第36話 鼻の仇を取るんだ!

文字数 2,041文字

 ふたたび薄闇の中にジャムジェムは立っていた。手前には真珠色をした流線型の椅子でオージアスが脚を組んでいる。構図だけは数日前と同じだが、オージアスのまなざしは格段に冷たくなり、ジャムジェムは崖っぷちに追い詰められていた。
「で? また失敗したと言うわけか。しかも無断で侍女を連れ出し、奪われたと?」
 無機質な声に冷汗がどっと噴きだし、ジャムジェムは青ざめた唇をわななかせた。
「獲物を食いつかせるには、餌が必要だもん……」
「餌というより保険だろう。人質を取っておけばあの従僕を牽制できると踏んだ。お笑い種だな、あっさりノックアウトされて」
 少女めいたジャムジェムの美貌が怒りで赤黒く染まった。
「ノックアウトなんかされてない! ちょっとはたかれただけだ。あいつ、ジャムジェムの顔を殴っておいて、謝りもしなかった。絶対許してやんない! あの女も許さない。あの女のせいでジャムジェムの鼻はとても痛い目にあったんだ」
 ソニアが蹴ったドアで鼻を強打したことまで思い出し、少年は狂気じみた怒りに目をギラギラさせた。オージアスは眉をひそめ、うんざりと吐き捨てた。
「また顔か。奴らはおまえの顔にまったく何の感銘も受けていないようだが」
「あ、あいつら美的センスが皆無なんだ。ジャムジェムの美しさを理解できないんだ。しかもあいつ、ジャムジェムを傀儡(くぐつ)って言った。誰かの指先で踊ってる人形だって」
「ほぅ。図星を刺されて逆上したというわけだな」
「ジャムジェムは人形じゃな──」
 すっとオージアスが黒い瞳を細めると同時に、見えない攻撃をくらってジャムジェムの細い身体が吹き飛んだ。
 床に倒れ伏して苦痛に身体を折り曲げている少年を、ゆらりと立ち上がったオージアスは顔色ひとつ変えずに蹴り飛ばした。さして力を入れたようにも見えなかったが、ジェムジェムはふたたび軽々と吹き飛ばされ、今度は壁に叩きつけられた。
 かは、と声にならない苦悶を上げた少年の口から、赤い血がひとすじ流れる。
「人形だろ? それともまだ自分が人間だとでも思っているのか」
「……ジャムジェムは人間なんかじゃない。あんなつまんないのはもうやめた。でもジャムジェムは人形じゃない。ジャムジェムは──」
「神々の端くれにでもなったつもりか? カッとなって、たかが半神に遊ばれた挙げ句、危うく捕獲されるところだったくせに」
「あいつは半神じゃないって……、ただの錬魔士(パラケミスト)だよ!」
「手練の錬魔士(パラケミスト)は半端な半神よりも厄介だと言っておいたはずだ。ジャムジェム、おまえがやるべき仕事をきちんとこなしている限りは、不届きな勘違いを大目に見てやってもいい。だが、命じられた仕事もろくにできない上にこちらの足を引っぱるようなら、自分が単なる傀儡にすぎないことを思い出させてやらねばならんな」
 ジャムジェムは金緑色の瞳いっぱいに恐怖を浮かべ、激しく首を振った。
「や、やだ……っ」
「では、せいぜい役にたつことだ。まずは誰か看護人を適当に見つくろって来い。あの従僕の対応はこちらで考える。指示するまで今後一切近づくな」
「女はジャムジェムが殺す! 鼻の仇を取るんだ」
 オージアスは呆れたように眉を上げた。
「だったら役に立て。そうすれば殺らせてやる」
 行け、と顎で示されてジャムジェムは立ち上がった。背を向けたオージアスを凝視する瞳には恨みと憤怒の炎が燃えていた。
「何だよ、えらっそーに……!」
「さっさと行け」
 後ろ姿で冷やかに命じられ、ジャムジェムは思いっきりあかんべーをして走り去った。
 憮然と嘆息したオージアスの耳に、かすかな呻き声が聞こえた。呻きというより苦悶に耐えきれずに洩れ出たような唸り声だ。オージアスは表情を消し、濃密な闇のわだかまる一角へ足を向けた。
 暗幕の如き闇を抜けると、黄昏めいた薄明かりが満たす空間に檻があった。粗末な寝台に臥せったモノが絶え間なく苦痛に喉をふるわせ、枕に噛みついている。人とも獣ともつかぬ異相の中に残されたわずかばかりの面影が痛々しい。
 オージアスの無感動な顔を、嘲りとも侮蔑ともつかぬ表情がかすめた。
「あなたも諦めが悪いな、ヒューバート卿。素直に受け入れればそんなに苦しまずに済むのに。ま、相性が悪くて当然か。あなたはどれほど憎んでも足りない存在の末裔だ。でもね、全面的に降伏するならばこれ以上苦しまなくても済むんですよ?」
「……いも……とにて……だすな」
 妹に手を出すな。金色に変じた瞳孔で、ヒューバートは恫喝するように睨む。
「自分より妹君の心配ですか。泣かせますね。何度も言ったとおり、あなたが率先して我々に協力してくれるなら、彼女は生かしておいてあげてもいいんです。今しばらくは」
 咆哮をあげ、ヒューバートは寝台から跳ね起きた。オージアスの目の前で、鉄格子を掴んで激しく揺さぶる。眉ひとすじ動かさず、オージアスは嘲笑った。
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