第72話 周布政之助

文字数 3,258文字

 条約が締結されてから一月後、晋作は一人松下村塾の塾舎へと足を運んで、寅次郎に頼みごとをしていた。
「一生のお願いで御座いまする! わしの江戸遊学が実現するよう、藩の御重役に頼み込んではもらえんでしょうか?」
 晋作は塾舎の畳に頭をめりこむほどの土下座をしながら懇願している。
「わしの爺様は何事もなく無事平穏に人生を終えるよう遺言されましたが、やはりわしには無事平穏などというものは性に合いませぬ! 帝のお許しがないまま条約が結ばれた今こそ、混迷を極めている江戸へ行き、そしてそこで諸国の傑物達と切磋琢磨しながら学問を学びとうございまする! 先生はかつて明倫館の兵学師範を務めちょった関係で、藩の御重役の方にも顔が利くと聞き及んじょりまする! どうか、どうか先生のお力でわしの江戸遊学が実現するようにして頂けぬでしょうか?」
 久坂だけでなく、吉田栄太郎や松浦亀太郎といった他の塾生達も続々と江戸や上方へ遊学している現状に内心焦りを感じていた晋作は、何が何でも江戸に遊学せねばという強い使命感に駆られていた。
「頭を上げんさい、高杉君」
 晋作の願いを聞いた寅次郎はいつもの礼儀正しい口調で言った。
「江戸へ遊学したいっちゅう君の気持ちはよう分かりましたが、そねー他力本願な態度ではいけんぞ。本当の意味で学問を学ぶことができる者は、志を立て、なおかつ自力本願を常としちょる者だけじゃ。それが分らんうちは江戸へ行ったところで、学べることは何もないでしょう。ただ徒に時と金を浪費して終わりです」
 寅次郎は口調こそ丁寧であったがその内容は極めて辛辣だ。
「ではわしは一体どねーしたらええのでしょう? 爺様も亡く、父上も江戸におる現状において、何をどねーしたら江戸へ遊学できるようになるのでしょうか?」
 寅次郎に自身の願いを否定された晋作は困惑している。
「ならば一度周布様に会うて話をしてみることじゃ。周布様はすでに君のことをご存じじゃけぇ、必ず会うて君の話を聴いて下さるはずじゃ」
 寅次郎が晋作に助言した。
「周布様ですか? 周布様とはもしかして、先月右筆役にお就きになられたあの周布政之助様のことでお間違いないでしょうか? 先生」
 晋作は何故周布に自分のことが知られているのか、皆目見当もつかなかったため、ますます困惑する。
「如何にも。坪井九右衛門様が長州と上方を結ぶ交易に失敗して失脚した後、その政敵であった周布様が藩政に復帰したことは君もよう存じとろう。僕はこの周布様とは旧知の仲でな、以前君が作成したご家老の益田右衛門介様宛の意見書を周布様にお見せしたところ、なかなかおもしろき若者じゃ、是非一度会うて話をしてみたいものじゃっちゅうていたく君のことを気に入っておった。添状を書くけぇ、明日にでも周布様のお屋敷に行きんさい。僕ができることはあくまで君にきっかけを与えることだけじゃけぇ、江戸遊学が実現するかどうかはすべて君次第じゃ」
 寅次郎は紹介状を書いて晋作に手渡した。




