風がアタシの頬にぶつかって逃げていく時、ついでに若干の体温も奪っていく。とても気持ちが良い。竹田の住んでいるマンションからほど近い此の川は、せいぜい川幅が200メートルほどで、何処にでもあるような平凡な川。私は今、其の川を見渡すくらいの上空にフワフワと浮かんでいる。竹田と
殺り合って式神となってから、アタシは
偶にこうやって川の上で寛いでいる。自由に空を飛んで宙に浮かぶ此の不思議な感覚は、式神の身で享受できる役得の一つだ。我が身に降りかかった此の可笑しな境遇を、私は意外と楽観している。
こうやって川でぼーっとしている事は竹田たちには内緒にしている。其れに、ヨウコだって知らない。仰向けになって寝転がりながら足を組んで、道行く人の様子を見るともなく見ている。アタシの頭の上を薄い雲が通過していく。なんにもしないで過ぎて行くゆっくりとした時間。
竹田は
繋ぎ止める者なんてモノになって主人面してるケド、アタシが今何処で何しているかって事までは把握できないみたいだ。せいぜい『今、遠くに居る』と感じる程度らしい。此の辺は式神である
絶姉妹には都合が良い。何もかも把握されてちゃ堪ったもんじゃないし、プライバシーがしっかりと守られているのは17歳の女の子としてはとっても有難いのである。
「あー、今日も相変わらず、良い天気だなぁ。」
今は、朝の9時半。ケンザの店から帰ってきたのが夜中の3時だったから、竹田もヨウコもまだ眠っている。だけど世の中の人たちは皆、学校に行ったり会社に行ったりと、既に日々の活動の真っ最中だ。
昨日クライン76でケンザのジイちゃんと出会って、其れからジイちゃんのお店について行って。其れで、こんな綺麗で高価な
指輪を貰ってしまった。太っ腹なジイちゃんだ。初めて会った人なのに初めて会った気がしない。なんだか、アタシの事をとても心配してくれているような、気を掛けてくれているような、まるで血の繋がったおジイちゃんのような気安い雰囲気を持った人だと思う。私に対してそんな感覚で接してきた人なんて、家族以外では二人目だ。一人目は、殺人教育機関に居たあのおせっかい野郎。…… …なんて、まぁ此奴のコトはとりあえず今は閑話休題。
私は顔の上で左手を伸ばす。
鳩の血色の紅玉の嵌った中指の角度をゆっくりと変えてみると、太陽の光が反射して燃えるようにきらきらと赤く輝いた。
「…良い天気と綺麗な指輪… …はぁ。最高だなぁー」
私は指輪を眺めながら、寝そべった身体をくるくると横回転させる。
昨日の話合いの通り、竹田と
絶姉妹は竹田のおジイちゃんに会いに行く為に兵庫県の姫路市へ向かう事になった。竹田曰く、其処から電車を乗り換えて更に山奥へと行くらしい。小林とトミーさん、其れから
真崎の方は
都内に残って、一週間の能力者、つまり
木曜野郎
をどうにか探す。
此奴が敵か味方か、協力的に振る舞ってくれるヤツなのか、打算的なヤツなのか。正体が全く分からないだけに、リスクはかなり高いと思う。
「てか
真崎、敵だったクセになんか知らない内に仲間になってるし。」
クライン76の
暗殺者として私たちを急襲してきた真崎。トミーさんの
水使いの
超能力で返り討ちにされ殺されそうになっていた
真崎を、手掛かりだからと生かしたアタシが云うのもなんだけど、何時の間にか自然に馴染んでいるアイツのコミュニケーション能力には素直に関心する。なんだかんだで、皆の為に動いているし、見かけは寝不足でヤバそうなヤツだけど、そんなに悪いヤツじゃなさそうだ。
此処二日はメガネザル野郎と
弾丸吐きのデーモンとの連戦だったから、流石に皆疲れていた。竹田はパソコンの前で俯せになって
