第53話 それぞれの断章#10
文字数 7,932文字
戦争に起因する水川の激しい憎悪。あのトキ、俺は一体何が出来たのだろうか。アイツの悲しみと憎しみに対して、もう少し歩み寄り、理解し、寄り添うコトは出来なかったのか。飲み屋での
「…… … …水川さん、お身体の方は、特に問題なさそうでした。只… …」
中庭の壁に
「… …只?」
「…… …其の、… …酷く塞ぎ込んで居て。
「… ……そうか。」
「…… …竹田さん。水川さんは一体、どうなさったんでしょうか。アノ、
序開はそう云いながら、俺の顔を真っすぐに見た。序開は心の底から水川を心配しているようだった。
恐らく水川は自身の過去と心の奥底に眠る憎悪を、序開に話すコトが出来なかったのだろう。黒い自身の側面を、序開にだけは見せたくなかったのだ。
「…… … …。」
「…… …竹田さん、お願いします、何か知っているのであれば、教えてください!」
だが、此の儘では
「…… … …分かった。」
其れから俺は、序開に水川の過去を話した。水川の育った集落での生い立ち。そして、その水川の故郷が、先の戦争の際
「……… …で、でもッ、今回の戦争では、本土決戦はなかったハズでは… …?」
「…… …… …公になって居る話ではそうだが、実際には日本全国の其処彼処で、上陸の形跡が有ったんだ。…… ……所謂、
「…… …そんな… …… …」
「…… … …水川は多分、そんな暗い話を、お前にはしたくなかったのかも知れない。」
「…… … …… …」
そして俺は、あの決意に満ちた水川の表情を思い浮かべる。
「…… … ……水川は、話の最後にこう云ったんだ。『三四郎、俺は
「…… …!」
序開は眼を見開き、息を呑んだ。
「…… ……だが、アイツにだけは、そんなコトさせちゃ
「…… … ……」
「… …… …だから、俺はお前に話したんだ。アイツの一番近くに居るお前に。…… …今、水川の心に寄り添えるのは、序開、お前しか居ない。」
「…… …。…… …ええ。」
序開がゆっくりと頷く。此の俺たちの心配が、マッタクの杞憂であれば其れで良い。
序開は今後も水川とは極力連絡を取り、時間があれば自宅にも足を運ぶと云う。然し、彼女にも子供が居るので、生活に支障の無い範囲で分担して対応しようと云うコトにした。其れから俺たちは、研究についての取り留めの無い話をしていたが、不意に研究所内が騒がしいコトに気が付いた。
「…… …ウン?…… …なんだろう。」
「…… ……緊急招集でしょうか?」
「…… …
俺は中庭に面した壁面の窓を開け、忙しなく走り去ろうとする所員の肩を掴んで声を掛けた。
「…… …おい、一体どうしたんだ?」
俺の静止で身体を仰け反らせた所員が、顔を此方に向けて答える。時間が惜しいのか、今にも走り去りそうな雰囲気だ。
「部外者が研究所に侵入したんだよッ!」
「…… …なんだって?」
「… ……ったく。最近入った新人の門番の所為だッ!アノ野郎、
「… ……其れで、其の部外者とは、一体何者なんだ?危険なヤツのか?」
所員は少しく苛立っているのか、俺の問いに訝し気に答えた。
「… ……危険?… …ンなモン、あるワケねーだろ。只の中年の男だよ。今、研究所の中を縦横無尽に走り回って、何かを叫んで居る。そもそも此の施設の存在自体、一般の人間には大ぴらにされてない施設なんだから、何かと詮索されると後々面倒なんだよ。だからこうやって急いでんだ、分かるだろ?分かったら、さっさと其の肩に乗せた手を離してくれると助かるんだが」
「… ……あ、ああ」
所員が皮肉たっぷりにそう云った所で、俺は反射的に手を離す。すると所員はそれっきり何も云うコト無く、其の場を走り去って行った。
「… …… ……」
「…… …物騒ですね。」
「…… …… …俺、
「…… …え?」
そう云い放った俺は、序開が口を開くのも待たず中庭を離れた。廊下へと戻り、所員の向かった方へと足を向ける。
正直、自身でも何故そんな行動をとったのかは分からない。所員に協力して男を捕まえようと思ったワケではない。かと云って、野次馬根性とも違う。此の感情を改めて言葉にしてみれば、其れは俺たちの頭上に浮かび上がる、此の奇妙な不安と関係があると直観したからかも知れない。
俺は何か大事なモノを探すかのように、必死で廊下を走り回った。まだ所内には、此のはた迷惑な部外者を追い払う為に奔走する所員の姿があった。俺は所員に出会う度に、現在の状況を聞いた。現在は第一研修室に立てこもって居る、現在は廊下を走って逃げて居る等、情報を聞く度に俺は其の場所に直行した。が、中々遭遇するコトが出来ない。其の内息も上がってきて、段々と馬鹿らしくなってきた矢先、男が捉えられたコトが分かった。どうやら、研究所の裏手で捕まえられたらしい。今は数名の所員に連行されながら、玄関から締め出されているのだそうだ。俺は火照った身体から白衣を脱ぎ、正面玄関へと急いだ。
