第46話 それぞれの断章#3
文字数 5,934文字
崩れた壁は今や左右を分断するかのように、真ん中の部分がごっそりと抜け落ちていた。御陰で外部が筒抜けになっている。又、破壊された箇所の断面は、まるで物凄い握力で無理やり千切り取られたかのような、歪な形状をしていたのである。間違いなく、不坐が発揮した
「… ……… …。… …マジ、かよ…」
蚊の鳴くようなか細い声が水川から漏れる。俺たちは呆気にとられた儘、其の場から動くコトが出来なかった。
「… ……。あッぶねェ… …。…イラついて、危うく
俺たちは瞬間的に声の方を振り向く。其処にはまるで準備運動をするかのように右手首をぶらぶらと揺らしながら、不敵な笑みで此方を見る不坐が居た。一瞬で現実に引き戻された俺たちは、自身の置かれた危機的状況を改めて思い出し息を呑む。
「…… …… …」
「
右拳を左手に重く突き立てながら不坐が云った。俺たちはまるで猛獣と相対しているトキのように、
「… …… …ゲフッ… …」
何時の間にか、水川と身体を合わせる程の距離に不坐が近づいていて、其の右拳が深々と水川の腹部にめり込んでいた。
「… …グ、グゥウウウ… …」
両腕で腹部を抱きかかえるようにして、水川が地面に
「てめェ、誰の身体を押してンだよ、アァ!?」
まるで
眼の前で蹂躙されている水川を見ながら、俺は無意識に命一杯の拳を握っていた。だが、恐怖に支配された身体は、まだ云うコトを効かない。
「… …… …やめろ… …」
「……やめて… … … ……やめてよぉ… ……なんで… こんな…… …」
俺の隣で地面に
水川の顔面に四発目の拳が打ち込まれた頃には、抵抗するかのように不坐の身体を掴んでいた水川の両腕は、ダラリと垂れ下がっていた。水川は既に気を失っていたのだ。俺は、全身の血が逆流するような感覚に見舞われる。其の時、不坐が水川の胸倉を掴んだ儘、顔を少し上げて俺を見た。奇妙に歪んだ残虐な笑顔。其の表情を見たトキ、俺の中で何かが弾けた。
「…… ……… …やめろォオッ」
つま先が、地面の土を
頭の底から爆発するような怒りが、俺の身体を無理やり前へと押し出した。
必死に走って近づく俺へ眼をやりながら、不坐は水川の胸倉から手を離した。水川の身体が重力に任せて地面に落ちる。不坐は不敵に笑いながら、俺に向かって正対して構えた。
「…… …… ……」
「… …やっとやる気になったかよ。ヨシ、
俺は走って勢いに任せた右拳を、其の儘、不坐の顔面目掛けて打ち込む。
不坐はまるで其れを確認するかのように軌道をギリギリまで観察した後、少しだけ半身になると向かって右方向へ避けた。俺は大振りが
果たして視界の端から不坐の
珍しい状況では無い
。「オラァッ!」
不坐の叫びと共に、
予想外の反撃にヤツは全く対応が出来なかった。不坐の横ッ面に俺の
「ブッ… … …ブハッ」
不坐の口から血液が吐き出される。だが、完全に不意を突いた奇襲だったにも関わらず、不坐は倒れるコト無く態勢を持ち直した。吐血した口をぞんざいに
「… …… …へぇ。… …… ……てめェ、慣れてンなァ。… ……
不坐が探るように、そして
「… …… …」
殴り殴られは、普通の人より慣れている。不坐が云うように、俺は大学時代に
不坐は
不坐は依然此方を警戒しながらも、じりじりと近寄ってくる。俺は
「… ……序開。」
涙で顔を濡らし、身体を震わせていた序開が俺に顔を向けた。俺は其の顔を見ないよう、不坐へ視線を合わせた儘、序開に云う。
「… …… …今から、俺はヤツに殴りかかる。絶対にお前には手出しはさせない。その間に、お前は思いっきり走って、研究所の中へ逃げろ」
「……で、でも… … …それじゃあ、竹田さんは… …」
「俺は助けが来るまで、不坐に付き合う。水川を置いて逃げるワケにはいかない。… ……
俺は言葉が震えるのを抑えながら、一気に序開に意図を伝えた。
「…… …… … …」
「… ……良いな?」
返事の無い序開に向かって、俺は念押しのようにもう一度云う。
「… …… … … …分かったわ」
序開が涙声で、覚悟を決めたように答えた。
「…… …良し。… …… … …次に不坐との距離が近づいた瞬間、俺はヤツに殴りかかる。其れを合図に、お前は死にモノ狂いで逃げろ。決して後ろは振り返らず、研究所へ逃げ込むコトだけを考えて、走れ。」
地面で砂利を蹴る音が聞こえた。序開が身体を起こし、逃げる態勢になったコトを感じた俺は、眼の前に居る不坐へ意識を集中する。
不坐は俺の動きを見て、俺が
不坐は全く
