第76話 安政の大獄、始動す

文字数 1,199文字

 一方、江戸では井伊直弼が強権政治を展開していた。
 幕府の違勅調印に反発して井伊の元に押しかけてきた一橋慶喜や水戸の徳川斉昭・慶篤親子、越前の松平慶永、尾張の徳川慶勝などを、将軍家定の命の元に蟄居謹慎に追い込んだのを皮切りに、条約調印の勅許を得られなかった老中堀田正睦の解任、紀州藩主徳川慶福(後の家茂)の将軍継嗣内定を矢継ぎ早に決め、家定が亡くなり僅か十三歳の家茂が正式に将軍となると、いよいよ歯止めがきかなくなっていった。
 この日、直弼は江戸城本丸の御用部屋に老中達を集め、朝廷から水戸に下った密勅の対応について話し合っていた。
「帝の勅が幕府を飛び越えて水戸に下るなど前代未聞のことじゃ! しかも幕府には水戸よりも二日遅れで勅が届くとは! これでは幕府が水戸の下に置かれたも同然! 水戸には一刻も早う勅を幕府に返納させねばなるまい!」
 堀田正睦が解任された後、井伊の意向で老中に返り咲いた間部下総守詮勝が鼻息を荒くして息巻いている。
「下総殿の申す通りじゃ! 帝から直接水戸に勅が降下されたこと自体、由々しきことであるのは申すまでもないが、その中身も容易ならぬ! 勅の写しを水戸から他の諸侯へ回達など狂気の沙汰じゃ! このままでは幕府の威信は地に堕ちることとなりましょう!」
 間部と同じく老中に返り咲いた松平和泉守乗全も水戸に密勅が下ったことに憤りを感じていた。
「儂に反発してきた一橋や水戸、越前、尾張などを蟄居謹慎させれば事足りると思っておったが、どうやら見込みが甘かったようじゃな」
 直弼は難しそうな顔をしながら呟くと、何かを思案し始めたらしく急に黙り込んだ。
 しばらくの間、間部達が固唾をのんでその様子を見守っていると、直弼はついに沈黙を破って、
「愚かな肥後守と信濃守が先走って、勝手にハリスとの条約締結に踏み切ったことがそもそもの発端ではあるが、このような事態になってしまった今となっては致し方あるまい。京の手入れを本格的に始めるより他ないようじゃな」
 と並々ならぬ様子で決意表明をした。
「京の手入れとは、もしや攘夷浪士共を一網打尽になさるおつもりで御座いますか?」
 松平和泉守が恐る恐る尋ねる。
「左様。京におる攘夷浪士共はもちろん、密勅の降下に関わった水戸の者達や、摂関家などの公卿、及びその家臣達も処分の対象とする。この国難を乗り切るには不穏分子を徹底的に根絶やしにせねばなるまい」
 この未曾有の状況に対し直弼はどうやら腹をくくったようだ。
「これらの者達の処分は下総守、お主に任せたいと思う。これより京に上って、所司代の酒井若狭守と協力し不届き者達を取り締まるがよい」
 直弼が間部下総守に京への上洛を命じると、間部はうれしそうな様子で、
「かしこまりました! 掃部頭の仰せのままに致す所存で御座います! 幕政を乱す不埒者共は、この間部が取り締まってご覧に入れまする!」
 と意気込んだ。
 
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