第68話 祖父の死
文字数 1,855文字
晋作が帰宅の途についている頃、高杉家の屋敷では病に伏せる又兵衛を晋作の母道が懸命に看病しており、その様子を孫娘の栄が心配そうに見つめていた。
「爺様、一体どねーなってしまうんじゃろうか……」
栄が不安そうな顔で呟くと、突然何者かに着物の裾を引っ張られた。
「ん? どねーしたんじゃ、お光?」
栄は自身の裾を引っ張った犯人である自身の妹に対し、怪訝そうに尋ねる。
「兄上は今どこにおられるのですか? 姉上」
まだ齢六つである光は心細そうにしている。
「きっと散歩にでも出かけておるんじゃろう。爺様がこねーなことになっちょるっちゅう時に、全く!」
晋作の所在について聞かれた栄が憤慨しながら言う。
「あ、兄上が帰ってきたみたいじゃ!」
誰もいないはずの土間から物音がしたのを確認した光はうれしそうに言うと、栄が話しているのも聞かずに全速力で土間へと駆けていった。
「兄上! 今までどこをほっつき歩いちょったんですか?」
光を追いかけるようにして土間へやってきた栄が怒りながら尋ねた。
「江戸屋横丁の辺りを散歩しちょったんじゃ。ずっと屋敷の中に閉じこもっておると息がつまるからの」
晋作が元気のない声で答えた。そのすぐ側では光が構ってほしそうにぴょんぴょんはねている。
「全く! 爺様が今どねーな状態になっちょるのか、兄上もご存じでしょうに!」
栄の怒りはまだ収まらない。
「すまんかったのう、お栄」
しょぼくれた声で晋作が謝罪する。
「爺様は今、奥の座敷でお休みになられちょるけぇ、兄上も一目会うて下さい」
栄はふぐのように頬を膨らませながら言うと、又兵衛が寝てる座敷へと戻っていったので、晋作と光はその後をそそくさと付いていった。
「お粥の熱さは如何でございますか、義父上?」
道が床の上の又兵衛にお粥を食べさせながら尋ねる。
「ちょうどええくらいじゃ。儂は元々熱いものが好みじゃけぇ、もう少し熱くても別に支障はなかったんじゃがのう」
又兵衛は強がりを言ったが、その声はどこか弱弱しい。
「爺様、兄上が帰って参りました」
奥座敷の入口についた栄は兄の帰宅を告げると、自分の後ろにいた晋作に中へ入るよう促す。
「ただいま戻りました、爺様」
晋作が奥座敷の中に入って又兵衛にあいさつすると、晋作の後に続いた光が「爺様!」と言って又兵衛に飛びついてきた。
「おお! 戻ったか晋作!」
又兵衛はうれしそうに言うと飛びついてきた孫娘をあやしながら、
「これから晋作に話したいことがあるけぇ、すまんが晋作と二人きりにさせてもらえんかのう?」
と道達に席を外すよう頼んだ。
「別に構いませんが、どねーなことをお話しなさるおつもりで?」
道が首をかしげながら尋ねてきた。
「なに、野暮用じゃ。そねー長くはならんはずじゃ」
又兵衛は笑いながら言う。
「分かりました。では私達は茶の間に戻っちょります」
道は栄と又兵衛にじゃれついている光を連れて奥座敷を後にした。
「さて、晋作。お前ももう既に分かっちょるじゃろうが」
晋作と二人きりになったのを確認した又兵衛が話し始める。
「儂の命はもう長くはない。最近体が異常に重くてな……。まあ今年でもう七十三じゃけぇ、これも天の思し召しなのかもしれんのう。じゃけぇお前に言い残して置きたいことがある」
又兵衛が孫に死期が近いことを告げると、晋作の表情が硬くなった。
「西欧列強の脅威が日増しに大きくなるにつれ、ますますこの防長二国は、いんや日本国は荒れに荒れるじゃろう。そねー混沌とした世において、わしが望むことは一つ……たった一つじゃ……」
喋っている途中で息が苦しくなってきたのか、又兵衛はごほごほとむせ始めた。
それを見かねた晋作が「爺様!」と言って、又兵衛の背中をさすり始めると、又兵衛はそれを制止して遺言の続きを喋り始めた。
「はあはあ……それはお前が何事もなく無事平穏に人生を終えることじゃ。儂はお前に特別なことは何も望んじょらん。お前が父様の跡を継いで高杉家の当主となり、そしてこれといった過失もなくお役目を全うする、これに勝る望みなど何もない。前にもゆうたと思うが、決して大それたことはしてくれるな。高杉の家を絶やすようなことはしてくれるなよ……」
又兵衛は孫に自身の願いを託すと、そのままぐったりして動かなくなった。
この会話から数週間後の安政五年四月七日、孫の平穏をただひたすら案じ続けた祖父高杉又兵衛はこの世を去った。
