第90話 非情な通達

文字数 1,466文字

 安政六(一八五九)年四月。
 長州藩主の毛利慶親は江戸桜田にある藩邸にて、家老の益田右衛門介や周布政之助、昨年十月に直目付に就任したばかりの長井雅樂等とともに、幕府から命じられた寅次郎の江戸召還についてどうするかを話し合っていた。
「ここは素直に幕府の命に従って、寅次郎を江戸に送るべきかと存じちょります......」
 家老の益田は寅次郎を引き渡すべき旨を口にするも、何か思う所があるのか、表情に苦渋の色が見てとれる。
「もしここで寅次郎を庇い立てしようものなら、却ってあらぬ疑いを招くことになりかねませぬ。断腸の思いではありますが、寅次郎の身柄をこのまま幕府に差し出すのが妥当じゃと儂は思うちょります......」
 益田は自分の本心を殺しながら寅次郎の江戸送還を主張した。
「お待ち下され、益田様!」
 周布が益田に異議を申し立てる。
「寅次郎を幕府に引き渡す必要は御座いませぬ! 野山獄内で病死したことにして墓を作った上で、当の本人を櫃島辺りに流せばそれで事足りまする! 横暴な掃部頭はいずれ失脚するけぇ、それまで寅次郎の生存を隠し通せさえすれば、きっと状況も変わっておりましょう!」
 何としてでも寅次郎を守りたい周布は必死になって寅次郎の江戸送還を阻止しようとした。
「お言葉ですが、周布殿」
 長井が澄まし顔で周布に話しかける。
「貴方はそれで本当に幕府の、掃部頭様の目を誤魔化すことができると思っておられるので御座いまするか? 鼠一匹の謀反も許さぬ掃部頭様のこと、きっと寅次郎の墓を暴いて、死体を確認させるための役人を藩内に差し向けてくるじゃろう。もしその時に寅次郎の墓が空であることが判明すれば、我が殿も水戸や越前、尾張、宇和島、土佐の二の舞になるのは必定。そねー危険な賭けに我が殿を、この長州を巻き込むなど持っての他でございます」
 慶親や藩への忠義心だけでなく、幕府への忠義心も熱かった長井は徹底的に周布の意見を批判した。
「ならば寅次郎と歳も背格好も近い男の死体を探し出して代わりに埋葬すれば、それで済む話ではござりませぬか? この防長二ヶ国から寅次郎に似た男の死体を探し出すんはそねー難しい話ではござりますまい!」
 周布は長井に批判されてもなお自説を曲げようとしない。
「仮に寅次郎と似た男の死体を見つけ出せたとしても、幕府の目を欺き続けることが難しいことには変わりない。偽の墓作りに関わった者の中から、うっかり者が出たらそれで終いじゃからな。緘口を徹底したとしてもばれるときはばれるものじゃけぇ、益田様の仰られちょる通り、寅次郎を幕府に引き渡す以外の手立てはないっちゃ」
 しつこく食い下がる周布に対し、長井は突き放したような物言いで答えた。
「殿、如何なされるおつもりでごさいますか?」
 一言も口をきかぬ慶親に対して益田が恐る恐る問いかける。
 問いかけられた慶親はしばらく目を瞑って黙ったままであったが、やがて重い口を開き、
「ここは益田や長井の申す通り、寅次郎を幕府に引き渡すことにする。長井は小倉源右衛門と供に急ぎ萩へ戻り、そのことを寅次郎に知らせるのじゃ」
 と寅次郎を江戸に送還することに決定した。
「殿……そんな……そねーなことが……」
 慶親の決定に絶望した周布は言葉もまともに発することもできなくなる。
「周布よ、お主の気持ちもよう分かるがここは黙って耐えるのじゃ。今の長州に幕府と真っ向から戦って勝てるほどの力などないけぇ、こねーするより他ないのじゃ」
 慶親は悔しそうな表情を浮かべながら周布を慰めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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