第15話 旦那様は亡くなられました。

文字数 3,738文字

 ソニアは解放された一般客や兵士たちでごった返す正面玄関ではなく、人の少ない側面の出入口から外に出た。
 将校服の青年に二の腕をがっちりと掴まれている上、前後を銃剣で武装した兵士に挟まれている。逃げる隙はなさそうだが、それ以上にソニアは気力が尽きかけていた。茫然として何も考えられない。
 憧れの人が目の前で死んだ。しかも撃ったのは実の兄。その兄は奇怪な変貌を遂げて恐ろしい怪物と化し、神剣で斬られて堀に落ちた──。
 現実の出来事とは思えなかった。あまりに多くのことが一時に起きて、理解が追いつかない。石畳の継ぎ目に細いかかとが嵌まり、ソニアはよろけた。傍らの将校がすかさず支え、転倒を免れる。
「ありがとう……」
 放心したまま礼を述べると、無機質だった将校の瞳にわずかながら感情が浮かんだ。
「よければ腕に掴まって」
 ソニアはぼんやりと将校の腕を取った。
 頭のどこかで、この人が兄を斬ったのだという思いが浮かんだが、それはひどくぼやけていて明確な感情を呼び起こすことはなかった。彼が斬った相手は、ソニアの知る兄とは似ても似つかぬ姿だったから──。
「私はキース・ハイランデル。帝都警備軍、特務隊所属。階級は少佐です」
 青年は深みのある声で告げ、軽く会釈をした。ソニアは上の空で頷いた。
「しばらくこの中でお待ち願えますか」
 キースは立ち止まり、停めてあった黒塗りの箱馬車を示した。おとなしくソニアが従おうとした時、ガラガラとけたたましい車輪の音が聞こえた。
 一台の馬車がまっすぐこちらへ突っ込んでくる。キースが何ごとか叫び、ソニアの身体を軍用馬車に押しつけた。ソニアは奇妙な非現実感に捕らわれながら、突進する馬車を茫然と眺めた。
 手綱を握る御者の目許が、煌々と焚かれた篝火を受けて不自然にきらりと光る。眼鏡だ。ぼんやりとしていたソニアは、横面を叩かれたようにハッとした。
 ギヴェオンが御者台で手綱を取っていた。馬車はほとんど体当たりするようにこちらへ突っ込んでくる。彼が片手を差し伸べるのが見えた。
 時間の流れがゆっくりになり、騒音が遠ざかる。キースに押さえ込まれながらも、ソニアは必死に手を伸ばした。指先が触れたと思った瞬間、身体が宙に浮いていた。
「きゃあぁぁぁぁっ……っ!?
 気付いた時にはギヴェオンの膝に横座りしていた。悲鳴を上げ、降りようともがく。
「わわ、暴れないでっ、危ない! そのまま掴まってて下さい」
 馬車は全速力で疾走している。車輪の音や車軸の軋む音、バネのたわむ悲鳴のような音が一気に現実となって戻ってきた。
 この状態では御者台に座るのも難しい。仕方なくギヴェオンの膝の上に乗っていることにしたが、あまりに振動がひどくて安定を保とうとすると彼に抱きつくしかない。
 暴走に近い速度の馬車から転げ落ちたら大怪我どころでは済まないだろう。ソニアは覚悟を決めてギヴェオンにしがみついた。
「うちの御者はどうしたの?」
 騒音に負けじと大声で尋ねると、ギヴェオンは前を向いたまま答えた。
「いきなり兵士がやってきて御者や従僕をまとめてどこかへ連れていっちゃったんですよ。私はたまたま外してて。隠れて様子を窺ってたらお嬢様が出てくるのが見えたんです」
「これからどうするの」
「もちろん、お屋敷へ戻ります。お嬢様を軍に留置させるわけにはいきませんよ。そんなこと、旦那様がお許しになりません」
 屋敷内にいれば軍も手出しはできない。準王族たる公爵家の息女を捕えるとなれば、正式な許可書がいる。
 そのような許可書は簡単には出ない、というか、まずもって出されることはない。捕えるならば現行犯逮捕しかないのだ。
 やがて帝都を囲む城壁が迫ってきた頃、ようやくギヴェオンは速度を緩め、後方を確認してから道端に馬車を止めた。
「いくらか時間を稼げたようです。中に入ってください」
 ソニアは急いでギヴェオンの膝から降りて馬車に乗り込んだ。ふたたび走り出し、今度は怪しまれない程度に速度を落として無事城門を通過する。
 美しく花で飾られた街灯が大通りを明るく照らしていた。まだ多くの馬車が走り、歩道には通行人があふれている。
 屋敷に近づくにつれ、歩道の様子がおかしいことに気付いた。いくら千年祭で一時的に人口が増えているとはいえ、どうしてこんなに人が群れているのだろう。今頃は食事をするなり劇場へ行くなりしているはずだ。
 しかもみな妙に興奮した様子で一方向へ向かい、前方を指さして声高に叫ぶ人もいる。
 ソニアは馬車の窓を開け、顔を出した。夜空が赤く染まっていた。
 ギヴェオンが固い声で呟いた。
「……火事のようですね」
「も、もしかして、うちの方向じゃない……? ──ギヴェオン、急いで!」
 ぴしりと手綱が鳴り、馬車の速度がぐんと上がった。近づくにつれ、黒い煙が立ち昇っているのも見えてくる。
 間違いなく火事だ。水を積んだ消防用の馬車が激しく鐘を鳴らしながら追い抜いていく。
 悪い予感は屋敷に近づくにつれて大きくなり、ついに最悪の確信へと変わった。燃えているのはまぎれもなくグィネル公爵邸だった。
 消防用の馬車や作業員で屋敷の前は埋まっていた。動員された警邏兵が集まった野次馬を後方へ押しやったり馬車の誘導をしている。
 ソニアは窓から身を乗り出して屋敷を見つめた。広壮な屋敷が炎に包まれ、燃え上がっている。その熱気は馬車にいても感じられるほど強烈だ。膝ががくがくして、窓枠をぎゅっと握りしめる。
「お父様……、お父様はどうなったの……!? ──ギヴェオン、馬車を寄せて」
「これ以上は無理です」
「だったら降りる!」
 ソニアは自らドアを開けて飛び下りようとしたが、どうしたわけかドアが開かない。
「何よこれ、どうなってるの!?