鼾をかいていたし、ヨウコも竹田ん
家のリビングに浮かんで、死んだように眠っていた。翻ってアタシはと云えば、アタシは元来がショートスリーパーなので、大体三時間も眠れば十分に休息は取れてしまうのだ。だから、誰よりも早く眼が覚めて暇になったアタシは、窓の外の陽気に誘われて何時ものように此処まで来てしまったのだった。
「あれは、スーパーマーケットに荷物を運ぶトラックだな。… …あっちは楽しそうに男の子と女の子が話してるから、此れからデートなのかな。… ………。うん… …あれは… …」
川に来たときに何時もやっている人間観察。空の上から車道を走る車や、道を歩く人を見ながら、色々と想像を膨らませてみるのは結構楽しい。世界にはこんなにも沢山の人が生活していて、其の数だけ色んな生活があるなんて、一体どれだけの途方も無さなんだろう。だから、どれだけ想像しても想像し足りない。殺人教育機関のような人気のない自然も大好きだけれど、都会にもまた違った楽しさがあるのだ。
そんないつも通りの楽しみ(こんなバカみたいな趣味、ヨウコにはとてもじゃないケド云えない)を謳歌していると、不図、橋の下を歩く人に眼が止まった。
「… ……学生服……」
直ぐ眼下には比較的幅広の橋がある。其の橋の下をとぼとぼと歩く学生が居た。川を並走するように続く道で、川沿いに自生する植物に手を触れながら、所在なさげに歩いていた。小林が着ているような詰襟の学生服を着ており、背丈も中学生くらいに見えた。
「……。 …… …小林?」
其の身形から一瞬小林かと思ったけど、どうやら違う。此の学生は学生帽を
目深に被っていて、刈り上げた後頭部を見るにどうやら丸坊主のようだった。上空からなので表情は分からない。今の時間は学校に行っている時間じゃないのか、なんて思ったりもしたけど、ちゃんとした学校と云うものに行った事が無いアタシは、其の辺の事情には暗いので、屹度学校が休みなんだろうなと思った。私は引き続き此の中学生を観察する事にした。何故かと云っても理由なんてない。強いて云えば他に眼を引く観察対象が無かったからだ。至って単純な暇つぶしだし、ぼけーっと何も考えるでもなく眼で追いかけて、飽きたら止める。割と休憩出来たから、此の観察の気が済んだら、さっさと帰ろうと思っていた。のだけれど。
「……… !… ……」
其の時、川沿いを歩いていた中学生の様子に異変があった。足を止め、前方を注意深く見ながら何かを警戒をしている。私は寝ころんでいた身体を起き上がらせて、其の視線を追いかけた。
向こうの方、距離にして前方100メートル程離れたところに5人程の集団が居り、ゆっくりと歩いてくるのが見えたのだ。遠目だが、皆ジーンズに革ジャンと云う出で立ちだ。其の印象は20代くらいのガラの悪い不良っぽい奴等。平たく云えば、
身形は竹田のような所謂チーマーのようだっだ。そして其の内の何人かの手には棒のような物が握られている。恐らくは武器だろう。鉄パイプや角材だ。
其の内、集団の足取りが徐々に早くなっていく。まるで獲物を見つけた猛獣のような勢いで、其の5人が一斉に走りだした。奴等は明らかに中学生に狙いを定めている。
「…… ……」
不良から眼を戻すと、中学生は既に腰を抜かして地面に倒れ込んでいた。慌てて起き上がろうとするものの、踏ん張る足を何度も砂利の上で滑らせていて立ち上がる事が出来ない。其の姿があまりにも鈍臭くて、見ているだけなのに大層焦れた。
「…… …… …馬ッ鹿… … ……なにやってるンだよ、もうッ」
イラついた気持ちが思わず口をついて出る。他人の抗争なんて私にとっては
