第73話 絶対に戻ってきて。

文字数 1,991文字

 同時刻、疲れてうたた寝をしていた少年皇帝シギスムントは妃に優しく揺り起こされた。
「陛下、陛下。ご覧になって。夜空に女神様の星が現れたのですよ」
 シギスムントは急いでテラスへ飛び出した。宮殿の三階にある広々としたテラスからは、遮るものなく壮大な光景が眺められた。思わず歓声を上げたシギスムントは東西からまばゆい光の点が無数に舞い上がるのを見て目を瞠った。オフィーリアが訝しげな声を上げる。
「まぁ、あれは何かしら。鳥のようだけれど……。夜に鳥は飛びませんわねぇ」
 小太りの女官が紅潮した顔で走ってくる。
「皇帝陛下、皇妃陛下、奇跡ですわ! 六つの城壁塔から放たれた光が夜空に女神様の星を描き出し、東の塔からは光る鳥が、西の塔からは光る蝶が現れました!」
「まぁ……! きっと陛下の御世に良きことが起こる先触れですわ」
 はにかむ少年に、皇妃は嬉しそうに微笑みかけた。シギスムントはおずおずと告げた。
「……さっき、夢を見ていたのです。夢の中で、ずっと会いたかった懐かしい人に会いました。いつか見た夢と同じで、その人はすごく困っていたの。前に見た時はどうしようもなくて僕も困ってしまったのだけど、今度は姉上が教えてくださったことをちゃんと伝えられました。とても役に立ったって、彼は言ってました。僕、すごく嬉しくなった」
「わたくし、そんなお役にたつことなんて言いましたかしら」
 とまどって首を傾げる妃に、シギスムントは満面の笑顔で頷いた。その無邪気な表情に、オフィーリアもまたにっこりした。ふたりはテラスに運ばれてきた椅子に並んで座り、輝き続けるアスフォリアの星を肩を寄せ合っていつまでも見上げていた。

 ソニアはどこまでも続く階段を必死に駆け上っていた。崩壊の音が背後から猛スピードで追いかけてくる。先を行く大型犬が足を止め、励ますように吠えた。
「あ、足が、つりそうなの、コーディ……っ」
 駆け戻ってきた犬はソニアの頬を舐め、袖口をくわえて引っぱった。ソニアは歯を食いしばり、必死に足を動かした。
(ギヴェオン……! 今度約束破ったら、本当に承知しないんだから……っ)
 アステルリーズを劫火に包まんとしたナイジェルの計画はどうにか回避された。抑えきれなかったエネルギーはギヴェオンの機転で夜空に女神の象徴たる六芒星を描き出すことで千年祭の余興として紛らすことができた。ソニアは洩れたエネルギーを光の鳥に変換し、ギヴェオンは反対側の塔から噴き出すエネルギーを光の蝶に換えた。無我夢中だったソニアに、彼の方でうまく合わせてくれたのだ。
 反動で放心しているソニアを、ギヴェオンは休む暇もなく急き立てた。
「ここは封鎖しますから、お嬢様は先に逃げて。彼の後についていけば外へ出られます」
 振り向くとコーディが盛んに尻尾を振っている。ナイジェルの指示でギヴェオンに噛みついた時の凶暴さは完全に消え失せていた。血まみれだった口吻は綺麗になり、白い毛並みは艶を増して一回り体格が大きく、若々しくなったような気がする。
「ジャムジェムやオージアスは無理でしたが、彼はうまく相殺できたようです。今はもう普通の犬ですよ。出口まで彼が案内してくれます」
「でも……っ」
「ここは完全に封鎖しておかなければなりません。〈神遺物〉がごろごろしてますから。錬魔術研究所に見つかるとまずい。さぁ、早く行って。私も後から追いかけます」
 ソニアはたまらずギヴェオンに抱きついた。彼はまだシステムと連結した異様な姿だったが、そんなことはどうでもよかった。
「絶対に戻ってきて」
「ええ、必ず」
 見られないように目許を拭い、ソニアは出口へ走った。勇んでコーディが駆け出す。最後に見たギヴェオンは無邪気に笑っていた。初めて会った時みたいに――。
 犬はいくつも枝分かれした通路を迷うことなく駆け抜けた。ソニアはスカートをたくし上げ、泣きだしそうになるのを堪えてコーディの後をひた走った。
 背後から響く崩壊の音に追い立てられながら、延々と続く階段を時に踏み外し、臑を強打して悲鳴を上げながら、よじ登るようにして登り切る。
 アーチ型の出口から飛び出すと、すぐ目の前は川面だった。市内を貫流するギオール河だ。見上げれば石造りの天井――橋がある。ソニアが出てきた入り口から轟音とともに粉塵が噴き出した。低い出入口は完全に塞がれていた。
 隙間なくぴったりと、まるで石工がきちんと計ったかのように石が組み合わさっている。
(ど、どうなってるの!? これもギヴェオンが……?)
 呆然としていたソニアはコーディの吠え声に顔を上げた。急いで橋の下から出ると、上から賑やかな音楽と人々の歓声が聞こえてきた。ライトアップされた王宮の遥か上方、濃紺の夜空に、アスフォリア女神の星は未だ神々しくきらめき続けていた。
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