第51話 それぞれの断章#8
文字数 9,169文字
「おう、待たせたな。ッたく。早く行こうってンのに、
到着早々、俺の眼の前で水川が序開を
「すみません。」
「イヤ、気にするな。俺も丁度、読みたかった論文に眼を通していた所だ。元々、昼間に中庭で読もうと思って居たのに、何処かの誰かサンが嵐のように襲来してきて世間話を始めちまったからよ」
俺は持って居た論文を丸めて手の平をポンと軽く叩いた。
「ちぇッ。どいつもこいつも、研究のコトしか頭に無ェ奴等ばっかりだ。」
水川が口を尖らせて腕を組む。
「ふふ。だけれど水川さんだって、此処最近はしっかりと仕事をなさっていましたモノね。」
拗ねる水川の顔を見上げながら、序開が隣から褒めてみせた。其の言葉に水川が満面の笑みを浮かべ、みるみる内に機嫌が良くなるのが見て取れた。
「へぇー。お前もチャント仕事してるンだな。」
「云ってろ」
俺が軽口を叩いて当てつけるように云うと、水川も其れに対抗するかのように得意げな顔をする。そんなやりとりをしながら、正門を抜けて送迎バスの停留所へと向かうと、其処には既に長蛇の列が出来ていた。研究所の敷地内には宿舎もあり、地方から来た研究員や
バスに揺られながら日の沈みかけた山中を三十分程下ると、やがて街が見えてくる。車窓から見える街並みからは、既に周辺の居酒屋に客が
「おおー、良いねェ。」
バスの段差を下り、地面に足をつけた途端に水川が声を上げる。其れから序開、俺の順でバスを降りた。辺りを見渡すと果たして水川の云う通り、声を上げたくなるような街の活気に心が躍る。
「…… …」
「オイオイオイ!どうするよ、三四郎。此れだけ店があると、何処に入るか迷っちまうなぁ。」
「ああ、全くだな。」
「折角の飲み会ですし、少し良いお店に行っても良いんじゃないですか?」
序開も笑顔で提案する。此奴は普段は素っ気ないクセに、酒の席になるととても積極的になる。俺たちと同様、余程酒には眼が無い様子だ。
「良いね、其れで行こう!」
勢いを其の儘に水川が返事をして歩き出そうとした矢先、突然水川の背中に何か大きなモノが激しくぶつかり、其の勢いで水川は
「水川ッ!」
「水川さんッッ」
「…… … …ッ
俺たちが声を上げる中、水川が上体を起こして膝を抑える。片方のズボンの足を
「オオー。… …ソーリー」
「…… … …」
「…… … …… …水川?」
だが、
「…… …水川、大丈夫か?!」
「…… …大丈夫ですか?」
「… …… …… …」
俺たちの声等聞こえないかのように、依然水川は押し黙っている。だが、よく見ると其の視線は恨めしそうに一点を見つめているコトに気が付いた。其の視線の先を辿っていくと、其処には遠く小さくなりつつある、今しがたの軍人たちの姿があった。
「…… …。 … …水川?」
俺は何を云って良いのか分からず、水川の名を呼んだ。其処で漸く男たちを見ていた水川が、ぽつりと呟いた。
「…… …… …。… ……なんで、奴等みたいな人で無しが、俺たちの国を、我が物顔で歩いてやがるんだ。」
「…… … … …… …」
「…… …俺たち日本人を散々殺したにも関わらず、今尚、此の国に居座り続けて… …。そして、自分たちの都合の良いように此の国を改造しやがるんだ。そんなコトが許されて良いのかッ」
「… …… … …」
「水川さん… …、…… …水川さんってばッ。一体どうしちゃったんですか?!」
水川はまるで自分に云い聞かせるかのように言葉を紡いでいたが、序開が何度も呼びかけるのに気がつき、漸く我に返るように顔を上げた。
「…… … …。… ……あ、ああ…」
「…… …… …大丈夫か、水川。」
「… …。…… …三四郎… …… …イヤ、すまない。
水川はそう云うと、直ぐに立ち上がってズボンについた砂埃を軽く払った。
「… …今からお楽しみだってのに、水を差しちまったな。すまねェ。… ……。… …とりあえず、こっからまた仕切り直しさせてくれ。… ……マァ、水川がやったコトだけに、此処は勘弁して水に流してくれねーか!?… …って、水差したり水流したり、其れを水川がやるって、これじゃあ、水だらけでびしょ濡れだなァ。はっはっはっは。」