些とも関係が無いのに、妙に此の中学生の動向に心を奪われてしまっている。どうやら私は知らず知らずの内に、此の中学生に小林の姿を重ねているようだった。
狼狽えてまともに逃げることすら出来ない中学生と、其れを全力で追いかける成人の男共。状況は当然の帰結を生んで、あれよあれよと云う間に中学生は男たちに囲まれてしまった。男の一人が此処まで聞こえる程の怒声を上げながら中学生の胸倉を掴んでいる。また別の男が中学生の学生帽を掴んで地面に投げ捨てた。綺麗に刈られた丸刈りの頭が、狼狽するように
彼方此方へと動いている。恐らくは最早逃げることは叶わないだろう。其の力の差は歴然で、後は煮るなり焼くなり生殺与奪は男共に委ねられている。
それにしても、此れは一体どういう状況なのだろう。
喝上げ?ちょっと前まで小学校に通って居たような子供が、果たして成人の男共を満たす程の現金なんて持っているのだろうか?だが、不図思い浮かんだ疑問をかき消すかのように、眼下で中学生の顔に力の限りの拳がブチ込まれる。中学生は其の勢いで一度跳ね上がり、思い切り地面にひれ伏してしまった。砂煙をあげながら打ち捨てられた身体。着ていた学生服が、砂と埃によって一気に薄汚れていく。
「… …… ……」
其れを合図とでも云うかのように、他の男共も中学生に対して一斉に攻撃を開始した。振り上げられた鉄パイプや角材が鋭い軌道を作って、足元で丸まっている人間に容赦なく振り下ろされていく。其の時、私は気が付いた。… …違う、此れは
喝上げなんて生易しいモノじゃない。発散だ。破壊衝動の発散。男共は、鬱屈した暴力衝動を、明らかに力の劣る人間へと向けて節操も無く発散しているのだった。
「… ……… …。… …コイツ等… …… ……」
気が付けばアタシの両拳は力の限り握られていた。許せない。自身の快楽の為だけに、力の弱いモノの命を弄ぶ。
暗殺者として子供の頃から生きてきて、此れまでも同じような場面を腐るほど見て来た。そして、其の加害者の表情は、何時も例えようもなく醜く歪んでいるのだった。そう、今目の前で笑みを浮かべている奴等の顔のように。
そう考えていた私の身体は、既に全速力で降下していた。握った拳は既に真っ赤に燃えている。重力に任せて一気に中空を下りていき、眼下の直ぐ其処まで男共の姿が迫っていた。
まず一番手前の男の頭上、私はその男の顔面目掛けて力一杯の拳を突っ込んだ。男の顔面に捻じ込むように拳がめり込んでいく。落下のスピードも相まって、増幅したエネルギーが男の身体へ全て伝わっていった。爆発するような速度で男の身体が弾け飛び、30メートルほど向こうへ倒れた。其の儘、奴等の立っている脇へと着地する。慣性で踏みしめた両足が地面を滑った。
立ち上がって下衆の血液がこびり付いた左拳を地面へ振り下ろすと、血の赤が薄茶色の地面に
駁に模様をつけた。顔を上げると、男たちの度肝を抜かれたような阿呆面が一斉に此方を向いている。
「… ………!!!… ……」
突然のことに男共は声を上げることすら出来ない。私の眉間に深々と鋭い皺が作られている。左拳を右の手の平に突くと、再度左拳に炎が点火した。
其の私の姿を見て、男共が一斉に距離をとった。今のアタシの攻撃でかなりの不意を突かれて動揺しているハズだが、直ぐに切り替えて臨戦態勢をとっている所を見ると、
強ち腰抜けの集団ってワケでもないらしい。
「… ………てめェら… …。……
子供相手に、詰まんねーことやってンじゃねーよ」
アタシは勢いに任せて思い切り
啖呵を切った。明日竹田の故郷に行く手前、
大事になって目立つような事だけは避けたい。短時間でさっさと追い払ってしまいたいのだけれど。