呼吸をしていた。
「……覚えてろ!」
 お決まりの捨て台詞を吐き、少年は激しさを増す雨の中を走り去った。
「あ、忘れもの。おーい、これ、忘れて──あーあ、行っちゃった……」
 地面から拾い上げた短剣を手に、青年は途方に暮れた様子で肩を落とした。
「……仕方ない。預かっておきますか」
 身を寄せ合って固まっているソニアとフィオナには目もくれず、青年は転がったトランクに歩み寄った。
「ふう、思わぬ寄り道をしてしまった。これはもう遅刻確定だな。とにかく急ごう」
 独りごちながら持ち上げようとした瞬間、ぱかっとトランクが開いた。
 女装少年の肘打ちか地面に激突した際の衝撃か、或いはその両方で留め金が壊れてしまったらしい。
 世にも情けない悲鳴を上げ、青年はばらけた荷物を必死に詰め込み始めた。
 我に返ったソニアは、そこらに転がっていた自分の傘を拾って駆け寄った。フィオナも目が覚めたようにぱちぱち瞬きをし、自分の傘を拾って後を追う。
 降りしきる雨が遮られ、青年が顔を上げた。雨粒のついた眼鏡を通して、青い瞳がソニアを見上げていた。
 見たこともない青だった。
 空の色とも海の色とも違う。
 宝石の青とも異なる、譬えようのない『青』だ。それは魂に食い込んでくるような色彩だった。
 青年はしかし、隠された神秘の如き超絶色の瞳を、あまりにも人間くさい仕種で細めた。つまりは人懐っこく笑ったのである。
 あまりの無邪気さ無警戒さに、ソニアはたじろいだ。
「あ、どうもありがとうございます。ご親切に」
 青年は照れくさそうに微笑み、荷物を詰め込んでトランクを閉めた。
 やはり留め金は壊れているらしい。青年は持ち手の両脇についてるベルトを閉めて固定した。さっきはこのベルトを閉めていなかったので中身をばらまいてしまったのだ。
 立ち上がった青年は改めて微笑を浮かべ、帽子の縁をちょっと上げて挨拶した。
 てっぺんが凹んでいて、溜まった雨水がザバとなだれ落ちたが、ソニアは淑女らしく見ない振りをした。
 そういえばこの帽子、女装少年の攻撃を躱す間ずり落ちることもなかった。
(つまり、ほとんど動いてなかったってこと……?)
 顎を反らして青年を見上げる。
 ソニアは同年代では背が高いほうだが、それにしても青年は非常に背が高かった。確実に頭ふたつ分は違い、その上にさらに帽子が乗っかっている。
 それだけ上背があるのに威圧感を感じさせないのは、ひょろっとした細身の体格のせいなのか、あるいは人畜無害ぽい笑みのせいだろうか。きっとその両方だ。
「やぁ、どうも。助かりました。ありがとう」
「助かったのはこっちよ。あなたは命の恩人だわ」
「いやぁ、さすが帝都は物騒ですねぇ」
「今はちょっと特別なの。建国祭でいろんな人が来てるでしょ」
「そうなんですか。私も地方から出てきたばかりでして」
「……あの、どうしてご自分の傘をささないの?」
 青年が腕にかけている傘を、ソニアは目線で指した。
 雨傘はステッキ代わりに持ち歩くことも多い。きれいにたたんで巻くのはコツがいるから、ちょっとやそっとの雨では差したくないという気持ちもわかるが、これだけ降っていたら背に腹は換えられまいと思うのだが……。
 青年は恥ずかしそうに微笑んだ。
「破れてるんです。修理に出さないといけないのに、ついうっかりして」
「だったらお礼に修理をさせていただけないかしら。うちの執事に頼んで傘屋に持っていかせれば、すぐに直してくれるから」
「いえそんな! とんでもない」
「遠慮しないで。これからどこへいらっしゃるの? よければ馬車で送るわ」
「いえ、こんななりではお席をぬらしてしまいますから」
「気にしないで。わたしたちだってずぶぬれだもの」
 目的地まで送り、修理のために傘を預かろうとソニアは決めた。なんなら新品を贈ってもいい。
 ソニアが何度も勧めると、根負けしたように青年は頷いた。
「ではお言葉に甘えて。傘は自分で修理しますから、どうぞお気遣いなく」
 隙を見て奪い取る気まんまんなのをおくびにも出さず、ソニアはにっこりした。
「で、どちらへいらっしゃるの?」
「グィネル公爵のお屋敷へ行きたいのですが、ご存じですか」
 青年の腕を取って歩きだしたソニアは、足を止めてぽかんとした。
「……それはうちよ」
 黒縁眼鏡の奥で、青年は青すぎるほど青い瞳を見開いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み