水川は無理やり場の雰囲気を切り替えるかのように、詰まらない軽口を叩き、一人大袈裟に笑った。其の水川の気遣いを感じ取った俺と序開も、今は水川に合わせるコトにした。
「… ……馬鹿野郎。詰まンねーコト云ってんじゃねーよ」
「もう。
あの
それから俺たちは、序開が同僚の所員から教えてもらったと云う居酒屋に入った。通りから脇道に逸れた一角に立つ其の店は、客の入りも程よく、馬鹿騒ぎしているような連中も居ない。俺たちは隅の机に案内された。俺の眼の前に水川と序開が座る。運ばれてきた料理はどれも美味く、あまり他所では見るコトの無い名酒の数々に俺たちは舌鼓を打った。俺たちはみるみる内に酔いが回り、仕事からの解放と久々の同期との酒盛りと云うコトで、普段よりも饒舌になった。最初は研究の内容等仕事についての話をしていたが、会話の内容は徐々に互いの身の上話へと移っていく。
最初に話題に上がったのは、水川と序開の馴れ初めの話だった。俺自身、水川から序開と付き合い始めたと云う話を聞いただけで、其れ以外の話を聞くのは初めてなので興味があった。
「何時、序開に交際を申し込んだんだ?」
俺は単刀直入に水川に聞いた。水川は既に赤い顔をしながら、目線を上に向けて思い出そうとする。
「えーっと… …そうだな… …」
一瞬考え込むような水川の脇腹を、序開が軽く肘で突いた。
「
「…… …イテテ。イヤ、分かってるッて。記憶を辿っているだけさ。今暫くお待ちを… ……。… …っと。そうそう。初日の騒動の後、二か月くらいしてからかな。」
「へェ。意外と奥手なんだな、お前って奴は。」
俺は少し口角を上げながら、ワザと茶々を入れてみる。
「う、煩ェやい。何時もはそんなコトは無いンだけどよォ… …」
「…… …何時も?」
水川の言葉を聞いた序開の赤い顔、眉間に稲妻が走った。
「あ、イヤイヤイヤ、えーっとォ。だから、違うんだってェ」
「何が違うんですか?」
仲の良い痴話喧嘩が始まるのを見て、其れを肴にと俺は酒を一気に飲み干した。お嬢様育ちの序開に、水川が恐る恐る慎重に交際を申し込んでいる姿が容易に眼に浮かぶ。
「ハイハイ、お二人さんトモ、お熱いコトで。」
「やっ!」
「ち、違いますよッ」
酒を飲んで饒舌になる序開も面白い。普段はお堅く表情もあまり変化させないが、こういう席では、年相応の女子のような様子だ。色々なコトを取り留めも無く楽しそうに話す序開を見るにつけ、水川は時折見せる彼女の、そんな茶目っ気に惚れたのかも知れない。
其れから話は序開の素性に及んだ。彼女の家系は代々研究者であり、彼女の両親もまた、研究者だと云う。そんな家系であるので、彼女は世に蔓延る世間体と云うものとは無縁の価値観を持って居た。そんな聡明な両親の影響で、序開も多いに勉学に励んだそうだ。また、そんな序開家の家風は、男女間の問題にも及んで行く。
「実は
俺はあまりの予想外の序開の告白に、少しく酒を吹き出してしまった。俺は口を拭きながらもう一度聞き返すと、序開は俺の驚いた表情にご満悦の様子で、
其の子供は、序開が十代の頃に交際した男との間に出来た子だった。序開と男は結婚を約束していたものの、男は学徒出陣により徴兵され、其の後戦死したらしい。序開は男については若気の至りであり未練は無かったが、子供のコトはとても愛しているのだと云う。
「お前も、娘さんのコトは知ってるのか?」
「ああ、勿論さ。其の上で交際を申し込んだんだ。」
男手が無いとは云え序開は働いて居るし、何より彼女の家には子供を育てるだけの人手も蓄えもある。其れに元来の自由な家風も相まって、序開には片親特有の悲壮感と云った所が少しも無かった。今日の飲み会も、子供は実家で序開の両親と幾人かの家政婦たちと楽しく過ごしているのだそうだ。序開の研究においての優れたな斬新な発想や、世間の一般常識に捕らわれない価値観等は、両親からの影響が大きいのだろう。
「マァ、俺たちのコトはこれくらいにして… ……」
水川が並々と酒の入ったグラスを此方に向けて絡んでくる。突き出したグラスから酒が幾らか机の上に零れた。
