第44話 それぞれの断章#1
文字数 5,238文字
「三四郎ッ!」
資料の束を左手に持ち、右手の目ぼしい検証結果資料に眼を通していると、背後の遥か向こうから俺を呼ぶ声が聞こえた。集中して資料に眼を通す為に
「おいーッ!三四郎ってばよぅ!」
「…… …… …」
だが、無視を決め込んだ所で所詮現状を変えるコトなんて出来るハズもなく。やがてヤツの手が俺の肩に触れる。
「おい。無視するんじゃねーよ。」
「…… …。なんで此処にいるって分かった。」
俺が眼だけをヤツの方へ向けて云うと、水川は何を当たり前のコトを云っているんだ、という風に呆れて答えた。
「そりゃ、こんなに
「研究室に居たらお前に邪魔されて、マトモに論文も読めねェからだ」
「そんなモン、家帰ってから読めって。
そう云いながら、水川は白衣のポケットから
「… …ハァ。…… …んで、
「ハツコは研究室に籠りッきりだよ。… …ッタク。アイツもアイツで、お前とおんなじで実験にしか興味が無ェ。顔は可愛いのに、ホント面白味の無ェ女だよ」
「…… …一応聞くが、お前の其の考え方の方が、
「無いね。」
水川は一点の曇も無いような快活な笑顔を真っ直ぐ俺に向けて云うので、俺はなんだか
「… …聞いた俺が馬鹿だった」
「ハッハッハ!マァ、そんなに気を落すな、我が友よ!」
何故俺の方が慰めて貰っているのだろうと考えながら、マァでも、そろそろ少しは休憩をとることも必要かと思い、中庭の隅に有る長椅子に水川と一緒に腰を下ろした。
「… ……・。… …三四郎、お前ってさ、年幾つだっけ?」
「二十四」
「ニコも年下かよ。其の堂々たる佇まいは、どう見ても三十過ぎのオッサンだろ」
「… …… …」
「お?何、お前
「るせーよ。てか、そんなコト云いに来たんじゃないんだろ。どうかしたのか。」
「お前は
「… …… …… …」
前かがみで座りながら水川は煙草を深く吸った。其れから顔だけを此方に向け、何処か期待するような表情で俺の返答を待っている。
俺は大学を卒業してから一年間は別の研究所で遺伝についての研究をしていた。染色体異常がどのように遺伝するかを明らかにし、不治の病を無くすコトが命題だった。だが、一生を其の研究に捧げるのだろうと思っていた矢先、俺は突然の異動を命じられるコトになる。命じられた先は、昭和の初め頃に設立されたと云う、聞き覚えの無い研究所だった。『国立脳科学技術研究所』。俺の専門とは全く違う分野だったが、前所長からの半ば強引な推薦に根負けした形となった。一旦働いてみて雰囲気を知ってみれば良い。肌に合わなければ其の時また相談に来い、という前所長の話を純粋に信じてしまうくらいには、当時の自分はまだ純粋な心を持っていたのかもしれない。
前所長の説明では、其の研究所について概念的な内容ばかりが耳についた。脳に未だ多く存在する未使用分野についての早期解明と、其の人工的覚醒。我々は今後、更なる日本国民進化の為、脳についての基礎研究を断固として推し進めなければならない、と云う。云いたいコトは分かるが、俺は一体どういった研究に携わるのかが具体的に理解できない。だが、そんな俺の気持ち等お構い無しに手続きは自動で進められ、なし崩し的に入所日を迎えるコトとなる。其処で同時期に入所したのが、
「アンタ、もしかして竹田三四郎か。」
「…… …何故、俺の名を?」
「ハハ。アンタの論文は面白ェから、全部眼を通させてもらってるぜ。俺は水川真葛ってンだ。此れからよろしくな。… …で、此の隣の小さい女。コイツがあの、天才序開だってさ。」
「……序開… …。アンタが、序開初子なのか。… …其の聡明なウワサは
「…… …。…竹田さんね、よろしく。
序開のコトは昔から或る程度は知っていた。と云うのも、学生時代の目ぼしい論文で良く見掛ける名前だったからだ。序開の名前は何時も当たり前の様に其処に存在し、毎回俺に新たな知見を与えてくれた。水川の名前は聞いたコトがなかったものの、後日ヤツの書いたモノを探して読んでみると、かなり先鋭的であるが非常に興味深く、様々な可能性を示唆させるモノだった。只、俺と序開と比べ圧倒的に発表したモノの数が少ない。是程迄に創造的な思考を持つ人間の名を、何故今迄目にしたコトがなかったのか。水川に聞いてみると、曰く、『書くのがしんどい』とのコト。此の男の性質を端的に表しているエピソードと云えるだろう。研究者であるにも関わらず、眼の前の研究に全く頓着しない此の男の興味が、もっと他に在ったと云うコトに俺は後々気づかされる。