その最期は孫の無事平穏を望んだ又兵衛らしく、眠るようにして静かに息を引き取った。
「爺様、一体どねーなってしまうんじゃろうか……」
栄が不安そうな顔で呟くと、突然何者かに着物の裾を引っ張られた。
「ん? どねーしたんじゃ、お光?」
栄は自身の裾を引っ張った犯人である自身の妹に対し、怪訝そうに尋ねる。
「兄上は今どこにおられるのですか? 姉上」
まだ齢六つである光は心細そうにしている。
「きっと散歩にでも出かけておるんじゃろう。爺様がこねーなことになっちょるっちゅう時に、全く!」
晋作の所在について聞かれた栄が憤慨しながら言う。
「あ、兄上が帰ってきたみたいじゃ!」
誰もいないはずの土間から物音がしたのを確認した光はうれしそうに言うと、栄が話しているのも聞かずに全速力で土間へと駆けていった。
「兄上! 今までどこをほっつき歩いちょったんですか?」
光を追いかけるようにして土間へやってきた栄が怒りながら尋ねた。
「江戸屋横丁の辺りを散歩しちょったんじゃ。ずっと屋敷の中に閉じこもっておると息がつまるからの」
晋作が元気のない声で答えた。そのすぐ側では光が構ってほしそうにぴょんぴょんはねている。
「全く! 爺様が今どねーな状態になっちょるのか、兄上もご存じでしょうに!」
栄の怒りはまだ収まらない。
「すまんかったのう、お栄」
しょぼくれた声で晋作が謝罪する。
「爺様は今、奥の座敷でお休みになられちょるけぇ、兄上も一目会うて下さい」
栄はふぐのように頬を膨らませながら言うと、又兵衛が寝てる座敷へと戻っていったので、晋作と光はその後をそそくさと付いていった。
「お粥の熱さは如何でございますか、義父上?」
道が床の上の又兵衛にお粥を食べさせながら尋ねる。
「ちょうどええくらいじゃ。儂は元々熱いものが好みじゃけぇ、もう少し熱くても別に支障はなかったんじゃがのう」
又兵衛は強がりを言ったが、その声はどこか弱弱しい。
「爺様、兄上が帰って参りました」
奥座敷の入口についた栄は兄の帰宅を告げると、自分の後ろにいた晋作に中へ入るよう促す。
「ただいま戻りました、爺様」
晋作が奥座敷の中に入って又兵衛にあいさつすると、晋作の後に続いた光が「爺様!」と言って又兵衛に飛びついてきた。
「おお! 戻ったか晋作!」
又兵衛はうれしそうに言うと飛びついてきた孫娘をあやしながら、
「これから晋作に話したいことがあるけぇ、すまんが晋作と二人きりにさせてもらえんかのう?」
と道達に席を外すよう頼んだ。
「別に構いませんが、どねーなことをお話しなさるおつもりで?」
道が首をかしげながら尋ねてきた。
「なに、野暮用じゃ。そねー長くはならんはずじゃ」
又兵衛は笑いながら言う。
「分かりました。では私達は茶の間に戻っちょります」
道は栄と又兵衛にじゃれついている光を連れて奥座敷を後にした。
「さて、晋作。お前ももう既に分かっちょるじゃろうが」
晋作と二人きりになったのを確認した又兵衛が話し始める。
「儂の命はもう長くはない。最近体が異常に重くてな……。まあ今年でもう七十三じゃけぇ、これも天の思し召しなのかもしれんのう。じゃけぇお前に言い残して置きたいことがある」
又兵衛が孫に死期が近いことを告げると、晋作の表情が硬くなった。
「西欧列強の脅威が日増しに大きくなるにつれ、ますますこの防長二国は、いんや日本国は荒れに荒れるじゃろう。そねー混沌とした世において、わしが望むことは一つ……たった一つじゃ……」
喋っている途中で息が苦しくなってきたのか、又兵衛はごほごほとむせ始めた。
それを見かねた晋作が「爺様!」と言って、又兵衛の背中をさすり始めると、又兵衛はそれを制止して遺言の続きを喋り始めた。
「はあはあ……それはお前が何事もなく無事平穏に人生を終えることじゃ。儂はお前に特別なことは何も望んじょらん。お前が父様の跡を継いで高杉家の当主となり、そしてこれといった過失もなくお役目を全うする、これに勝る望みなど何もない。前にもゆうたと思うが、決して大それたことはしてくれるな。高杉の家を絶やすようなことはしてくれるなよ……」
又兵衛は孫に自身の願いを託すと、そのままぐったりして動かなくなった。
この会話から数週間後の安政五年四月七日、孫の平穏をただひたすら案じ続けた祖父高杉又兵衛はこの世を去った。
その最期は孫の無事平穏を望んだ又兵衛らしく、眠るようにして静かに息を引き取った。