 その翌日、寅次郎が書いた添状を持った晋作は、萩城下土原にあった周布の屋敷を訪ねた。
「お主が高杉晋作か。なるほど寅次から聞いとったとおり、なかなかええ面構えをした若者じゃのう」
 寅次郎が書いた添状を読み終えた周布は晋作の顔をじっと見た後、感心したように言う。
「して此度は如何なる用向きで我が屋敷へ参ったのじゃ? 申してみよ」
「わしが今回周布様のお屋敷へ参ったのは他でもない、江戸遊学の許可を得るためであります! 今この神州は勅許がないまま条約が締結されたことで大きな混乱が生じており、そして混乱が生じたのを機に諸国の賢材達が続々と江戸に集まり、日夜この国の在り方について議論を戦わせちょると聞き及んじょりまする。わしもその中に飛び込んで己の見識を高めたく存じちょります。わしはこのご時世において何もせずただ安穏と萩に居ることは、自身の命を無駄にすることと同義じゃと思うとります! どうか周布様、わしの願いを何卒お聞き届けにはなってはもらえんでしょうか?」
 晋作は寅次郎に江戸遊学を懇願した時と同様必死の思いであった。
「相分かった。お主の願い、この周布政之助がしかと聞いたぞ」
 周布は笑いながら言うと続けて、
「それを踏まえてお主には一つ尋ねたきことがある。この長州の行く末にも関わる大事な事柄じゃ」
 とふいに質問をしてきた。
「尋ねたきこととは一体どねーなことでございまするか?」
 自国の行く末に関わることと聞いた晋作は身構えるような気持だ。
「幕府から命じられちょる兵庫の守備のことについてじゃ。例の条約が結ばれた後、幕府は京の守備を高松・松江・津・桑名の四藩に、大阪を備前・土佐・鳥取の三藩に、堺を柳川に、そして我が藩には兵庫を守備するよう命じられたことは寅次から既に聞いとるじゃろう。ぺルリの来航の時にも、相州守備を幕府から命じられたことで我が藩の財政は急激に悪化し、そしてそれを立て直すべく坪井が長州と上方との交易を推進しようとするも失敗に終わり、その後に村田様の意思を継ぐこの儂が藩政に呼び戻された。坪井が失脚して再び藩の政に携わることができるようになったこと自体はまっことありがたいことではあるが、正直この難局に対しどねー対処すればええのか分らん。もし何か意見があれば遠慮なく申してみよ」
 周布が真剣な眼差しで晋作を見ながら藩政のことについて尋ねると、晋作は意を決し、自身の意見を忌憚なく述べ始める。
「わしは兵庫の守備を辞するべきじゃと存じちょります。兵庫は堺・大阪と対持し、京の唇歯とゆうても過言ではない重要な土地である以上、ここの守備を固めるのは至極まっとうなことではありまするが、勅に違いて異人共と条約を結んだ幕府の魂胆が分らぬまま、その幕府の命で軽々しく大軍を挙げて兵庫に陣するのは軽率と呼ぶ他ございませぬ」
 晋作の話はまだまだ続く。
「かつてぺルリが横浜に来航したおり、幕府は松代・小倉の二藩に横浜の応接所を警衛するよう命じましたが、その目的は異人共がよからぬことをせぬよう見張ることではなく、異人共の身辺を守ることにあったけぇ、二藩は愕然としたと聞き及んじょりまする。そしてそれを知った二藩は応接所の警衛を辞そうとしたが、既に幕府の命に従って軍を出してしまった後だったけぇ手遅れと相成り申したとか。兵庫は条約で開港することが決まった五港のうちの一つであり、異人共がここに来て館を置き市を開いた後に幕府の命でこれを保護したならば、我らも幕府と同じく帝の勅命に背いた賊となりまする。じゃからとゆうて帝の勅に従って異人共を禁防すれば、今度は幕府を敵に回すことになりまする」
 ようやく晋作の話は終盤に入った。
「こねー板挟みの状態になることを阻止するには、軍を発するより前に兵庫の守備を辞するより他はございませぬ。守備を辞する表向きの理由は、我が藩の将は愚かで士も弱く兵庫の守備にはとても向かぬけぇ、他藩に命じられるのが寛容じゃとでも申しておけばええかと存じちょります。またもし幕府が幸いにも勅を奉じて条約を破棄するならば、その時には我が藩と雖も力を尽くし難易を選ばぬと付け加えておけば、長州の大義を天下に立てることも難しくはございませぬ。わしが申せることは以上であります」
 晋作は兵庫の守備についての自身の意見を全て語り終えた。
「うむうむ。さすが寅次が見込んだだけのことはあるのう」
 周布はうれしそうに言うと続けて、
「よろしい、儂の力でお主の江戸遊学の願いを叶えちゃろう。お主の見識は江戸におる賢人達にもまれ磨かれることにより、ますます高まることじゃろうのう。人材こそこの長州の宝、江戸へ行き存分に学問に励みんさい」
 と晋作の江戸遊学を認めた。
「ありがたき幸せにございます! この高杉晋作、江戸で一回りも二回りも大きゅうなってご覧に入れまする!」
 見事江戸遊学の内定を得た晋作は、嬉しさのあまり雄叫びをあげたくなる気持ちを抑えながら周布にお礼を言った。
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