「三四郎。オメーのコトも話せよ。
「… …
「阿川さんが、大層お褒めになってましたヨ。アイツは中々強いッ!、なんて。」
「…… …マァ、生まれつき身体がデカイもんだから、力はあったんだよ。大学時代、アマチュアボクシングの大会もあって優勝したんだが、肩を痛めちまった。其れからは、身体をほぐす程度しかやってない」
「優勝だって!?……大したもんだな、お前って奴は。俺は運動神経についてはテンでダメでさ。走っても仲間の内で最下位。野球してても
「水川さんの走り、本当に遅いですものね。
序開が箸をつんつんと水川の方に向けて軽口を叩いた。
「其れは無い!断じて、無いぞ」
「うふふ」
「…… … …と云うかよォ、三四郎。そんな俺に比べたら、勉学も出来て
「竹田さん、学生時代は大層、
序開が嬉しそうに顔を近づけて、聞いてくる。俺は突然眼の前までやって来た序開の赤い顔に動揺して、跳ねるように身体を逸らした。勢いで、頬張っていた刺身をごくりと全部飲み込んでしまった。
「おほほ、さては動揺して居るね!三四郎クン。観念して、話してしまいなさい」
水川も序開を援護射撃するかのように俺に向かって詰問を続ける。
「…… …ごほっ、ごほっ。…… …わ、分からないよ。…… …確かに大学の時は
「マァ、素敵ッ!」
「カーッ。なんて、不届きな野郎だァ!」
「だけれど、そんなのどうでも良い。」
「何故ですか?」
序開が更に身体を近づけて聞いてくる。彼女は酔うと不用心になるから
「結婚を決めている女性が居るんだ。」
「そうなんですか!」
「へー」
俺は故郷に心に決めた女性が居る。俺の出身は関西の兵庫県だ。大学入学を機に上京し、卒業後は研究職に就いたが、いずれ其の女性と一緒になるコトは約束している。
泥酔した水川はそう云った俺の境遇を聞くなり、最初は感心して居たものの、男と云うものは冒険をしなくてはならぬ等、男とはどう云ったモノなのかというコトを滔々と語っていた。序開に頭を叩かれながらも力説する水川だったが、暫くすると「お手水へ」と云うなりふらりと立ち上がり厠へと歩いて行った。俺も序開も既にかなりの量の酒を飲んでいた。
「…… …うふふ。アー、面白い。」
「… …ああ。確かにな。」
俺は宴がひと段落したかのように落ち着きを取り戻し、ゆっくりと酒を飲む。序開も
「…… …。… ……本当に、… …本当に、有難うございます。竹田さん。」
「…… …。どうしたんだよ、水臭い」
序開が机に頬杖を突きながら言葉を続ける。
「… ……あなたが、あの時、身を挺して
「……。…何度も云うけど、あれは俺の御陰じゃないよ。阿川の御陰だ。」
「いいえ。…… …あの時、あなたが不坐から守ってくれたから、
「… …マァ、アノ時は俺しか居なかったからね。水川も気を失ってたからさ。必死だっただけだよ。」
「…… …。あなたの御陰で、
序開の真っすぐな、潤んだような視線に耐えきれず、俺はグラスに残った酒を一気に飲み干した。
確かにあの日、俺たちはよく生き延びるコトができたと思う。其れ程の危険が此の身に迫っていたコトは確かだった。学徒出陣も免除された俺たちにとって、命の危険が此処まで間近に迫ると云う経験は、戦時下でも無かった。一つ間違えれば、今此の席に居る誰かが欠けて居たかもしれない。そう考えると、背中に薄ら寒いものを感じると同時に、生き延びるコトが出来たと云う奇妙な実感があった。
其れから俺と序開は酒を頼んで世間話を続けて居た。だが不図、水川の帰りが遅いコトに気が付く。
「…… …あれ。そう云えば、水川の奴、帰ってくるのがやけに遅いな」
「… …アラ、確かに。…… …あ、もしかすると、何処かで寝てしまって居るのかしら」
序開が両手でグラスを持ちながら辺りを見回してみるが、水川の姿は見当たらない。
「…… …ああ。どうやら、そうらしいな。… …仕方が無い。少し、探してくる。」
「はい。お気をつけて」
序開の言葉を背に聞きながら、俺は早々に席を立ち厠の方向へと歩いて行った。厠は、一度店の裏口を出てから少し歩いた離れにあった。裏口を出ると辺りは既に暗くなっていたが、所々に設置されている裸電球や、周辺の店の明かりがある為、外を歩くのには殆ど困らない。俺は厠の前まで来てみたが、其処に水川の姿は無かった。
