第54話 利助と良蔵

文字数 1,734文字

 年が明けて、安政四(一八五七)年二月。
 十七歳になった伊藤利助は、支頭の来原良蔵の手附として、相州三浦郡上宮田村にある長州藩の陣営に詰めていた。 
 ペリーが浦賀に来航したのを機に、幕府から江戸湾の警備を命じられた長州藩は、ここ上宮田村に陣を構え、六つの砲台と約九百人近くの藩士達を配置していた。
 利助は安政三年にこの陣営に来て以降、日課として暁七つごろに良蔵の小屋に足を運んで、『書経』や『詩経』の講義を彼から受けていた。
「禹の訓に『民は歩み寄るべきものであって見下すべきものではない、民は国の基であり、基が固ければ国は安寧である』っちゅうもんがある。そもそも君と民との関係は、力をもって説明するときは、尊卑の分が天地ほども隔たっていて並々ならぬようであり、情をもって説明するときは、互いに助け合ってしかるべしとするのである」
 まだ夜も明けきらぬ暗闇の中、良蔵は蝋燭の光を頼りにして利助に『書経』の講義をしていた。利助は寒さに震えながら寝ぼけ眼で講義を聴いている。
「じゃけぇ力が衰えると民は離れていき、情が親密になると民と調和するようになるのである。また民が国の基である以上、例え秦のように強かったとしても、その基が脆弱であれば滅亡は免れんのである……今日はいつになく眠そうじゃな、利助よ」
 今にも寝てしまいそうな利助の様子を見て、不快な気分になった良蔵は講義を中断した。
「申し訳ありませぬ。昨夜はずっと次郎衛門殿の小屋の小火騒ぎで奔走しちょりましたけぇ、ろくに寝ていないのであります。それにこの真冬の寒さもわしにはどうにも堪えて仕方がありませぬ」 
 利助は謝罪しつつも愚痴をこぼさずにはいられないといった様子だ。
「黙れ! 侍がこれしきの艱苦に耐えれんでどねーする! そもそも儂等がこの陣営に詰めておるんは、異国が攻めて寄せてきた時に、それを防ぐ盾となってこの国を守るためなのじゃぞ! なのにその情けない様は一体なんじゃ!」
 利助の愚痴を聞いた良蔵は烈火の如く激怒し、その様を見た利助はただただ驚き固まっている。
「まったくお主の弛みようには呆れてものが言えんわい! よし今からこの陣営の中を歩くときは草履を履かず、素足で歩け! おめぇの性根を叩きなおすにはちょうどええ荒療治じゃ!」
 良蔵は声を荒げると利助に自分の小屋へ帰るよう促した。
「そんな、こねー真冬の中を素足で行動するなど、わしには到底できませぬ。これからはしっかりと来原殿の講義を聴きますけぇ、どうか勘弁して下さい」
 利助は今にも泣きそうな顔で良蔵に訴えかける。
「利助、儂は何もお前が憎くてこねーな事を申し付けちょるわけではないぞ。もし異国と戦するようなことになれば、戦いの最中に草履を失くして代りのもんを見つけられんとゆうた事態に出くわすことも必ずあるはずじゃ。その時に常日頃から素足で行動することに慣れちょるのと慣れちょらんのでは雲泥の差がある。じゃけぇ儂はお前に近日中には必ず素足で行動することを命じるつもりでいたのじゃ」
 良蔵は利助の顔を見て感情の高ぶりが収まったのか、諭すような口調で真意を話した。
「それに例え手附であったしても、一度この陣営に派遣されてきた以上は常に戦で命を落とす覚悟をしなければいけん。それぐらいの心持ちでなければ、この江戸湾の警備は到底務まらんのじゃ」
 すっかり落ち着きを取り戻した良蔵は続けて、
「それと今思い出したのじゃが、確かお前が交代で萩に戻るんは今年の八月ごろであった記憶しておるが間違いないか?」
 と唐突に尋ねた。
「そうで御座いますが、何故そねーな事をお尋ねになるのですか?」
 利助が不思議そうな顔で尋ね返す。
「もし萩に帰ったら、松本村の吉田寅次郎を訪ねるようにゆうておこうと思うちょったからじゃ。この男は儂の古い友人で今松下尊塾ちゅう塾の塾主をしちょるんじゃが、上は大組の侍から下は足軽中間の子まで分け隔てなく門戸を開いちょるみたいなんじゃ。儂が今まで出会ってきた人間の中で、寅次郎の才と識に及ぶ者は誰一人としておらんかった。お前もぜひ一度会って話をしてみるとええ。添状は儂が書いちゃるけぇのう」
 良蔵はニッコリ笑って言うと、彼を自身の小屋へと帰らせた。  
 
 
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