 半狂乱でソニアはわめき、ドアを叩いた。こうなったら窓から出てやる、と思いっきり身を乗り出してもがいていると、泣きべそまじりの少年の声がした。
「あっ、お嬢様!」
 顔を上げると、顔や服を煤で汚した少年が駆け寄ってきた。ソニアの情報源、小姓のティムだ。
 馬車から半身以上乗り出した不安定な格好で、ソニアは腕を伸ばした。
「ティム! お父様は? お父様はご無事なの!?
「そ、それが……」
 言いよどむ小姓の姿にいやな予感が込み上げる。
「どうしたの、はっきりおっしゃい」
「旦那様は──、亡くなられました。銃で撃たれて」
 身体を支えていた腕ががくんと揺れた。バランスを崩したソニアを、御者台から飛び下りたギヴェオンが素早く支える。
 ソニアは馬車の中で膝をつき、窓にすがりついた。
「誰がそんなことっ……」
「エリックさんです!」
 ティムは引き攣った声で意外な人物の名を叫んだ。
「え……?」
「若様の従者だった、エリックさんですよ! 若様とお嬢様が出かけてまもなく、エリックさんが訪ねてきたんです。旦那様にお会いしたいと言って。嘘じゃないです。俺がフレッチャーさんに取り次いだんですから」
 ティムは炎の熱で赤らんだ頬をさらに赤くして言い張る。声も出ないソニアに代わってギヴェオンが質した。
「旦那様は彼とお会いになったのか?」
「は、はい。フレッチャーさんが案内しました。俺は書斎に珈琲を持っていくよう言いつかって。お盆に珈琲セットを載せて書斎へ行って、ノックをしてドアを開けたら中からエリックさんがすごい勢いで走り出てきたんです。ぶつかって、高価なカップが全部割れちゃった……。ああ、どうしよう……!?
 ギヴェオンはすっかりうろたえておろおろするティムをなだめ、先を促した。
「俺、頭に来て大声を上げたら、ちらっと振り向いたエリックさんがあんまり真っ青で凄い形相だったんで、何があったのかと急いで中を覗いたんです。カーテンが燃え上がっているのが見えて、びっくりして中に入ると、胸から血を流して旦那様が倒れていました。騒ぎを聞きつけたフレッチャーさんや他の人たちがやってきて、急いで旦那様を運び出したけど、その間に火が燃え広がってしまって……」
 ううっ、とティムは声を詰まらせた。
「それで、旦那様はどちらへ?」
「わ、わかりません。俺、逃げるのに必死で。すみません! すみません、お嬢様!」
 混乱したティムはわっと泣きだして詫び始めた。ソニアは茫然とするあまり声もかけられない。
 そこへ、複数の馬蹄の轟きと「いたぞ、あそこだ!」と怒鳴る声が聞こえてきた。振り向いたギヴェオンは濃灰色の軍服を来た男たちに舌打ちした。
「追いつかれたか……。仕方ない、いったん逃げますよ。きみも乗って」
 有無を言わさず少年の襟首を掴み、ドアを開けて馬車の中に放り込む。どうやっても開かなかったのに、とソニアは目を丸くしたが、放り込まれた少年がのしかかってきて後ろにひっくり返ってしまった。
「ああっ、すみませんお嬢様っ」
 ティムは慌てて離れようとしたが、馬車が急発進してもろにソニアの胸元に顔を突っ込んでしまう。
 どうにか座席に座り直した時には少年は緊張と狼狽で半死半生になっていた。
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