「…… …。…… …ったく。何処に行っちまったんだ」
俺はふらつく自身の身体を感じながら、舌打ちをした。と、其の時向こうの方で争う声が聞こえる。其の聞き覚えのある声に、俺の心臓が大きく一つ鳴った気がした。一瞬で酔いの覚めた頭で、声の方へと走り出す。
其処に居たのは、
「おいッ!水川ッ!何をやっているんだッッツ」
恐らく胸倉を掴んだ相手は、
「…… …クレイジー、ジャップ」
振り下ろすように放たれた右拳が水川の左頬に直撃すると、其の儘水川は玩具の人形のように地面へ叩きつけられた。追い打ちするかのように水川の身体に馬乗りになる
「…… …畜生ッツ!!」
俺は必死で水川の元に駆け寄る。再び
「…… …!?」
驚いたような顔を俺に向ける男。何と声を掛けて仲裁しようかと考えていた矢先、水川が大声を張り上げて男に掴み掛かろうとする。
「う、うわあああああああああああああッ!!!」
俺は直ぐに水川の両腕を掴み、
「アンタ等ッ。早く行けッ!頼む、俺たちの前からさっさと消えてくれッッ」
俺の必死の形相と、暴れる水川を押さえつける姿を見て、俺に争う意思が無いコトを男たちは汲み取ったようだった。呆れるような表情と幾つかの暴言のような言葉を吐きながら、男たちは直ぐに其の場を離れて行った。
俺は其の場で水川の両腕を掴んだ儘、放心したかのように留まっていたが、水川が無理やり腕を振りほどいたコトで我に返った。
「…… … …」
水川が其の場にどさりと座り込んだ。
「… ……水川… …… …お前。…… …一体、何をやってるんだよ」
「…… … … … …」
「……… … … …俺たちは戦争に負けたんだ。お前が奴等に喧嘩を吹っ掛けても、何かが変わるワケじゃない。… …仕方ないだろ」
「…… … … …」
水川は顔を伏せた儘、動かない。
「…… …一体、どうしたんだよ、水川。酔っぱらった所為にしては、あまりにも見境が無いんじゃないのか?」
「…… … …… …… …。…… … …」
「…… …… … …」
俺たちの間を、生暖かい風が通る。俺たちの額には、何時の間にかじんわりと汗が浮かんでいた。静寂が何時までも続くのかと思ったトキ、水川が小さく口を開く。
「…… … …… …。… …… … …俺はさ、三四郎」
水川が口を開いたトキ、俺は唐突に或る考えが頭の中をよぎった。詰まり、俺たちは今日、互いの身の上話を語り合ったと思っていたのだが、其れは少し違っていたのだった。水川は、今日の酒の席で、少しも故郷のコトについて語らなかったのである。
「…… …俺の住んでいた所は、小さな集落だったんだ。…… …小さいと云っても、其処は身を寄せ合うように幾つもの家が
「…… … …」
「… …俺の家は、そんな集落の大地主だった。金だけは有り余るほど持って居た。だが、集落の奴等との間には、垣根なんてものは存在しなかった。俺は集落の皆と兄弟のように仲が良かったんだ。仲間も俺の家のコトについては知っていたが、俺たちにとっては親が金持ちであろうが、貧乏であろうが、そんなコトは一切関係無かったんだ。」
「…… … …」
水川が顔を上げ、俺の顔を正面から見据えた。眉間に幾つもの皺を刻み込み、眼は真っ赤に充血している。
「…… … …。戦争で、俺たちの集落は全て焼き尽くされてしまった。そして、仲間と其の家族たちは、攻めて来た
「… …!」
「…… … …仲間が
「…… … …」
「… …… … …今更、両親がやったコトに対して、とやかく云うつもりは無い。親が自分の子供を守る。至極当然のコトさ。……。…… … …只…… …俺は… … …」
「…… … …」
「…… …。…… …俺は、
「…… … … …何も、だって?」
「… ……俺は
「…… …お前が、責任を感じる必要はない… …」
「… ……
そして、水川は少し逡巡するような表情で俯いた後、覚悟を決めたかのように、もう一度顔を上げて俺を見た。
「…… … …… …三四郎。…… …… … ……俺は、…… …… …。……… … …俺は、