果たして、玄関を出て少し向こう、広大な広場を二人の所員に両脇から押さえつけられながら、引きずられるようにして遠ざかる男の姿があった。其の後ろからも別の所員が二名、そして門番と思われる一名が続いて居る。俺は深呼吸をして息を整えながら、額に浮かぶ汗を右手で拭った。手の平がべっとりと汗で濡れる。其れからもう一度深呼吸をして、早足で男たちの一向を追いかけた。
「… …ッ!…… …離せッ!!」
まだ観念して居ないのか、男は必死に抵抗しながら大声を上げる。だが、其の度に所員たち全員で押さえつけられ、潰された犬のように身動きが取れなくなって居た。あれでは最早どうするコトも出来ないだろう。そうやって時折立ち止まる男たちと、早歩きで近づく俺の距離は徐々に縮まっていった。其れにより、不明瞭だった男の声が少しずつ聞こえてくる。
「…… …お前等ッツ!!嘘つくんじゃねェッ!!… ……カツエ!!!」
「黙れッツ!!此れ以上、暴れるなッ!」
「カツエッ!!何処だァアアア!此処に居るんだろう!… ……お前等ッ!…… …カツエに一体何をしたんだッッ!!」
辺りに轟く男の声。
「…… …!?」
其の男の鬼気迫る言葉を聞いて、俺の足が不意に止まってしまう。どうやら、此の男は誰かを探しているようだった。
「こっのッ!もう其の女は、此処には居ないと、何度云えば分かるんだッツ!!」
「… ……
男の言葉を聞いて、所員の幾人かが同時に苦虫を嚙み潰すかのような表情を見せた。
「…… …チッ。此のおっさん、話になンねェ。警察に突き出してやろうか」
「
揉み合う男たちの後ろで、残りの所員たちと門番が相談する声が聞こえる。話を総合すれば、男の探し人は
やがて正門まで引きずられた男は、両脇の所員たちに力任せに投げ捨てられると、全身を地面に打ち付け倒れ込んだ。
「…… …うっ、ううぅ… …」
「…… …あんた、今日の所は
「… …… …クソッ… … …」
「… … ……ったく。一体、何なんだ。此奴は。迷惑なおっさんだぜ。」
所員たちは男に様々な言葉を浴びせると、其々が伸びをしたり肩を回したりしながら、踵を返し戻って行った。正門の外に打ち捨てられたように倒れ込んだ男は、その場所から立ち上がるコト無く、暫く呆然と地面を見つめているのだった。俺は脇を通り過ぎていく所員たちの、其の俺を見る怪訝な表情を其の儘に、凝っと男を眺めていた。其の俺の隣を、一つの影が通り過ぎる。
「… ……!」
序開だった。
序開は男の隣にしゃがみ込みながら、男の服についた砂埃を
「…… …大丈夫ですか?」
「…… … ……」
男は終始無言だったが、其の表情は幾らか落ち着きを取り戻しているかのように見えた。
「…… …序開… ……」
俺の言葉を聞いた後、序開は此方を見上げ一つ頷いた。其の儘、更に男に向かって声を掛ける。
「…… …お見受けした所、何か大変お困りのようですが… ……。力になれるかは分かりませんが、
「… …… …… …」
「… …… …突然、研究所に押し入ってくるなんて、少し乱暴過ぎやしないか」
序開に続いて俺も言葉を挟んだ。研究所に不法に侵入してでも探している人物とは、一体誰なのだろう。
「…… … ……。 …… …… ……大人しく待って居ても、アンタ等は無視を決め込むだけじゃないかッ」
男は依然として地面の上に座り込み、立膝をしながら答えた。
「… ……どう云うコトだ?一体、アンタは誰を探しているんだ。」
「…… …… ……。 …… …一か月ほど前から、女房の行方が、分からなくなった。」
「奥様が?」
「… …… …ああ。」
序開の方を向いて、男は深く頷いた。
「其れが、此の研究所と一体どういう関係があるんだ?」
俺は腕を組み、男に更に問いかける。
「…… ……女房は、…… …女房は、此処の
「… ……なんだって?」
「…… ……一か月程前から、女房に電話をしても、繋がらなくなった。… ……女房は
「…… ……何か、失踪する原因に心当たりは無いのか?」
其の俺の言葉を聞いて、また男の表情が一変する。
「そんなモン、あるワケが無いッツ!!… ……一か月前の最後の電話でも、女房はあんなに嬉しそうな声をしていたのにッツ」
「…… …嬉しそうな、声?」
序開が不思議そうに云う。
「……ああ。女房は、嬉しそうに云ったんだ。『もうすぐ、御国の役に立てるかも知れない』と。」
「…… …!」
俺は男の言葉を聞いて、序開と顔を見合わせた。此の研究所で『国の役に立てる』とは、研究所で
「… …… … ……あんた… ……名は?」
俺は恐る恐る男の名を聞く。男は恨めしそうな顔で俺を見上げながら、ゆっくりと口を開いた。