「オラッ!」
鉤爪のように構えた右手が、切り裂くように俺の顔へ飛んでくる。俺は上体を後方に
「… …序開、逃げろ」
俺は五指を極限まで小さく折りたたんだ右拳を、腰を切って根限りの力で放った。
ぐしゃりと云う聞きな慣れた音が聞こえ、不坐の鼻ッ面、ヤツの顔面のド真ん中へと俺の右拳がめり込んだ。其の儘、腰の回転と両足の踏みしめる力を加え、一気に振り切る。
「… … ……ブッ、… ……ブヘェッッッ… …」
全身の躍動を全て乗せて放った
後方を確認すると、序開が研究所の方に向かって走り去っていくのが見えた。とりあえずは一人、安全の確保が出来た。後はなんとか助けが来るまで時間を稼ぐコトが出来るのか、だが。
「… …… …… …」
奇妙なコトに不坐は仰向けの儘、中々起き上がって来ない。確かに手応えのあった
「…… …… …。 …… … …何をしているッ」
俺は堪らず寝転がっているヤツに向かって問いかけた。其れでも不坐はまだ起き上がるコトはなかったが、大きく深呼吸するかのように胸が動いたのが確認できた。やはり、意識はある。
「… ……。… ……何時振りだろうと、考えて居た。」
「…… …… …」
其処で漸く不坐が身体を起こし、地面に座りつつ此方を見た。片方の
「
「… …… …… … …」
「まるで、通常の人間では感知出来ないような心の移ろいを、
「… ……… … …」
「… …… …… …マァ、
今となってはどうでも良い
」「…… …… …?」
不坐がゆっくりと、立膝の上に肘をつく。そして気怠い表情をしながら右腕を何気なしに振った。
次の瞬間、俺の腹部に強烈な衝撃がぶつかった。
「… …ガッ… ……ハッ… ……」
此れ迄の人生の中で、味わったコトの無いような重く途轍もない衝撃だった。例えるならば、大きな鉄球を、腹部だけに焦点を定めてぶち当てられたかのような。
あまりの激痛に俺は地面に膝をついた。
「ゲ、… ……ゲフッ… …」
咳をすると、鮮血が茶色の地面を染めた。此れは口を切った場合の血等ではなく、内臓が傷ついた際の血液だ。
「……ハァ、ハァ… … ……ハァ… …ハァ」
荒い息が口から止めどなく溢れる。冷や汗が額から止めどなく流れ、痛みに耐え続けるコトしか今の俺に出来るコトはなかった。
「俺が嫌いなモノは、身分を弁えない奴等だ。此の世には強者と弱者が居る。其れこそが世界の真理であり、全てだ。弱肉強食。其の原則が維持されて居るからこそ、此の世界は秩序を保って居る。」
不坐が宙で右手を握り、千切りとるように横へ投げ捨てると、俺の左腕から鮮血が飛んだ。
「………!!… …」
激痛が俺の全身を駆け巡る。肩のすぐ下辺りの肉が少し
「… …弱者はよォ。余計なコトはしなくて良いンだ。おとなしく俺に従ってりゃァよ。そうすりゃてめェ等も、良い思いが出来のにな。だが、もうダメだ」
俺は既に、激痛で意識が朦朧としていた。辺りを見回しても、未だ助けが来る様子は無い。もしかすると、不坐の
「…… …… …」
俺は左腕から噴き出る血液を抑えながら、地面に
「半端な力で俺を挑発したツケだと思って、諦めな」
不坐が眼の前に立ち、俺を無表情に見下ろした。俺は成す術も無く、其の顔を見上げるコトしか出来なかった。不坐は其の俺の頭の上へ、開いた右手を向けた。
不坐の手の形が、異常に鮮明に見えた。分厚く薄汚れた手の平、そして爪の間に詰まった黒い垢。そんなどうでも良いコトに気がつく程、俺の意識は冷め切っていた。恐らく此れが最後の瞬間なのだろう。身体中を体験したコトの無い激痛が、何度も駆け巡りる。確かに不坐が云うように、俺は今や、全てを諦めかけていた。
「それじゃあな。」
不坐が無感情に、最後の言葉を言い放つ。俺は眉間に皺を寄せながら、力を込めて眼を瞑った。
…… …… ……。だが、不思議なコトに何時まで経っても其の時は訪れなかった。イヤ、あまりにも一瞬で、俺自身が死んだコトに気が付いていないだけなのか。と云っても、こんなコトを考えた時間は、時間にすればほんの一瞬だったのかもしれないが。
俺は恐る恐る、眼を開く。
其処には、今しがたと同様、俺の頭の上で手を開いた儘の不坐が、眼の前に立っていた。だが、其の顔は俺では無く、何処かあらぬ方向へと向けられていた。
「…… ……… … …
不坐が苦々し気に呟く。俺は呆然としつつも、不坐の視線の先を辿った。
其処には漆黒の着物に身を包んだ、一人の坊さんが立っていた。
数珠を垂らした左手は胸の前で祈るように立て、右手を此方へ向けて何やら念仏を唱えている。印象的だったのは、其の坊さんの