「どうって、どういうコトだよ。」
「なんだよ、お前はなんとも思わないのか。たったの小さな人間が、まるであんな力を持ちえるんだぜ?俺は、此処で過ごせば過ごすほど、日に日に胸の高鳴りが抑えられなくなるよ。」
「… …… …」
「おいおいおい、マジかよ。お前だって最初にアレを見たトキは、子供みたいに眼玉をキラキラさせてたじゃねェか」
水川が少しく落胆したかのように云う。何度も深く吸った煙草の灰がボロボロと地面に落ち、みるみる内に其の身を削っていく。
「… ……。」
全く無反応な俺に、水川が焦れるのも無理は無い。だが、此の研究所に入所してからまだ半年程しか経っていなかったし、其れだけで判断を下すには、まだ早計過ぎると考えていたからだ。確かに水川が云うように、俺も初めて其れを目の当たりにしたトキは、自身の眼の前に展開されている様々な現象に眼を奪われ、心を翻弄されていた。俺が此れまで当たり前だと思っていたあらゆる価値観が崩れた瞬間だった。
国立脳科学技術研究所。元々存在した小さな研究機関を引き継ぐ形で、昭和二年に設立された。単純に見積もっても二十年程の歴史がある研究所だ。だが、国直轄の機関にも関わらず、其の存在は殆ど知られていない。研究所の正確な存在意義を知る者に会うコトも極めて稀だ。唯一、前所長が話してくれた内容によって微かに
此の施設は他の色々な研究施設とは違い、施設の中に研修部屋と称される二十畳ほどの白く殺風景な部屋が、
「おい、見てみろよ、三四郎。何ッだ、アレ。何やら、ペンシルや珈琲カップが宙に浮かんでいるぞ…」
自身の口を丸々塞ぐように手をつけ、大きな眼を開けながら水川が一つの部屋を凝視していた。全ての部屋は廊下側から見るコトが出来るように、比較的広めの窓が備え付けられている。俺も水川の視線を追って窓の中を見た。
記録を取っている所員の眼の前で、机の上にある様々な物に手を添えながら、眉間に皺を寄せ集中している女性が居た。年の頃は三十過ぎくらいだろうか。深緑の着物を着ており、束髪に品の良さそうな飾りをつけている。女性の手元には無差別に選ばれたような様々な物が置いてある。フォークとナイフ。其れから
「… ……此れは、一体… …」
「何らかのエネルギーが作用しているのでしょうか?」
隣で序開の感心したような声が漏れる。
「…此れは、
俺たち三人を誘導してくれていた所員の
「
「ええ。彼女は念じれば、触れずにあのように物体を動かすコトができるんです。」
「そんな、バカなッ。そんな、不可思議な現象があって堪るか」
水川が思わず口をついて出た言葉は、傍から聞いていればとても滑稽に聞こえるものの、俺も序開も其れを嘲笑するコトは出来なかった。眼前で今正に現象として起こっているにも関わらず、水川同様、俺も序開もまだ其の現実を受け止めるコトが出来なかったからだ。
だが、俺たちのこのような反応は既に様式美と化しているのだろう。
「おお、君か。どうした。」
「此の三人が本日付でウチに入った奴等だ。すまんが、また
「そりゃ、構わないが。… …じゃあ、岸さん、少しだけよろしいでしょうか?身体の方は、まだ大丈夫です?」
岸と呼ばれた女性は、微笑みながらゆっくりと頷いた。
俺たちは隅に置かれた椅子に座りながら、少し離れた所で暫く彼らの実験を眺めていた。
所員は何度か回数に分け、女性が
それらを見ながら隣で片倉が補足説明を始めた。実験に携わっている此の女性のような超能力者のコトを
「マァ、此れだけ居ても、実際にモノになるのは一割にも満たないんだけどね。」
「… …モノになる?」
「あぁ。あの女性も此の研究所に入ってそろそろ一年くらいにはなるが、其れほど目立った成果がみられない」
「あの、モノになるとは、具体的にどうなるコトなのでしょうか?」
序開が疑問に思ったコトを口にした。片倉は其の言葉を聞いて、自身の説明が足りなかったと気が付いたようだった。
「… …アァ、済まない。……詰まり、実戦に足りうる実力を備えているかどうか、と云うコトだ。」
「… …実戦……」
「此の国立脳科学技術研究所は、超能力者を発掘育成し、
「
「我々の組織はまだ小さいものの、此の研究分野は此れからもっと重要になってくるだろう。人間の内に秘めたる
「…… … …」
俺たち三人は言葉が出なかった。既に二度の大戦は終わり、国民は其の戦争の悲惨さにウンザリしたものだった。其れらを乗り越えて今、街は目まぐるしい勢いで復興を始めている。だが、俺たちの眼の前に広がっている此の現実は、未だ戦争と云う名の
「お前等三人が