「… ……岸。
「…… …!!」
「…… … ……た、竹田さんッ」
「…… …… …ああ。」
岸。其の名は、俺たちにとって聞き覚えのある名だった。俺と水川、序開三人の勤務初日、
「… … …… …アンタが、岸さんの旦那なのか。」
口をついて出た其の言葉に、岸は眼の色を変えて食い掛かってきた。
「…… …!… …あ、アンタッ!!俺の女房のコトを知っているのか!?… …なぁ!頼むッツ!!何か知って居たら、教えて呉れッツ」
岸は突然立ち上がり、俺の両肩を
「… ……ま、待って呉れッ!俺たちだって、数日前の出征式で彼女を見掛けただけなんだッ。其れ迄は、彼女に全く接触して居ない。… ……
俺は迫りくる岸の顔に向かって、負けじと自身の知るコトを全て語った。其の隣では、序開が相槌を打ちながら、俺の証言が間違いのないコトを暗に肯定して呉れていた。だが、其れでも岸は納得がいかないようだった。
「…… … …其の軍に問い合わせても、『そんな女性の記録は無い』の一点張りだから、困っているんだよッ!!」
「そんな… …まさか… …」
軍に所属して居ないだと?だが、俺たちは確かに彼女の出征式を最後迄見届けた。其れはあの日式に出席した人間のみならず、俺たちのように野次馬根性丸出しで式を見ていた所員と
「お前たちが、組織ぐるみで、女房を監禁しているんだろうッツ!!」
「…… …バッ、馬鹿を云うなッ。何故、俺たちがそんなコトをしなければ
あらぬ疑いを掛けられ、俺の声も自然と大きくなる。が、其の度に序開が俺の背中に触れ、落ち着けと合図を送って呉れた。だが、やがて男は俺たちと話していても埒が明かないと感じ始めたのか、俺たちに嘲笑めいた言葉を吐き捨てる。
「…… …… …… …ハッ。… ……どうやら、お前たちはまだ新米のようだな。… …其の単純な受け答えで分かるよ。…… ……… …馬鹿なコトを云っているのは、お前たちの方だ。自身の勤め先なのに、まるで何にも知らないのか?お前たちは。」
「…… … …。…… ……どう云うコトだ。」
「… …… … ……お前等の研究所。… ……叩けば叩く程、山のように埃が出てくるぜ」
「…… … …なっ。… …… ……でっ、出任せを云うなッツ」
「出任せェ?… … …… … …俺はなぁ、死に物狂いで、やっとのコトで、此の研究所のコトを調べ上げたんだッ!… ……出任せだと思うのなら、自分で調べてみれば良いじゃないかッ!」
皮肉めいた岸の顔が、今度は苦しそうに歪んでいる。
「…… …… …くっ… … …… …… …」
俺は岸の云う言葉に反論するコトが出来なかった。何故なら、俺には思い当たるフシがあったからだ。詰まり、出征式のトキに見た、岸克江の表情。高らかに自身の抱負を語っているにも関わらず其の表情は疲れ切っており、言葉の抑揚に至っては、まるで機械仕掛けのような無機質な印象を受けた。勤務初日に見た彼女とはまるで別人のような姿を目の当たりにして、俺と序開は違和感を感じたのだ。
そんな俺の心を見透かしたのか、岸は大きく溜息を突きながらズボンについた埃を払った。
「… …… …… …マァ、今日の所は俺も大人しく帰るよ。… ……また来る。… …次会うトキまでには、何か目新しい情報を呉れよな。…… ……。… … … …… ……俺は、カツエを見つける迄、…… …何度でも、此処に戻ってくるからな。」
怨みにも似た岸の言葉が、俺の心をざくりと
俺たちの眼から岸の姿が見えなくなった頃、俺は不図我に返って腕時計を見た。時刻は十六時を指している。
「…… … …… … ……序開。」
「… …… …はい」
序開が俯いていた顔を上げて返事をした。
「…… … ……奴の云っていたコト、どう思う?」
「… …… …… …。…… …… … …… …確かに、彼が云うように
「…… …… … ……詰まり… ……まだ俺たちの知らない事実が、
「あくまで、可能性の話ですが」
「…… … …調べてみる価値はある、ってコトか。」
「はい。」
「…… … …今日はまだ、時間はある。… ……俺は今から阿川に電話してみる。お前も無理をしない範囲で良い。何でも良いから、今日から少し岸の云ったコトを念頭に入れて、研究所内を探ってみて呉れ。」
「…… … ……分かりました。」
「……よし。其れと、良いか。決して… ……」
「… ……危険を冒すようなコトはするな、でしょ。」
序開が俺の言葉を引き取るようにして、言葉を繋いだ。得意げな顔で此方を
「… …… …。… ……ふっ。そうだ。」
「… ……ふふふ。」
其れから俺と序開は、研究所の方に向かって歩き始めた。阿川は今日、寺に居るだろうか。何かに急き立てられるかのように、焦る気持ちが俺たちの歩を前へ前へと進めていく。