第101話 寅次郎と吉五郎

文字数 1,276文字

 その頃、寅次郎は牢名主の沼崎吉五郎と一緒に『孫子』の暗誦をしていた。
 晋作達から金子だけでなく、筆や用紙、書籍などの差し入れも金六を通じて届くようになっていたこと、黒船密航に失敗して伝馬獄に投じられた折に吉五郎と知り合い、懇意の仲になっていたことも相まって、暇を見つけては『孟子』や『孫子』などの書籍を獄内で暗誦していた。
「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。故にこれを経るに五事を以ってし、これを校ぶるに計を以ってその情を求む。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法なり」
 吉五郎が機嫌よさそうに『孫子』の始計編の一部分を暗誦すると、寅次郎もそれに続いて、
「天とは陰陽、寒暑、時制なり。将とは智、信、仁、勇、厳なり。凡そ此の五者は、将は聞かざることなきも、これを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。故にこれを校ぶるに計を以ってその情を求む……」
 と穏やかな声で『孫子』を暗誦した。
「まさかまたお主とこうして『孫子』を暗誦できようとは夢にも思わなかったぞ、寅次郎殿!」
 吉五郎は寅次郎と『孫子』を暗誦できてかなり上機嫌な様子でいた。
「僕もですよ、吉五郎殿」
 機嫌のいい吉五郎を見た寅次郎もうれしそうに笑っている。
「もうここには二度と入獄することはないじゃろうと思うとりましたが、どうやらそれは誤りでございました。僕と牢獄は切っても切れない縁で結ばれておるのやもしれませんのう」
 寅次郎が冗談を言うと余程おもしろかったのか、吉五郎は大笑いし始めた。
「はははははははは! 寅次郎殿はしばらく見ぬ間に随分御冗談がうまくなったとお見受けする!」
 しばらくの間吉五郎は大爆笑し、それを横目に見ながら寅次郎も笑っている。
「ところで寅次郎殿。田島のことについてなのだが……」
 周りに他の囚人達を侍らせて、寅次郎をおもしろくなさそうな様子で見ている牢役人の田島伝左衛門を確認した吉五郎が表情を曇らせた。
「あの男は俺とお主が懇意の仲であることを大層妬んでおるみたいでな、囚人達の間では田島がお主を亡き者にしようとしていると専らの噂になっているみたいなのじゃ。今の田島はお主に自身の立ち位置を取ってかわられるのではないかと疑心暗鬼になっておる。牢名主である俺からも妙な気をおこさぬよう田島にきつく申すつもりではおるが、お主も用心するようにしてくれ」
 吉五郎が心配そうな様子で寅次郎に言うと、寅次郎は落ち着き払った様子で、
「僕の事をご心配下さりありがとうございます。しかし僕は決して田崎殿の地位を奪うつもりはございませんし、ましてや殺されるつもりなど毛頭ございませんよ。もし田崎殿が僕にあらぬ疑いをかけちょるとゆうのであれば、至誠をもって彼を説得してご覧に入れまする。ですのでどうかご安心下さりませ」
 と吉五郎の提案を断った。
「至誠をもってか……獄の中の囚人だと申すのになんと真っすぐなことよ。いや、真っすぐ過ぎたからこそ、今こうしてここにおるのかもしれんな……」
 吉五郎は意味深な事を言うと寅次郎に自身の座に戻るように促す。
 
 
 
 
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